noteを書いていて悩むこと、ありませんか?
noteを始めて日常的に文章を書くようになって、悩みがより深くなったことがあります。
それは、「薄っぺらい文章しか書けない」ということ。
もともとも僕は、物事をあまり深く考えない方で、本を読めば読みっぱなし。何か面白いことがあっても、おもしろかったで終わり。
すぐに結論めいたことを話してしまうのも、僕の悪い癖だと思うんですよね。学生時代から友達と話していても、「それを言ったら、話が終わるがな」とあきれられたことも多かった。
そのたびに、僕はつまらない人間だなと思ってしまいます。けっこう真剣な悩みなんです。
読んでいて興味深い、おもしろいnoteの記事を書く人は、文章の中で思考されていることが分かる。いろいろ考えた経緯をたどって、オリジナルな結論にたどりつく、そのプロセスを読むことが面白い。
でも、僕の場合、noteで記事を書いていても表面をさらっとなぞっているだけで深く考えている感触がない。オリジナルな結論にもたどりつけない。
それがもどかしい。
もともと書くことによって、もっと深く物事を考えるようになりたいと思って始めたnoteです。ああっ、僕って薄っぺらい人間だなと嫌になってしまいます。
そんなことを考えていたら、昨日紹介した「本の読める場所を求めて」という本の著者、阿久津さんが、作家保坂和志の小説を引用しながら、こんなことを書いておられました。
「いくら読んでも、感想文も何も残さずに真紀さんの頭の中だけに保存されていって、それで、死んで焼かれて灰になって、おしまい...っていうわけだ。」
「だって、読むってそういうことでしょ。」
※保坂和志「この人の閾(新潮文庫)」
う~ん、確かにそうかもしれない。そう思うと気が楽になる。
そのあとでこうも書いておられる。
「僕にとって読書とはこれが全部だ。何かを学んだり、まとめたり、人と感想を言い合ったりすることを前提としないで、ただ読むだけ・・・その時間を楽しむだけ。ただそれをし続けていたい。
・・・もうひとつあるとしたら、読書という行為を通して僕は、自分がたしかに生きていたという事実、生きてきた時間、記憶、それがふわふわと飛んでいってしまわないように楔を打ち込んでいるのかもしれない。読書という行為を通して人生に、目印をつけながら歩いているのかもしれない。」
この文章を読むと、感想文を書いておられるわけじゃないが、保坂和志氏の文章を通じて、自分なりに考え、それをオリジナルな表現に変えておられるのが分かる。
すごいなあと思う。こんなふうに考えて、表現できるようになりたい。
少しずつ、少しずつ、自分なりの表現ができるようになりたい。
ほんと、一歩ずつですね。
がんばろっ!
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