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「言語」と「幸せ」
「言語」は「幸せ」と相反するものです。
「言語」とは何か。
「使用」です。(かの哲学者ウィトゲンシュタインも言いました)
例えば長いという言葉。
ある人がそれより短いものと比較して「これ、長いね」と言うことによって、人は長いという言葉の意味を知ります。
このように、周りの人たちの「使用」によって、語の意味は形作られるのです。
つまり、言語の上での語意や定義はとても曖昧だということがわかります。
他にも例を挙げます。
例えば、幸せという言葉。
幸せという語は
「仕事後にビールを飲むのは幸せだ」といった文脈で使われたり、
「お金持ちの彼は幸せだよな」といった文脈で使われたり、
実にいろいろな使われ方をしています。
冒頭で述べた通り、言葉の意味は「使用」の中で作られます。
「仕事後にビールを飲むのは幸せだ」というときの幸せの定義はその人にとって適用されるものです。
お酒を飲めない体質の人にとってはビールを飲むことは苦痛以外の何ものでもないでしょう。
つまり、ある人が使う幸せの定義が、他の人にとっては不幸せの定義にもなりうるのです。
別に幸せという語だけが特別なのではありません。
あらゆる語は使用のされ方によって定義がぶれるのです。
定まった意味などないのです。
「言語」によって幸せを得たと思ったとしても、それは吹けば飛ぶような幸せにすぎません。
言葉遊びにすぎません。
真の「幸せ」は、幸せにも不幸せにもなりうるものではありません。
「言語」による幸せも不幸せも包み込む「幸せ」。
そういったものがあるということに気づいてください。
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