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子を産んで一人前論の整理

予め断っておきますが、この記事に限らず、あらゆる私の、そして一般的な論考は、考え方の具象化であり、書いてあることは「そうであってはならない」や「そうでなくてはならない」と言ったものではなく、「こう考える」でしかなく(これを一般に表現と言います)、その考え方を基に誰か(勿論私自身も含めて)に優劣をつけ、更にはヒエラルキーを作ろうと意図するものではありません。

「私はこのように考え、実践している」

に過ぎないのであり、

"他の方々も"、同様に

「私はこのように考え、実践している」

で構わないのです。

勿論、共感されるならそれもそれでいいのです。

結局は自分自身の人生なのですから、自分で価値判断をしていきましょう。

また、これは女性特有の話にもなるので、男として論じるのは極めて難しいですが、難しいなりに表現しようとしている、と言う私の心構えを理解いただけると幸いです。

と言う前置きをした上で、

タイトルの通りのことを論じてみたい。

「子を産んで一人前論」は、一般に女性のお産について述べられていると思う。

密教的に、子を産んだ母親から

「子を産んでない人には分からないでしょうが、産んで初めて大人になった」

的な話が聞かされることは、特に女性には多い(多かった?過去形?)のではないかと想像する。

そしてそれはお産の痛みをある種肯定する為の方便的な意味合いすら持ち、自然分娩と帝王切開、はたまた無痛分娩との差別化、マウントみたいなものに用いられ、最早彼女等は何を学んだのかよくわからないような状況になっていたりもする。

痛み、苦しみの経験、それは確かにその後の様々な辛さを相対化し、和らげる効果を持つかも知れない。

しかしそれは子供を持つ、育てることで得る有意義な効能の内のほんの一部に過ぎないと俺は思っている。

俺には娘がいる。昨年産まれた。コロナ禍で漸く実を結んだ命だ。

当然我が子は可愛い。

こんな我が子を持つことで、俺のの心の中でも大きな変化は現れた。

それは、

「この子の為により良い社会を築きたい」

と言う意志の明確化だ。

俺自身、昔から社会や思想には興味はあり、勉強等々を日々続けてきた。勉強には勿論読書座学もあれば社交もあるし、体験もある。

人一倍社会問題に対する意識が高い自覚はあった。

しかし、それまでの思考は非常に観念的なものに過ぎなかったと、娘を授かって痛感した。

具体的にこの子の為に、汎ゆる配慮をしたい、せねばならない。そしてそれは他者を蔑ろにするものであってはならず、寧ろ受け入れ、共に歩むべきものである。それこそが豊かな社会である。そんな社会を築かねばならない。

と。

子供を持つことは俺にとっては一つの目的の獲得となった。

勿論、子供を俺の目的に従わせるなんて野暮なことは思ってもいない。寧ろそんなやり方は俺の美学には適わない。

少子化もあるし、自由が叫ばれる現代ではあるが、子を持つと言うことにはそんな意味があるのではないか、そしてそれは自分が産んだ、と言う事実ではなく、自分が育てねばならない、育てる必要があると言う自覚こそが齎すものだと思う。

誰かを育てたい、誰かを守りたい、そんな状況が訪れた時、人は少し成長するのではないか、そしてその意識が、より長い未来にまで及ぶ時、人は長期的な思考の必要を迫られ、それを得る為に過去を学び、そこから程よい希望と程よい諦念を得るのだと思う。

未来には希望を持とう。持てるようになることを望もう。

少なくとも、「未来なんてろくでもないもんだ」と言う思考は捨てよう。

希望さえあれば絶望もあるかも知れないがどうにかなることも増えてくる。

最初から絶望してても失い、破壊し、そして奪うばかりだ。

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