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語られないもの

言語が世界の限界である、とはウィトゲンシュタインの台詞である。

つまり、私たち人間の情緒、感情、感性、そして世界解釈は言語に依存している。言語こそ人なのである。

一般的に人間は、歳を重ねるにつれて様々な経験をし、その過程で自己の世界解釈を言語を行使しながら拡張していく。そしてその深度は勉強をすればするほど深まり、密度をさらに濃くするだろう。

そうして自己の眼前に広がる世界は、「語られるもの」として処理され、認識されていく。

花でたとえてみよう。花を一つの有機体として見る生物学。花を刹那的な人工美へと昇華させる華道。その花言葉から一つの短編を編み込む文学。その花に憂いと感傷を見出す哲学。花の美しさを定型文に凍結させる詩歌学。花をいつ、どこで、どのように売れば利益を最大化できるかを考えるマーケティング学。

世界解釈を広げるということは、一つのものを豊かに見ることを可能にするということだ。程度の深い感銘を受けたものを言語で形容することである対象への視座が増え、豊潤な時空間へと己を導くことができる。

一方で、どんな角度から見てもなんの風情も感じないものに出くわした時、味わう苦痛は倍加するものだ。自らの世界解釈がこれ以上広がることがないかも知れないという潜在的な恐怖が襲うのだろう。そしてそれを避けるために人間はさらに勉強をし、教養を蓄積し、言語による世界の形容を続ける。

しかし。

言語で形容できる事象は、所詮その程度が知れているのだ。故に言語で語られてしまったものはそれ以降、感動と美しさを失っていき、それが戻ることは二度と有り得ない。

幼い頃の神秘的な感性。クリスマスイブの静謐で、それでいて心の中に充溢する高揚感。音楽と共に記憶の中に編み込まれた、かつて好きだった人との思い出や香り。部活動や少年団の練習を終えた後に夕暮れ時の重い光を伴って訪れる気だるさ。車の車窓から鋭角で入ってきた陽の光によって、全治2秒の傷を目に負った瞬間。

当時言葉にならないほどに心を動かされた日常の中の数々の瞬間は、もう味わうことはできなくなった。歳を重ねて、言語で形容できてしまったからなのだろうか。虚しさがこみ上げてくる。

だから私は、感動を伴うけれど語られないものだけを抱きしめて生きようと思う。

何かに深く感動した時、「感無量」や、「言葉では言い表せない」などという時がある。使い古されたフレーズなのでどこか陳腐な響きはするが、人間の言語如きでは形容できないものが本当の感銘をもたらすとしたら、これらの発言はある種真理なのかもしれない。

「えもいわれぬ」という言葉が使われていた日本も時は流れ、今では「エモい」という言葉が一人歩きをするようになった。きっと先人達はこの世の全てが語られてしまうことを本能的に恐れて、「えもいわれぬ」という言葉を生み出したのだと思う。

しかし個人的に「エモい」という言葉には「えもいわれぬ」という言葉がもつ荘厳さや美しさが含意されていないと思う。自分の世界解釈では風情を感じない対象に遭遇した一部の現代人が、その苦痛に耐えきれなかったが故に、精巧な言語での形容を諦めて利便性に走った結果だと思う。どこか感銘の深度が浅く、軽い雰囲気が感じられる。それはともかく。

これから先の人生、苦痛から救われるために勉強を続け、世界解釈を広げていく一方で、語られてしまったものから感動が失われていくことに絶望するのだろう。

だから私は、永久に語られないものをたった1人で愛することにした。誰かに語る必要もないままに。



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