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平成の黒船は宝船-改めて「特別」ではない支援教育を!

1.「特別」支援教育への問い-20年前の拙文から
  「泰平のねむりをさます上喜撰 たった四はいで夜もねむれず」
 「上喜撰(じょうきせん)」とはお茶の銘柄であり、ここでは「蒸気船」を意味する。「四はい」とは「四隻」のことである。1853年、浦賀沖に黒船が現れた。そのときの状況を夜も眠れなくなるような濃いお茶に例えて風刺した幕末の狂歌とされる。すなわち、蒸気船が四隻来航しただけで夜も眠れないほどの衝撃だったということである。
 LD、ADHD、AS、PDD、コーディネーター、校内委員会、センター的機能…と、これほどまで横文字が続いてしまうと-特殊教育(当時の名称)関係者ならばまだしも-通常の教育関係者には一体何のことだか分からなかったろう。耳慣れぬ言葉の理解と迫られる変革、昨今の特別支援教育推進の勢いを顧みれば-大袈裟ではあっても-それは黒船来航のごときであろう。奇しくも「今後の特別支援教育の在り方について」(最終報告.2003)が発表されたのは、黒船来航から150年後のことであった。
 変革への対応で基本とされるのは、通常の学校では、特別支援教育コーディネーターの任命と校内外支援体制の構築である。しかし、そこで気になるのが、生活・行動スキル、アカデミック・スキル等…いくつかの観点から子どもの「問題状況」を明らかにしようとする「チェックリスト」なるもの(の開発)である。これら「チェックリスト」を一概に否定しようとは思わない。なぜなら、少なくとも通常の学校にあって、学級の子どもたちを「個」として見つめ直す契機になると思われるからである。
 しかし、多くの「問題」は授業の中で起きているはずである。にもかかわらず、授業をどうすれば良いかは意外に論じられない。教師自身の授業づくりの方法を問い直す契機とは未だなっていないようである。
 これではあまりにも理不尽であろう。授業は子ども、教師、教材…様々な要因から成立しているはずである。はじめから子どもにだけに「問題」を見つけ出そうとするのはどう考えても不公平である。子ども自身の声を聴きながら、子どもの様子を見直していくことは必須の要件である。しかし、それ以上に、教師自身が授業で用意した教材、講じた手立て・支援上の配慮点を見直すべきであろう。
 今こそ「創造的実践は不利な教育条件を克服する」(斉藤喜博)ことに確信を持ちたい。特別支援教育推進に向けて、良い教育条件が整っているとは言えない。教育条件整備を一方では求めよう。しかし、どんな時代、どんな状況であっても学校から「授業」がなくなることはないだろう。ならば、現在の教育条件下での創造的実践への努力を怠るまい。確かな授業研究をもって、平成の黒船を宝船として迎えたいと思う。
 
 上記は20年前の拙文である。筆者の期待通り、創造的な授業への挑戦的実践者が絶えることはなかった。「配慮を要する子どもに『ないと困る支援』であって、どの子どもにも『あると便利で・役に立つ支援』を増やす」という授業ユニバーサルデザインの展開はその証左である。

 しかし、インクルーシブ教育システムの構築という制度的改革は成し遂げたものの、残念ながら、教育条件はどうであったか?教師志望者の激減をはじめとした学校教育の行き詰まり感は教育条件不整備のゆえではないのか?学校の多忙感は教育内容や学級規模の抜本的な改善なくして解決には至らないであろう。

植草学園M棟(図書館棟)

2.向かい合わせの鏡
 筆者が講演で必ず取り上げるエピソードがある。それは、激しい離席を繰り返し、担任から厳しく叱責されつづけた小学校1年生の次の一言である。「ぼくも、みんなみたいに、すわってべんきょうしたい!」-筆者の胸に突き刺さった。その子どもが「座る努力」をしているようには全く見えなかったからだ…。
 「子どもに学ぶ・子どもに気づかされる」重要性はよく言われる。筆者にとっては、この子どもの一言に学んだことの大きさは計り知れない。この子どもに出会うことがなければ筆者は本当に視野と了見が狭いまま教師人生を終えていたに違いない。このエピソードは、「行動の見方や考え方・子ども理解のありよう」という教師の側の「問題」を鋭く突き付ける。
 例えば、仮に、視覚障害のある子どもが学級に在籍していたとしよう。私たち教師は、その子どもに向かって、「黒板に書かれたこの文章を読みなさい!どうして読めないんだ!」と叱責することはない。なぜか?本人の努力だけでは及ばないことを理解しているからである。
 では、努力しても着席しつづけることが困難な子どもがいるとするならばどうであろう…その子どもへの厳しい注意・叱責は、視覚障害のある子どもに「なぜ見えない!」と迫ることと何ら変わることのない-もしかしたら-「医療ミス」以上の「教育ミス」になりかねないのだ。
 離席という一つの「問題」を目の当たりにしたときに、私たち教師が客観的に観察可能な離席にだけ目を向けて、じっとしていられない「困った」子どもと理解するのか?あるいは、子ども本人の「着席していたい」という本音の思いに寄り添い、努力をしても着席できずに「困っている」子どもと理解するのか?この両者には、天と地ほどの「理解の乖離」が横たわっている。
 そして、この、教師側の子ども理解の「問題」は何をもたらすだろうか?おそらく、一歩間違えれば、極めて悲劇的な事態を招く。それは、「自分は全く分かってもらえなかった…」と子ども時代を振り返る多くの当事者の回想に象徴される。
 「着席する努力をしている子ども」と周りの見方が変わると、支援も変わる!「着席している姿は本人が頑張っている状態」との共通理解のもと、その姿を支え・励ますことになるからである。その子どもが日を追うごとに成長を遂げたことは言うまでもない。
 子どもの「問題」行動には、多かれ少なかれ、教師の「問題」、すなわち、行動の見方、授業のありよう、支援の質の総体が反映されていると考えるべきであろう。だからこそ、逆に、教師の支援の質が高まれば、子どもの行動もよりよくなるのだ。それは、あたかも、向かい合わせに置かれた鏡のごとく映し合う関係にあると言えよう。

 「頑張りたい!」という子どもと教師のお互いの思いを映し合う学校生活・授業でありたい、そしてそれらを支える教育条件の整備を心から願う。(つづく)


佐藤愼二
植草学園短期大学こども未来学科 特別教授

https://www.uekusa.ac.jp/juniorcollege/child_tro/child_tro_spe/child_tro_spe_002

植草学園大学・短大 特別支援教育研究センター
障害者支援を学ぶことは、すべての支援の本質を学ぶことです。千葉市若葉区小倉町にキャンパスをもつ植草学園大学・植草学園短期大学は、一人ひとりの人間性を大切にした教育を通じて、自立心と思いやりの心を育むことにより,誰をも優しく包み込む共生社会を実現する拠点となることを学園のビジョンとしています。特別支援教育研究センターは、そのビジョンを推進するため、平成26年度に創設され、「発達障害に関する教職員育成プログラム開発事業」(文部科学省)の指定を受けるなど、様々な事業を重ねてきています。現在も公開講座を含む研修会やニュースレターの発行なども行っています。                                     tokushiken@uekusa.ac.jp

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