<フクシマからの報告 2020年春> 津波と原発事故で消えてしまった JR富岡駅前の商店街を再訪 住民の95%が消えた町で ホテル経営に挑戦する地元民に会った
東日本大震災による津波と原発事故で、消えてしまった街がある。福島県富岡町にあるJR富岡駅(常磐線)一帯である。地名では「仏浜」という。前回の本欄で書いた「夜ノ森駅」の一つ南、東京寄りの駅である。
「浜」という地名の通り、海岸からわずか500メートル。ホームから海が見える。静かなときは波が砕ける音が聞こえる。電車は1時間に1〜2本。1898年開業。小さな木造駅舎が立つ、ひなびた駅だった。
↑2003年当時の富岡駅。ブログ「さいきの駅舎訪問」より
2011年3月11日、13メートルを超える津波が上陸したとき、富岡駅も駅前商店街もその直撃を受けた。津波は線路を越えて駅舎を押し流し、線路の反対側にある駅前の商店街や住宅街を押しつぶした。
↑2014年5月15日筆者撮影。津波が駅舎を押し流し、ホームがむき出しになっている。土台しか残っていない。
↓津波が運んだ自動車の残骸がごろごろ転がっていた。2014年5月15日。
↓再建された富岡駅。駅そのものが100メートル北に移され、かつての面影はまったくない。2020年3月9日撮影。
悲劇は続いた。福島第一原発の原子炉3つがメルトダウンして放射性物質を駅一帯にばらまいた。ここは同原発からわずか10キロである。福島第二原発はさらに近い。
↓駅から福島第二原発の排気筒が見える。2014年5月15日撮影
震災翌日の3月12日、富岡町民約1万6000人は強制的に避難させられた。地震と津波で破壊された家や店を片付ける間もなく、人々は隣の川内村へ、そして郡山市へと転々と避難し、やがて散り散りになった。今も町民の95%は戻っていない。
一帯は放射能汚染のため居住が禁止された。駅前の街も無人になった。2017年4月に強制避難が解除されるまで6年間、街は無残な姿のまま取り残されていた。
原発事故以降、私は何度も富岡駅前に足を運んだ。2015年に解体されるまで、駅は津波が破壊したままだった。ホームや線路に自動車の残骸が転がり、電車の来ない線路には雑草が生い茂っていた。
上は2014年5月15日。下は6年後の2020年3月9日撮影。風景が激変しすぎて、かつての撮影場所がどこかよくわからなかった。
原発事故汚染を受けなかった岩手県や宮城県の津波被災地は復興が進んでいたのに、富岡駅前は6年間ずっとそのままだった。胸が痛んだ。
何度か足を運ぶうちに、破壊された民家や商店は解体されて更地にされ、ピカピカの新築ビルやマンションができた。駅舎そのものも100メートル移動した。道路は付け替えられ、町並みが激変してしまった。いま現地に立っても、そこが3.11以前は何だったのか想像することすら難しい。かつての街並みが完全に姿を消してしまった。
この街にいた人たちはどうしたのだろう。どこにいったのだろう。元気にしているのだろうか。
ずっとそのことが頭から離れなかった。
2020年3月8日から11日まで同駅前を訪れたとき、偶然、住民に会うことができた。たまたまネット予約した駅前ホテルの経営者が、そうだったのだ。
↑駅の向かいにピカピカのホテルができていた。2017年10月に開業した「富岡ホテル」である。4階建て。69部屋ある(2020年3月11日撮影)。
話をして驚いた。私が撮影した、津波が破壊した食料品店の店主だった。お話を聞かせてくださいとお願いすると、快諾してくれた。
それが渡辺丈(つかさ)さん(60)である(2020年3月10日撮影)。
かつて津波に破壊され尽くしたJR富岡駅前に2017年にオープンした「富岡ホテル」の代表取締役になっていたのだ。まだ新しい建材の匂いがする、新築ピカピカのホテルだった。
「私たちは前に進みたいんです」
渡辺さんはそう言った。この9年間に、渡辺さんにどんなことが起きたのか。いま何を思い、考えるのか。話を聞いた。
(冒頭の写真は2014年5月15日に筆者が撮影。津波に破壊されたままになっていたころのJR富岡駅)
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