ウクライナ戦争を理解する歴史知識2 第一次大戦で近隣強国すべて瓦解 ウクライナ初の独立国家樹立するも ボルシェビキ・ポーランド・ドイツに潰され ソ連統治下で死者500万人の大飢饉 ウクライナ戦争に関する私見15 2022年8月4日現在
第二回目の本稿は、20世紀に入ってからのウクライナの歴史を述べる。
まずは20世紀前半、第一次世界大戦とロシア革命から。
20世紀になってからのウクライナ史はテンポが早くなり、そして陰惨な出来事が連続で起きる。血なまぐさい。第一次世界大戦が始まった1914年から、第二次世界大戦が終わる1945年の31年間のウクライナは、数百万単位で人が死ぬ戦争、殺戮、破壊、飢餓の連続である。悲惨としか言いようがない。
(冒頭写真はロシア10月革命100周年を祝うモスクワの集会。2017年11月7日。写真=AFP)
第一次世界大戦・ロシア革命とウクライナ
・ロシア、オーストリア、トルコ帝国すべて瓦解
第一次世界大戦(1914〜1918年)は人類史上初めての世界大戦、しかも国力をすべて動員する「総力戦」(total war)である。
過大な戦争の負担に持ちこたえられず、老朽化したロシア、オスマン・トルコ、オーストリア帝国が瓦解した。
3帝国はいずれもウクライナを取り囲んで侵入と支配を繰り返した。それがすべて一時に瓦解した。ウクライナ周辺の国際勢力図に、1200年の歴史で起きたことのない大変動をもたらした。
なお、この時期の「ウクライナ」という空間に地元民族の「国」はないことに留意してほしい。
現在の「ウクライナ」にあたる空間は、ロシア帝国、オーストリア帝国、オスマン・トルコ帝国が分割して統治している。その3帝国がすべて瓦解した。ウクライナは「パワー・バキューム」(力の空白地帯)になった。その間隙を突いて、地元民族が自分の国を作ろうとしたのである。
・停戦のためボルシェビキ政権はウクライナをドイツに譲る
ロシア革命で成立したボルシェビキ(共産主義派)政府は、第一次世界大戦からの離脱を試みる。同盟国の英仏より一足早くドイツとの単独講和に踏み切った。そのときウクライナは「取引材料」としてドイツに引き渡された。
これが下図の「ブレスト・リトウスク条約」(1918年3月)である。ブレスト・リトウスク=Brest‐Litovskは当時のウクライナにあった都市の名前だ(現在ベラルーシの都市『ブレスト』)。
ウクライナにとって何が重要かというと、この条約で、ボルシェビキ政府がウクライナの大半を放棄してドイツに譲り渡したことだ。
上の地図でわかるように、クリミア半島、ドンバスなど現在のウクライナの東端・南端までが含まれる。
つまりウクライナはロシア(ボルシェビキ政府)がドイツとの戦争をやめるための「人身御供」に出されたことになる。
・ウクライナ独立国が初めて国際的に承認
ややこしくて恐縮なのだが、ウクライナ史に
かとってはきわめて重要な部分なのでもう少し詳しく説明する。ものすごく動きが急なのだ。
「ロシア革命=支配国・ロシア帝国の崩壊」というチャンスを捉えて、ウクライナは独立を宣言、ごく短期間だが国際的な承認も得て、はじめて「ウクライナ人の国」を持った。「ウクライナ国民共和国」という。
・ロシアがウクライナをドイツに割譲
・カムバックしたポーランドはさっそくウクライナに侵攻
一方、リビウを中心とするウクライナ西部に舞台を移す。
ドイツの敗戦とロシア、オーストリア・ハンガリー帝国の消滅で、123年間他国の支配下にあったポーランドが復活した。
復活ポーランドはさっそく、オーストリア・ハンガリー帝国の領土だったウクライナ西部(中心はリビウ)に侵攻。それに抵抗する地元勢との間でポーランド・ウクライナ戦争が始まった。
ポーランドにすれば1795年に国が分割解体されて失ったウクライナ西部を123年ぶりに「失地回復」したことになる。
下の地図でも、リビウを中心とするウクライナ西部はオーストリア帝国領からポーランド領に戻った(青→ベージュ)のがわかる。
・ウクライナ政府、西ウクライナを切り捨てポーランドと同盟
前出の地図で、ウクライナがソ連の一部として組み入れられた時点での領土を示す。現在のウクライナと比較すると、西部がポーランド、チェコスロバキア、ルーマニアなどに分割されている。
・誰もウクライナ独立に味方しなかった
実にややこしい。敵が味方になり、味方が敵になる。裏切り・寝返りの連続である。
ウクライナ国民共和国は独立を達成しようと、ロシア(ボルシェビキ政府)の敵対国をパートナーに組んでは抵抗を続けるのだが、次々に裏切られる。第一次世界大戦中はドイツ・オーストリア。両国が負けた後はポーランド。
つまり、ロシア革命というソ連の建国期の1918〜1922年、一貫してウクライナとロシアは戦争し続けている。
この運動を「ウクライナ独立」または「ウクライナ民族主義」と見るか「反共産主義」と見るのか「反ロシア」と見るかは、判断が難しい。ウクライナ国民共和国中枢そのものが、そうした勢力の寄り合い所帯だからである。
一つ言えること。ドイツもポーランドも、ウクライナ(キエフ、リヴィウ)の独立政府を自国のために短期間利用するだけで、すぐに見捨てた。ウクライナ独立を助ける外国はいない。
自分たちの故郷で、外国軍が入り乱れて戦争を繰り広げる。独立を妨げる敵ばかり、入れ代わり立ち代わりやって来る。味方がいない。地元民にすればいい事がひとつもない。
せっかく自民族の独立国を持ったと思ったら、北からはボルシェビキ軍(赤軍)、西からは復活したばかりのポーランドが攻め込んできた。
加えて、帝政ロシア復活を目指すデニキン将軍率いる反革命軍(白軍)、アナーキスト軍(黒軍)、農民反乱・パルチザンなどが入り乱れ、ウクライナは複雑極まる内戦状態になった。
細かな合従連衡は煩雑なので省略する。ウクライナ地元民族の視点で結論をいうなら
「自分以外は全部敵」
「誰もウクライナ独立の味方をしてくれなかった」
だった。
ウクライナ独立勢力もポーランドも白軍も、反ボルシェビキでは共通していたのに、お互いを嫌い合って連携に失敗し、各個撃破された。最後に勝ったのはボルシェビキだった。
こんな大混乱である。キエフを中心にするウクライナ国民共和国にせよ、リヴィウを中心とする西ウクライナ国民共和国にせよ、独立を宣言したものの、行政・司法など政府機構を備えた統治空間をほとんど確立できないまま終わった。
ボルシェビキ政府やポーランド、ドイツなどに追い回され、撤退と流転を繰り返したからだ。「国家」としての実態を持つことができないまま、独立運動組織が政府や国家を名乗るという状態が続いた。
・100年前のロシア・ウクライナ戦争
いま2022年のウクライナ戦争を眼前にする日本人は、次のようなことが学べると思う。
これは2022年のウクライナ戦争とまったく同じだ。
「ウクライナが独立しようとする」
→「ロシアが武力で押さえにかかる」
→「戦争になる」
これは100年前から続くロシア・ウクライナの紛争パターンだということになる。
ソ連統治下のウクライナ:2回の大飢饉
ウクライナの多様性=ひとつにまとまらない
こんな戦争の後なので、ソビエト連邦の一部になってもロシアとウクライナの関係は険悪なままだった。
この1920年代の段階ですでに、2022年の現在にも至るウクライナ内のロシアや共産主義、ウクライナ民族主義への態度の重層性が見えている。
「非ウクライナ人vsウクライナ人」
「ウクライナ独立派vsロシア統合派」
「都市住民vs農村住民」
「知的労働者vs肉体労働者」
などである。
前回本欄で「民族とは水である」と書いた。ウクライナはロシア、ポーランドなど複数の民族の川が流れ込む海である。そこは複数の民族の水が混じり合い、混在している。
こうした複数のエスニシティ(民族性)の存在は、ウクライナの多様性として今日まで残っている。これも前回書いた。エスニシティが多種多様であるということは「国がひとつにまとまることが難しい」ことと同義である。
数百万人が犠牲になった大飢饉(後述)をめぐる現在のウクライナの評価も、親露か反露かによって見解が正反対に異なる。大統領が親露か反露かで「ウクライナ民族を狙った虐殺」「食糧政策の失敗」と政府見解が180度変わる。
以上は「日本人が想像するようなひとつにまとまった『ウクライナ国民』は存在しない」という教訓として学べると思う。
・強制的な食糧徴発で数百万人死ぬ
第一次世界大戦から第二次次世界大戦の戦間期にあたる1920年・30年代に、ウクライナは2回の大飢饉に襲われている。
スターリンはウクライナで農業の集団化を急いだ。その目的を前掲「物語ウクライナの歴史」は次のように記述する。
①工業化を急ぐため、食糧を安く農村から調達して工場労働者に与える。
②機械輸入に必要な外貨を稼ぐため、穀物を輸出する。
③個人主義的で独立意識の強い農民を上意下達の組織に組み込む。
「農業集団化」とは具体的にはこうだ。自分の土地を耕して自活していた農民から土地を集め、国有化し、規模を大きくする。農民はそこで働く「農業労働者」になる(ロシア語で国営農場『ソフホーズ』または集団農場『コルホーズ』)。
自分の土地を手放したくない農民は抵抗した。政府・共産党は強制的な手段を使った。抵抗する者を逮捕しシベリア送りにした。また自活農が成立しないような高率の税金を課した。集団化率は跳ね上がった。
1928年:3.4%
↓
1935年:91.3%
一方集団化が進んだのと反対に、ウクライナの穀物生産は減少した。政府が持っていく徴発量は変わらなかった。
1930年:2100万トン (うち徴発量760万トン)
↓
1931年:1400万トン (うち徴発量760万トン)
つまり生産した穀物の半分以上をモスクワのソ連政府に持っていかれるということだ。
スターリン率いるソ連政府は、革命成功の威信を守るため、飢饉の存在そのものを認めなかった。国際社会からの援助の申し入れを拒絶した。そして穀物の輸出を続けた。
・ウクライナ「飢餓による死は意図的な虐殺」
いったいどれぐらいの犠牲者が出たのか、正確には今もわからない。この大飢饉そのものをソ連が秘密にしたためだ。ウクライナ現地の当局者は死者数を記録することを恐れた。
いろいろ文献を見てみると、300万人〜600万人の間という数字が出てくる。ウクライナだけで350万人が死に、出生率の低下を含めた人口減少は500万人という記述もある。
いずれにせよ莫大な死者数だ。
第二次世界大戦での日本の死者は戦闘員・非戦闘員合わせて262万人 〜 312万人である。それに匹敵、あるいは2倍に相当する人数が餓死したということになる。
ウクライナ側はこの大飢饉を「ホロドモール」( Голодомо́р.
英語:Holodomor)と呼んでいる。ウクライナ語で「飢饉」を意味するホロド (holodo)と絶滅、抹殺を意味するモル (mor) の合成語だ。「飢餓による殺害」 (death by hunger) つまり「意図的に飢えさせて殺した」という意味がある。
ここには「ロシア」または「ソ連政府・共産党中央」がウクライナ人を意図的に大量殺戮した、ウクライナ人を狙い撃ちにして虐殺したという含意がある。犠牲者の数でいえば「ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺(600万人)に匹敵する民族絶滅策だ」とウクライナの視点は主張する。
特にロシアに敵対的なウクライナ民族主義からは、現在もこの見解が聞こえてくる。ロシアによるウクライナへの「加害の記憶」という文脈で語られる。
・全ソ連で1450万人死亡
「凶作なのに、食糧を強制的に徴発した結果、飢饉が起きた」という点は歴史学者の見解は一致している。が、ウクライナ民族の虐殺だったのかどうかは見解が分かれる。
というのは、飢饉はウクライナだけでなく、北カフカース、ヴォルガ川流域、カザフスタンでも起きたからだ。全ソ連での死者数は
農民の死亡者:1100万人
強制収容所での死亡者:350万人
計 1450万人
という莫大な数にのぼる。先ほど第二次世界大戦での日本の死者は戦闘員・非戦闘員合わせて262万人 〜 312万人と述べた。それに比較しても想像が追いつかない、大量死である。
ということは、飢饉はソ連内各地で発生したということになる。ウクライナ民族を狙い撃ちして虐殺したというよりは、無理な食料調達を強行したために、ソ連内の農業地帯がことごとく犠牲になった。それがより正確な理解ではないか。私はそう思う。
これは私見だが、ウクライナ民族を狙って虐殺するとしたら、スターリンは「餓死」というような回りくどい手段は取らないような気がする。
・正確な飢饉の死者数は今もわからない
繰り返すが、大飢饉の正確な死者数は現在に至るまでわかっていない。
最新の研究例として、2010年に出版された”Bloodlands: Europe between Hitler and Stalin “(日本語版『ブラッドランド』は2015年に筑摩書房刊)を挙げる。著者のイェール大学教授の歴史学者ティモシー・スナイダーは「ウクライナ内で330万人+ソ連のウクライナ外でほぼ同数のウクライナ人が死んだ」と見積もっている。
・大飢饉を外国で報道したのは英国人フリー記者だけ
大飢饉の存在そのものを、スターリンは厳重な秘密にした。ソ連の革命を妨害する意図の「デマ」「でっち上げ」「陰謀」などと国内外に宣伝した。「ウクライナに潜入したポーランド人軍事組織」「ソ連の分裂を目論むウクライナ民族主義者」などが「犯人」にされた。
国境は封鎖された。外国人記者たちは監視下に置かれ、飢饉被害地域への移動は禁止された。欧米は大飢饉の発生そのものを知らないままだった。
数少ない例外は、イギリス人フリーランス記者のガレス・ジョーンズである。1933年3月に監視をまいてモスクワからウクライナに列車で潜入。そこで目撃した大飢饉の様子を帰国後、ソ連国外に初めて報じた。
ジョーンズは1935年、日本統治下のモンゴルを取材中に誘拐され、ソ連NVKD(KGBの前身)に暗殺された。ウクライナ飢饉とジョーンズを描いた映画「赤い闇」(ポーランド・ウクライナ・イギリス合作)が2020年8月に日本で公開されている。
・国際社会はソ連の食糧と市場欲しさに飢饉を無視
ウクライナ人は国際世論に訴えようと必死の努力をしたが、届かなかった。ソ連が輸出する穀物を、欧米各国は当時、大恐慌(1929年から1930年代)に苦しむ自国労働者の食糧として買い上げることにしていたからだ。
「ソ連が輸出する穀物」とは要するに、ソ連国内の農民が餓死してまでスターリンが取り上げたものだ。スターリンはそれを取引材料に、自国の国際的な承認を取り付けようとした。
1920年代当初はロシア革命を妨害しようとした欧米日も、当時はソ連政府との妥協に転じていた。ドイツが最初にソ連を承認(1922年)、英仏(1924年)、日本(1925年)が続いた。列強諸国では、もっとも共産主義を嫌うアメリカ(1933年)が最後だった。
こうして1934年、ソ連は国際連盟加盟に成功した。
列強諸国はソ連の穀物と、自国製品を売るためのソ連市場がほしかった。ウクライナを含むソ連国民は、そんな国際社会の利害の犠牲にされた。
・ウクライナでは今も親露・反露で反対の見解
90年を経た今も、ウクライナでは、この大飢饉が「被害の記憶」としてことあるごとに論争にのぼる。特に「対ロシア」になると亡霊のように蘇ってくる。親露か反露かで見解が正反対になるのだ。
2007年 ウクライナ・ユシチェンコ大統領
「ホロドモールはウクライナ人への意図的なジェノサイドだった」と主張し、国連や諸外国の同意を求めるキャンペーンを展開。
ロシアは「飢饉の被害はウクライナ人のみならずロシア人やカザフ人にも広く及んだ」と反論。ウクライナ人に対する民族的なジェノサイドではないと否定した。
2008年 大飢饉75年。キエフに「ウクライナ飢饉犠牲者追悼記念館」開設。2年後に国立施設になった。
2010年 ウクライナ・ヤヌコビッチ大統領
「ホロドモールは、ウクライナ、ロシア、ベラルーシ、カザフスタンの4カ国でおきた。それはスターリンの全体主義体制の結果である。しかし、ホロドモールを一つの民族に対するジェノサイドと見なすことは間違っているし、不公平だ。これはソ連に含まれた諸民族全てに共通する悲劇だった」
ヤヌコビッチ大統領は、2014年にEUへの参加を延期したことで、親欧米派の西部ウクライナ国民の憤激を買い、キエフで「マイダン革命」が起きた。同大統領は国外に逃亡。その権力空白を突いて、ロシアがクリミア半島と東部の親ロシア地域=ドンバス2州の分離運動に軍事介入した。2022年の侵攻まで続くロシアとウクライナの軍事紛争の始まりである。
・加害・被害をめぐる歴史の記憶は紛糾を続ける
大飢饉をめぐる現象から、2022年のいま、私たち日本人が学べることはこうだ。
戦争や侵略、異民族支配、植民地統治といった「負の歴史」は、その当事者の国や集団ごとに解釈が変わる。「加害・被害」という論点が発生するからだ。異なった、時には正反対のバージョンの「記憶」がそれぞれの集団に共有される。
「加害・被害」の記憶は、話し合いで合意に到達するのが難しい。「歴史の記憶」に感情の要素がどうしても混入するからだ。
100年近くが経っても、集団vs集団の見解の相違、エスカレートすると紛争の発火点になる。特にこの当事者の集団が「国と国」に分かれていた場合は、国家間の「論争」「紛争」として延々と尾を引く。
この現象は、日中戦争や朝鮮半島の植民地統治をめぐる日韓・日中の論争・紛争が現在も延々と続く現実と相似形を描いている。その点で現代日本人にも理解できるのではないだろうか。
(2022年8月2日、東京にて記す)
<注1>今回も2冊の文献に依拠していることを特記する。より詳しく知りたい人はぜひ読んでほしい。
<注2>今回も戦争という緊急事態であることと、公共性が高い内容なので、無料で公開することにした。しかし、私はフリー記者であり、サラリーマンではない。記事をお金に変えて生活費と取材経費を賄っている。記事を無料で公開することはそうした「収入」をリスクにさらしての冒険である。もし読了後お金を払う価値があると思われたら、noteのサポート機能または
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までカンパしてほしい。
<注3>今回もこれまでと同様に「だからといって、ロシアのウクライナへの軍事侵攻を正当化する理由にはまったくならないが」という前提で書いた。こんなことは特記するのもバカバカしいほど当たり前のことなのだが、現実にそういうバカな誤解がTwitter上に出てきたので、封じるために断っておく。
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