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自分に還ってきた


訳がわからない言葉を書いていると思うが、今日ふとそんな言葉が浮かんだ。
今まで自分の肉体の中に、なんだか違う魂?、心?、があったような感覚だ。


肉体と魂は普通セットなのだが、世間の常識や価値観に塗れてしまって、本来自分が持っていた本当の自分が見えなくなってしまっていた感じがする。


本来の自分がいなくなっていて、なんだか違う人が自分の中にいたような感覚は、その真っ只中の時には絶対に気づかない。

自分を自分の中から見ているからわからず、外側から見ると「なんだか自分の体にはフィットしない価値観が入っているけど」と気づくのだろうけど、今自分が周りの価値観や、世間の常識とは違う価値観や、幸せ感を持っていることに気づいてから、ようやくわかったことだ。


ちょっとわかりにくいかも知れないので、例を挙げよう。

例えば、本当は一人でいることが好きなのに、世間の常識では年ごろになれば結婚して子供をもつと言う常識がある。

今では随分それも薄らいでいるが、やはり大半の人たちはその常識がある。

それは本当にそう思っている人ならば、全く問題ないし、それを否定するつもりもないし、そんな権利は誰にもない。

この世間の常識というのは、なかなか強力なのでそれを論破できるだけの考えを持つのは、若い時には特に難しいかも知れない。
その世の中の常識に従って見たけど、全然幸せではない、と感じている人もいるかも知れない。

つまり「世の中の常識」と言う借り物の魂ではなく、自分は本当は何が欲しいと思っているのか、何がいらないと思っているのか、を知っている魂に気づいているかどうかなのだと思う。


若い頃には経験は少ない。
だが、魂のピュアさは子供に近いので、自分の心に聞いてみればきっと本当は何を望んでいるのかがわかるのだろう。

私もおそらくわかっていた部分もある。
それはずっと仕事をしていたいのだろう、と言うことだ。
客室乗務員は子供を授かった時に退職したが、その後はずっと働き続けている。
何があっても、どんなに家庭や育児との両立が大変でも続けてきた。
働かざるを得ない時期もあったが、それは決して嫌なことではなかったし、経済力を持っていることは自分に安心感を与えてくれた。

ただお金の価値観や、結婚、母、妻、嫁、としての価値観は、母親の姿を見てきて自然と刷り込まれていることに少し前に気づいた。

母がそうしていたから、そして母を尊敬していたから、母のようになることが正しいのだと思っていた。
私が何を望むかの前に、「それが正しい」と思い込んでいた。
その際に私の口からよく出てきていたのは、「○○なければならない」「〜するべき」と言う言葉だった。

この言葉は私自身強制されているようで、大嫌いなはずなのに、自分に対しては自分で使っていたのだ。

愕然とした。

そうして、少しづつ「べき」をやめ、母からまたは世の中の刷り込みから徐々に抜け出していった。

さらに時代の変化によって、自分が本当は何を望み、何がいらないのかを、つまり自分自身の
「心の断捨離」を行っていった。
「物の断捨離」と同時に。


部屋も心も整理整頓され、多くの物も、幸せの条件もいらなくなった。


今この投稿を、自宅の狭いながらも一応テーブルが置けるベランダで書いているが、そんな暖かい季節になったこと、そして気持ちよく投稿が書けていること、少しだけでも親孝行らしきことができていること、好きな仕事があり、十分に生活ができていて、大好きな家族がいること。

毎日とても気持ちが良い場所にウオーキングに行けて、体のどこにも不自由がなく、自由自在に動けていること。
卒業生たちとも良い交流ができていること。

十分に、そして心から幸せだな、と思う。
そう思うと、じわーっと心が暖かくなる。
満たされているのを感じる。

一人一人幸せの価値観も違うから、さまざまだと思うが、私は今十分に幸せだ。

人と比較することは意味がないし、
人と比較しても幸せにはならないし、
本気で自分が欲しいと思ったものは、なんとか手に入れるようにするから、
これからも自分の肉体に、元々あった自分の魂を持って生きていける気がしている。

これも自分を丸ごと受け入れ、認め、自分の心に問いかける時間を持ったことで、「自分に還ってきた」気がしているのだろう。


かっこいい言葉で言えば、今
「自分を生きてる」

って感じだ。


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