誰も認めてくれなくても、自分で自分を認めることはできる
誰が認めなくても、自分を認める。
悪いと思う点も、認める
良いと思う点も、認める
悪いと思う点は、治したければ治すが、治さなくてもいいと思うならそれもいい。
誰に対していい人にならないといけないのか?
誰に対して完璧な人間でいないといけないのか?
そもそもそんな完璧な人間がいるのか?
そんなことは、どこにも書いていないし、法律でもなんでもない。
それよりも大事なことは、自分がやってきたことを、
「普通のこと」とか「誰でもやっている」と思わないことだ。
誰でもやっている、って本当に世界全員がやっているのか、と言われたらそうではないし、
「普通」とは一定の基準があってそこを基準にして「普通」と言っているだけで、この基準が変われば、国によっての基準も違えば、「普通」ではなく「最高」になる可能性もある。
日本人は謙虚さを美徳としていて、それはそれでいい部分もある。
人に自慢をしない、という点は良い。
(自慢話を聞かされるのは、誰だって嫌だから)
ただ、自分に謙虚になりすぎると、自己肯定ができなくなる。
「もっと上を目指せ」というが、それも大きなお世話だ。
上を目指したいかどうかは本人が決める。
何よりも、本人がどこまで一生懸命にやったのか、なんて、どんなに説明しても誰にもわからない。
それがわかるのは、間近で見ていた家族やスタッフくらいだ。
それなのに、自分では普通のことだと思って認めていないなんて、もったいなくてもったいなくて仕方がないことに気づいた。
誰からも「あなたはサイコー」と言われなくても、自分で自分に「あなたはサイコー」と言うことはできる。
誰からも言われないからこそ、自分で言うのだ。
自分で自分を認めて、褒めて何が悪い。
そのことに今朝、ウオーキング中に気づいた。
当たり前のことだと思っていたから、
自分がどれほど一生懸命やってきたのかを忘れていたが、それがふっと蘇ってきたのだ。
もちろん、一生懸命にやったのは、自分がやりたかったからだ。
それでも、自分がやりたくてやったのだから、自分で自分を褒めなくていいなんて
おかしな理屈だ。
それに気づいて、ウオーキングをしながら、私は
「いやー、すごい。そこまでやる人なんていないよ」
と自分に言っていた。
誰かと比較する必要もない。
自分で自分を認められたら、それでいいのだ。
その自信があるから、次のステップに進める。
新しいことに挑戦できる。
誰かに自分の人生を批判する権利なんてどこにもない。
誰かに自分の人生や生き方を、ジャッジする権利もない。
誰も知らないことを私は知っている。
だからこそ、自分で自分を認めるのだ。
それを自己肯定感というのかどうかは、よくわからないけど、私は私の魅力に気がついた。
誰も、ほとんど面と向かっては言ってくれないけど、私は自分でわかっている。
だから、自分を褒める。
誰かに褒められたくて、認められたくてやるのではない。
自分で自分を褒められるくらいに、認められるくらいにやるのだ。
全ての基準は、自分。
そうした確固たる自分を再確認できたことで、力強く、次の目標に向かっているところだ。
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