現像するカメラのペース配分の尊さ(修学旅行とか)
「写ルンです」から、デジカメに切り替わってからもう何年くらい経つんでしょうか。20年くらいは経ってますよね。今になってここについて思いが募ったので整理したいと思います。
現像(なんかこの単語って文字でみるとしっくりこない)するカメラって、依頼出してから数日かかるし、枚数制限が24枚とか少ないし、修学旅行とかでも枚数使い切らないようにペース配分したり。今思うと尊いなと思いまして。現像してそれをアルバムに貼っていく行為もまた尊い。
デジカメの登場はすごかった
デジカメがでたときはまあテンションあがりましたよね。200万画素とか、300万画素とか。試し撮りしまくって。畳を接写して、イグサ(?)の境目まで撮影できていてスゲーって思ったものです。
データの増えっぷりよ
デジカメとなったらもう撮影枚数はほぼ無限ですね。感覚的には。まあホッとしたものです。使い切ってしまうストレスから解放されます。だからバンバン撮影しますね。
ビデオカメラもデジタルでバンバンとります。こっちはHDとかだと容量もばかにならないのでまあ節約する気持ちもありますが、とはいえバンバンとります。
今やいつも持ち歩くスマホで静止画も動画も結構な画素数で撮りまくれます。その機械を持ち歩くハードルすらありません。いつ何時でもバンバン撮れますね。
でも結局撮ったうちの何割くらい後で見ているんだろうって思います。家族の思い出の写真のお気に入り的なのはたまーに見ますが、なんとなく85%くらいは見てないような気がします。
多分死ぬまで見ないんだろうな。。。
自分で毎日noteをやっていて思ってしまった
そして、毎日noteで書いていることもある種のこの状態になっているのでは?と思ったのです。それはよろしくないと。
ですが、そうではないなとすぐに気づきました。そのキーポイントは「清書」です。そして「シナジー」と「遠い類推」です。
記事の執筆は、デジカメのパシャパシャ撮る行為とは違い、テーマと磨き上げと清書を経ています。デジカメのパシャパシャ撮る行為は最高の笑顔を撮るためのもので、決して清書ではないですね。
そして、note記事のテーマは自分の中でシナジーがあって、それぞれに関連があります(これについて別途詳しく書きたいと思います)。なによりもこれらは遠い類推のもと生まれたものです。
まとめ
デジタル化により物理的な制限が減り、短時間にたくさんの成果物を生むことができるようになりました。それで生まれた成果物ひとつひとつの質は相対的に下がります。
ですが、それは清書なのか?ということがキーポイントであると思いました。対して、写真を現像しアルバムに貼る行為が清書だったのだと思います。デジタルであってもこういったことをすれば尊さは失いませんね(それをめんどくさがる僕が尊くなかったのか…)。
最後まで読んでくれてありがとうございます。今日もダジャレを贈ります。
「え!次って豆板醤の当番じゃん!!」4649!
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