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自作短編小説『桜の夜風』

 教室内に、チャイムの音が鳴り響いた。
やっと授業が終わって、塾から解放されるのだ。

 教室の壁時計は、午後8時を指している。
窓の外はすっかり真っ暗だ。

 他の生徒達と同様に、僕も机の上の筆記具やらテキストやらを片付けていると、「戸田」と後ろから声がした。

 僕は自分のすぐ真後ろの席に座っている楠木の方を、振り向いた。
「英語のテスト、どうだった?」と楠木が訊いた。
「全然ダメ、長文も正誤も解ける気がしねぇよ」と僕は言った。
「俺も、マジでそんな感じ」と楠木は笑って言った。

 今は高校が春休み中なのだが、その代わりほぼ毎日、塾の春季講習が夕方から夜までやっている。
僕達は来月から高校2年生になるので、そろそろ受験のことを考え始めなくてはいけない時期に突入するのだ。

 だからこうして、塾に通っている僕と楠木は、さっきまで英語の学力診断のテストを受けさせられていたのだけど、、、。
結果はまぁ、自己採点しなくても何となく分かっている、、、。

 「この後さ、ちょっと時間ある?」と楠木は訊いた。
「別に、大丈夫だけど」と僕は言った。
今は春休みの時期だから、帰宅が遅くなっても特に憚ることはない。

 「すぐそこの公園でさ、ちょっと喋らねぇ?」と楠木は訊いた。
「あぁ、良いよ」と僕は同意した。

 僕と楠木はよく塾帰りに、通りを挟んだすぐ向かいにある、糸屑川公園で立ち話をすることがあった。
大して中身の無い、高校生らしい取り留めの無い話だ。
特に最近は、夜に出歩くことを躊躇しない季節である訳だから、すぐ近くのその公園に少し寄って話をする日も少なくない。

 教室内を続々と生徒達が出て行き、僕と楠木も席を立って、教室を後にした。

 外に出ると夜風が涼しく、過ごしやすい季節になったことを実感できる。
寒くも暖かくもない、そのちょうど中間に位置するような類の気候だ。

 午後8時という時間帯だが、夜道には街灯が等間隔に並び、コンビニやガソリンスタンドの照明で辺りは少し明るくなっている。

 見上げる夜空には、大小様々な雲が浮かび、それらの隙間から朧気な月が覗いていた。

 歩行者信号が青に変わるのを待ってから、僕らは通りを横断した。
夜も8時を過ぎると、車の往来は殆ど無い。

 たまに風の音がしたり、車やバイクが走行する音がするくらいで、この近辺のこの時間帯は本当に静寂に近いのだ。

 そして、通りを渡ったすぐ正面の糸屑川公園に、僕らは足を踏み入れた。

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 公園内には、その周囲を取り囲む桜の木が満開に咲き誇っている。

 微風に吹かれた桜の花びらが、辺りを無抵抗に舞い散っていた。
僕らの他には、公園には誰もいなかった。

 僕と楠木は歩きながら、暫し夜桜に見惚れていた。
「こうやってライトに照らされた夜桜って、結構綺麗なもんだなぁ」と僕は言った。
「あぁ、夜の花見ってのも、案外悪くなさそうかもな」と楠木は言った。

 僕らは、公園のすぐ側に沿って流れる小さな河川、糸屑川の上に架かった橋の上まで歩いた。

 僕と楠木はよく、この歩行者専用の少し小さな橋の上で他愛も無い話をすることが多かった。
そこから街灯や月夜に照らされた川を見下ろせ、今の時期なら公園内の桜を一望できる。

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 僕らはその橋の上の中央部まで歩き、欄干に体重を預けた。

 辺りには、僕らの他に人影は無い。
川が流れる水の音が控えめに響いている程度だ。
気温はちょうど良く、心地の良い季節だと僕は身に染みて体感していた。

 「俺ら、来週でもう2年かぁ。高1なんて、あっという間だったな」と楠木が言った。
「そうかぁ?体育祭とか文化祭とか、やたらと大仰って感じで、何かかったるかったよ」と僕は言った。
「あぁ、戸田は割とそういう節があるよな」と楠木は少し笑った。
「何だよ、そういう節って?」と僕は訊き返した。
「だってほら、大掛かりで派手なイベントとか苦手なんならさ、例えば集団行動とかも駄目なタイプだろ?」
「あれ、本当無理。中学の時から思ってたけど、軍隊みたいでマジでバカなんじゃないかって」
「確かに、俺もああいうのはちょっと異常だと思うけどね。少なくとも、ガキにやらせることじゃねぇよ」と楠木は苦笑して言った。
「本当それ」と僕も苦笑した。

 橋の上から見渡す糸屑川公園の桜は、付近の街灯や照明に照らされて、煌びやかな印象を纏っているかのようだった。

 「だけど何だかんだ言って、中学の方が楽だったかなぁ」と僕は呟いた。「家から10分歩けば着く距離だったのがさ、今じゃ片道30分の自転車通学って、本当にだるいよ」
「あー、でも俺は電車に乗るよりかよっぽどマシだなぁ。朝から満員電車なんて、想像しただけで気分悪くならねぇ?」と楠木は訊いた。
「まぁ、登校中に電車で埋もれるよりは、結局自転車の方が全然良いんだろうな。朝の開放的な空気吸えるだけでも、全く違う」

 僕と楠木は現在、高校は別々なのだが、小学、中学は同じだった。

 小学生の頃は、どの学年でも違うクラス同士だったので、お互い面識は無かった。
だが中学に入り、中2の時に初めて同じクラスになったことで、自然と気が合ってよく話す関係性になったのだ。

 そして今、別々の高校に通っている僕らは、地元にある同じ塾に通い、春休み中はほぼ毎日顔を合わせている。

 僕も楠木も、口裏を合わせて一緒にその塾に通い始めた訳ではなかったので、一年前の春にそこで再会した時は、お互いひどく驚いたものだ。
しかし考えてみれば、小さな校区内にある塾なんて片手で数える程しか無いのだから、別にそこまで驚く程のことでもなかったのだ。

 川の水面に映る月明かりが、穏やかな水流に身を任せるように揺られている。
僕と楠はそんな情景を、橋の欄干に寄り掛かって見下ろしていた。

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 「楠木は受験とかって、やっぱ考えてる?」と僕は訊いた。
「一応なぁ。今んところ将来の夢なんか特に無いし、大学は行っといた方が良いかなって」と楠木は言った。
「僕も似たようなもん。大学なんて所詮、社会に出るまでの猶予期間だって思ってる」

 「大学生なんてさ、遊んでるイメージしか無かったから、子供の頃は俺、絶対ならねぇって決めてたのになぁ」と楠木は言った。
「自分がそんな風にならなければ良い話じゃん」
「いや、まぁそうなんだけどね」

 「そういえば、戸田はさ」
「うん?」
「自分のこと、『僕』なんていつまで言ってるんだ?俺らもう高2になるんだぜ?」
「はぁ?そんなの僕の勝手だろ?楠木にはカンケーないじゃん」

 どうだって良いじゃないか、僕が自分のことを何て呼ぼうと。
そうだ、そんなの僕の自由意志の筈だ。

 「まっ、昔っから一人称は『僕』だもんな。今更変えることもねぇか」と楠木は笑って言った。
「そうだよ」と僕は少し咎めるように言った。

 しかし本当は僕だって、変わらなきゃいけないことは分かってる。
大学までならそれで通用するかもしれないけど、社会人になったら、きっとそうはいかないのだろう。
数年後に社会に出ることを考えたら、少しだけ心が息苦しくなる。

 不意に楠木が言った。「なぁ、アレさ、何だと思う」
「えっ」
楠木が指差す方向に視線を寄せると、すぐに僕もそれに気付いた。

 そこには、糸屑川沿いのすぐ右手に建つ西谷商店という名前の駄菓子屋がある。
そしてその店内に、灯りが点いているのが確認できるのだ。
中には、微かに数名の人影があった。

 僕も楠木も、あの駄菓子屋には小学生の頃からよく通ってはいたが、夜に営業しているのは始めて見る。

 「何だろうな」と僕は訝った。
「ちょっと、行ってみねぇ?」楠木は好奇心を含んだ表情で言った。

 僕らは橋を降りて、そのまま川沿いの道を歩いていた。西谷商店は糸屑川に沿って建っており、ここから歩いて数十秒の距離だ。

 看板の左側にコカコーラのロゴが描かれ、その右側に西谷商店という文字が書かれている。
店のすぐ前まで歩くと、どうやらやはり営業中のようだ。

 店内に数名のお客さんが商品を手に取っている様子が、窓越しに確認できる。
でも、どうして夜の8時を過ぎたこんな時間ににやっているんだろう?

 その疑問を胸に抱きながら、僕と楠木はガラス戸を引いて、店内に入った。

 レジでは、この店の主人であるおばちゃんが新聞を読んでいた。その表情は、どこか嬉しそうだ。
確か、70を超えていた筈だが、こんな時間まで店を開けることに特に問題は無いのだろうか。

 「珍しいよな、夜にやってるなんて」
「あぁ、マジで初めて」

 古い電灯が照らす少し窮屈な店内には、陳列棚に所狭しと沢山の商品が並んでいる。
それらの間に、年配の男性や親子連れや若い女性なんかが、商品をカゴに詰めていた。

 僕と楠木は、店の入り口付近に設けられた、主に駄菓子が置かれた陳列棚まで歩いた。
子供の頃からこの店に通う僕らが向かうのは、まずここになる。

 「何か、買う?」と楠木は訊いた。
「う〜ん、帰ったら夕飯あるし、あんま腹減ってないんだよな」と僕は言った。
普段は塾帰りに、コンビニに寄って買い食いしたりすることはあるんだけど、さっきまで英語のテストがあったこともあり、僕は心身共に疲れていた。
だから今日に限っては、僕はあまり食欲がなかった。

 楠木の横顔を見ると、どうやら僕と同じ類の感情であることが読み取れた。

 「あ、でもジュースは買っとこうかな、自販機で買うより安いし」
「じゃあ、俺もそうするか」

 冷蔵されたコカコーラのショーケースの中から、僕は三ツ矢サイダーを、楠木はチェリオのメロンを手に取った。
「レジで払う時さ、訊いてみるか」と楠木は言った。
「何で夜にやってんですかって?」と僕は訊いた。
「そう、何か気になるんだよな」
「まぁ、それしか確かめようが無いよな」

 おばちゃんのいるレジまで行き、勘定を済ませた際、楠木が訊いた。「あの、どうして夜間に営業されてるんですか?」
「あぁ、それはねぇ、あんた達、ふしぎ発見って番組知っとるかね?」とおばちゃんは訊いた。
「あー、ありますね、親父が好きだったけ」と楠木は言った。
「僕はたまに見るかな」と僕は言った。

 「それのね、番組の終わりに視聴者プレゼントってあるでしょ?こないだね、当たったのよ、それに」とおばちゃんは嬉しそうに言った。
「えっ、旅行券、当選したんですかっ」と僕は少し驚いて言った。
「そうなのよぉ、びっくりしたわぁ、本当。夫がね、電話して当てちゃったんだけど、それがまさかのよ、エジプト旅行なの」
「エジプト!?うわっ、すげぇ」と楠木は興奮するように言った。

 「本当、私もびっくり。それでねぇ、来週から夫婦水入らずでエジプト旅行に行く予定なんだけど、その間はこの店を閉めることになるでしょう?だから、いつも利用してもらってる常連さんなんかには悪いから、旅行までの数日間の、夜の9時までは店を開けておくことにしたのよ」
「なるほど、そういうことだったんですね」と楠木は笑って言った。

 僕はちょっとした些細な疑問が氷解した気分だったし、きっと楠木も同じだろうと思った。
それにしても、エジプト旅行に当選したこと自体も凄いのだが、そのために旅行までの期間は夜間も営業するというお客さんに対する気遣いも凄いなぁ、と僕は感心していた。

 「じゃあ、来月の3日までは営業してるから、良かったら、また来て頂戴ね」とおばちゃんは笑って言った。
「はい、是非っ」と楠木は言った。
僕も軽く頭を下げた。

 こういう時に、ちょっとした性格の差が出るんだよなぁ。
楠木は基本的に社交的で、対する僕は少し内向的だ。
まぁ、僕だって人と喋ること自体は好きなんだけど。

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 店を出た僕らは、糸屑川公園沿いの夜道を歩いていた。
沢山の満開の夜桜が、その付近の街灯にライトアップされて、叙情的な雰囲気を帯びている。

 僕は歩きながら、先程の西谷商店で買った三ツ矢サイダーの蓋を捻った。
『プシュッ』という炭酸の抜ける音がし、僕はそれを一口飲んだ。

 冷たいサイダーの控えめな甘さが、すぐに口の中に浸透していく。
まるで今の新鮮な春の空気感を象徴するかのような、爽やかな味わいだ。

 「あぁ〜、エジプトかぁ、羨ましいなぁ」と楠木は言った。
「やっぱさ、旅ってなると、最初に思い浮かぶのはエジプトだよな。ピラミッドに、スフィンクス、、、」と僕は言いかけた。
「ツタンカーメン」と楠木が僕の言葉を遮るように言った。「アレ、いっぺん生で見てみたいぜ」
「そしたら楠、呪われちゃうんじゃね?」と僕は笑って言った。
「何でだよ」と楠木も笑って言った。

 「あっ、今さ、福岡市博物館で本物のミイラ展やってるよな」と僕は言った。
「あぁ、百道の。俺アレ行こうかなぁ、割と近場だし」と楠木は言った。
「僕も、ちょうど行こうかどうか迷ってた」
「なら、どうせならさ、明日行かねぇ?春季講習も今日で終わりだしさ」
「良いねぇ、そうしよっか。春休みも残り少ないけど、マジでどこにも行ってないからなぁ」
「平日だし、混んでることもないだろうぜ」
「あぁ、ミイラ見に行くために、動く人の波に呑まれるのなんて、絶対やだからな」と僕は苦笑した。
「それ、言えてる」と楠木も苦笑した。

 「ちょうど良かったよ、どうせ一人で行くよりも、戸田と行った方が楽しそうだ」と楠木は言った。
「何だ、そりゃ」と僕は少し照れて言った。

 不意に春の涼しげな夜風が桜の木を揺らし、その風は僕らの方にもやって来た。

 そんな風に揺れるスカートを、僕は右手で軽く押さえた。






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