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フクシマからの報告 2021年夏    俳人・中里夏彦さんが語る原発事故・下 頭では帰れないとわかっていても    心は帰りたいと願い続ける       奪われたふるさとの記憶

前回の本欄で、福島県・双葉町出身の俳人・中里夏彦さん(64)のお盆のお墓参りに同行した報告を書いた。

中里さんが生まれ育った家は、福島第一原発から西に5キロ(道路沿い。直線距離で3キロ)にある。噴き出した放射性物質の雲(プルーム)の直撃を浴び、10年後の現在も立ち入りが禁止されている。いやそれどころか、双葉町全体が人口ゼロの無人地帯である。

 2021年8月13日に撮影した冒頭の写真でもわかるように、今も除染すら手つかず、毎時5.08マイクロSVと原発事故前の100倍を超える空間線量である

 今回は、中里さんとの対話を詳しく書く。

中里さんは、国学院大学文学部在学中以来、40年以上俳句を作り続けてきた俳人である。これまでに「流寓のソナタ」(2008年)「無帽の帰還」(2018年)と句集を2作発表し、今も俳句同人「鬣(たてがみ)の会」に参加している.

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福島第一原発事故と避難生活、思い出の詰まった家や故郷を理不尽に奪われるという、戦争にも匹敵する危機を、言葉を紡ぎ出すことを技とする俳人は、どんな言葉で語るのだろう。

私が中里さんの言葉を歴史に記録したいと考えた理由はそれである。ひとくちに「避難者」「被災者」と言っても、自分の体験や気持ち、考えを言葉で伝えることに長けた人ばかりとは限らない。むしろ苦手な人のほうが多い。過去10年にわたる取材で、私はそのことを痛感してきた。

対話を重ねるなかで、期待に違わず、中里さんは巧みな比喩や語彙で「原発事故体験」を私に話してくれた。

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2021年4月と8月の二回、福島県郡山市のアパートに中里さんを訪ねた(お墓参りに同行したのはその後)。

家族は今も、双葉町が役場ごと避難した埼玉県加須市にいる。中里さん一人だけ、福島県に戻り、勤務していた会社(ショッピングセンター『サンプラザ』。前回本欄参照)の移転と再建に加わった。「単身赴任」ならぬ「単身残留」である。こうした離れ離れの生活をする「避難者」は多い。

一人暮らしの中里さんのアパートは、本が床から天井までを埋めていた。原発事故で追われた家(下の写真)から少しずつ持ち出した蔵書である。

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合計10時間近く話をした。原発事故後の作品が収録された句集「無帽の帰還」を間に置き、句について、その背景について質問した。俳句に無知な私の調子外れな質問にも、中里さんは辛抱強くつきあってくれた。

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 中里さんと私には共通点があった。文学や映画、美術、音楽など、表現文化全般が好きなのだ。ついつい話が脱線し、長くなる。夕方から話し始め、気がつくと午後11時になっていたこともある。

 1957年生まれの中里さんの個人史は、福島第一原発とともに繁栄し、原発事故で破壊された双葉町の歴史そのものに思えた。

 以下の記事では、中里さんの俳句作品を紹介しながら、3回の取材で出た一問一答をできるだけ忠実に再現した。似た話題や重複した話は順番を整理した。上巻と一部話が重複する箇所もある。

中里さんの作品は「多行俳句」というジャンルに属する。改行や空白、字下げにも表現としての意味がある。Note.muの横書きでは再現できない。句集をスキャンして画像として示すことにした。

(冒頭の写真は、10年間帰れないままの自宅に一時帰宅したときの中里さん。線量計が示す毎時5.08マイクロSVは原発事故前の100倍以上。2021年8月13日、福島県双葉町で烏賀陽撮影)

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