それぞれの『ハンチバック』
「ハンチ、バック!」と言って頭の中に剛力彩芽がパンをくわえている光景を幻視している人はどれくらいいるだろう。
ジョイマン水準の言葉遊びだし、実際に『ハンチバック』を読むと〝なんかいじっちゃいけない言葉のような感じ〟もする。
大事なのは〝いじっちゃいけない言葉〟の部分ではなく〝なんか〟とか〝のような感じ〟の部分であって、そもそも〝いじる〟ことの是非自体も別立てで議論の必要がある。
懲りずに「ハレンチパンチ!」と言葉遊びを続けてみるが、ハレパンもとっくに解散しているし、この程度の面白さで障害もからむと深夜ラジオでも拾ってもらえないだろう。
『バリバラ』ならあり得るだろうかと思っていたら、市川沙央氏自身が『バリバラ』に出演されたようだ。
書籍へのアクセシビリティというとどうしても盲人に対する点訳とか読み上げとかそっちの話になりがちで、確かに肢体不自由というか、身体の構造上読書姿勢をとりづらい人たちのことを意識したことがなかったかもしれない。
どっちが主眼というものではないが、障害者の性の話と読書のアクセシビリティの部分が二大トピックだろうか。
前者は容易に立ち入れない、プライベートを取り越してindividualだから公然と話題にしづらいというのもある。
そもトイレとか浴室とか寝室で起こることというのは原則として他人のそれと比較する機会がない。
よく知っている人がトイレの個室では裸にならないと用を足せない人であったとしても、シュレーディンガーの猫ばりに不可知だ。
そこを話題にできるのは当事者故だろうか。当事者だから自虐ネタができる一方で、当事者による自虐ネタが別の当事者を傷つけることもあるだろう。となるとそもそも自虐ネタ自体が筋が悪いということだ。
私は老人介護をしていたからヘビーな自虐を聞く機会はたくさんあった。いわゆる老人のデスジョークである。
「来年の桜は見れないかもしれないから」とケラケラ笑う高齢者を前に、「現実味ありすぎて笑えねーよ!」とツッコんでしまえばもはやコントだ。もう「そんなこと言わないでくださいよ」的なフォローを入れる以外の選択肢はないので「そんなこと言わないでください」のカツアゲの様相である。
でも本当にデスジョークを言わなくなってほしいわけではない。デスジョークを言うことで、彼らは自らの死を自己受容しようとしているのだと思う。つまり自虐ネタは、セラピーでありセルフケアなのだ。
「当事者意識を持って」なんてスローガンを聞くこともあるが、誰しも最初から自分自身の当事者である。ならば自分自身の当事者性を自覚し物語ることができれば、小説は誰もが書けるようなものになるのだろうか。
わからないけど試してみたくなる。十年以内に芥川賞とれないかやってみる価値はありますぜ!
や、言うだけならただ。されどただより高いものはない。一人だとやれる気しないから、これを読んでるみんなで芥川賞とろうな!