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Flavor of 感情

[♪ありがとう、と君に言われるとなんだか切ない さようならの後も解けぬ魔法 甘くほろ苦い The flavor of life…]

琴線に触れる、繊細な声でこう歌ったのは稀代の天才シンガーソングライターだった。すべての曲を聴き込むような熱心なファンではないけれど、彼女の声をふとどこかで耳にすると、瞬時にそこの空間が拡大されるような引力を感じる。

あの歌声には切なさや哀しみと、ある日気づいたら突然宇宙にひとり放り出されていた不安と孤独、圧倒的なほどのひとりぼっち感に『それでもここで生きていく』という、諦め混じりの乾いた決意が秘められている。だから、同じ想いを抱える人の心にダイレクトに響く。そんな気がする。

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感情には味がある。思い出は時に甘酸っぱく、ほろ苦い。過去にやらかした失敗の経験はしょっぱいし、恋人との特別な時間は甘い。爽やかなファーストキスはレモンの味だという。味わいは飲み込まれて胸を通り抜け、心に広がって身体に刻み込まれる。

好き嫌いが多く味覚が偏っている人は、気分にもムラがあり視野も狭くなりがちだ。自分が知っている・わかっているごくわずかな範囲が常識で、世界のすべてだと考えている。いかに『オイシイ思い』ができるかが価値観の基準で、嫌いなものを他人の皿に放り込んでも平気な顔で高楊枝。周りが自分に合わせるべきだと主張して、思うように扱ってもらえないと機嫌が悪くなる、まるっきり幼児だ。知らず知らずのうちにこっちがイヤな役回りを押し付けられて、苦虫を噛み潰したような顔になるかもしれない。お母さん役をやりたいのでなければ、距離をおいて正解。

辛いものが大好きで、辛くないと満足できないようなら、きっと人の心の痛みにも鈍感なのだろう。辛さを感じる痛覚がもう、壊れてしまっているのだ。アドレナリンやドーパミンでの興奮状態と、痛みを麻痺させて苦痛を快感に変えるエンドルフィンの分泌を求めて、もっと、もっとと、マゾヒスティックな辛さへの欲求はエスカレートする一方。ギャンブル狂と同じ、脳内麻薬中毒だ。体質として腸内細菌が適応している国の人ならともかく、日本人になじみがあるのは小粒でもぴりりと辛い山椒や、泣いてほめるわさびなどのシャープ系。ホット系のハラペーニョやチリは、たまに刺激を楽しむ程度でとどめておくにこしたことはない。

そして、えぐい渋いも味のうち。だが、コーヒーやビール、秋刀魚のワタ、燻製や炭火焼き、ゴーヤなどの苦みを楽しめるのは、ある程度の人生を重ねてからだ。20歳を過ぎると味蕾という舌のセンサーが減っていき、微細な味を感じ取れなくなるせいで耐えられるだけだと言われているが、若いうちはまだ、物事が織りなす奥行きを理解しにくいということだろう。

世知辛い世の中で辛酸をなめ、苦渋の選択を迫られたり、煮ても焼いても食えないこすっ辛い奴に煮え湯を飲まされたりしながら、さまざまな経験を味わってようやく物事のさじ加減を学び、だんだんと渋さや苦み走った大人の味を覚えていく。食べたことのない味はどんなに説明されてもわからない。経験して初めてその感覚が身体のなかに染み込み、本人自身も角が取れてまろやかな円熟味が増していくのだ。

そして、一度知ってしまえば、もうその味は身についているので再確認しなくていい。歳を取って食欲が落ちていくのは、わかっていることをやり直さなくてもいいのと同様に、わざわざ同じ味を再び覚える必要がないからだ。そうやっていろんな味の種類を集めていき、人生経験がコンプリートされれば、最終的には何も食べなくてもよくなる。

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一緒に外食に出かけて、食べたいものの種類やタイミングが同じで注文の相談がスムーズな人とは、会話も盛り上がるし食事をゆっくり楽しめるはずだ。そして何より気が合う。味の好みが似ているということは、価値観も近い。同じ釜の飯を食った仲間が特別なのは、苦楽を共にして泣き、笑い、喜怒哀楽の感情を分かち合った同志であるからだ。友達や結婚相手は、味覚と金銭感覚の似ている人がいい。

実は人間は、実際に舌や嗅覚で感じるおいしさよりも、外側からの情報によって『おいしいと感じる』部分のほうが多い。気分やその時のシチュエーションで、味なんていくらでも変化してしまう。ひとりで食べても味気のないものが、他人と共感し合いながら食べることで格段においしくなるのだ。感性の近い人達に囲まれてワイワイとする食事が楽しいのは、誰かとわかり合える幸せがそこにあるからに他ならない。「これおいしいね」は「出会えてよかったね」と同じ意味だ。

幅広くいろいろなものを食べてきて味覚が鋭く磨かれ、複雑で繊細な味を感じ取れるすぐれた舌を持っているなら、同じように他人の気持ちを理解して受け止めることができる感性の持ち主だと言える。そして、今まで食べたことがない新しい味に挑戦していく好奇心と開拓精神があれば、世界ははるかな広がりを得る。

様々な感情をより多く味わうほど、人生は豊かになる。辛さも苦しさも、人生そのものを堪能するためのスパイスとして感じられれば、よりそのハーモニーが引き立ってくるに違いない。青臭く甘っちょろい若い頃よりも、酸いも甘いも噛み分けた大人になってようやく、五臓六腑に染み渡るバリエーションに富んだ感情のフレーバー。それこそが人生の醍醐味なのである。

お福分けのひとしずくをありがとうございます!この波紋を大きく広げていきたいと思います。