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猫かぶり

 ここまで110球を投げている……エースの高橋……対するバッター宮本に……投げた……打ちました……三遊間を抜けた……ランナー三塁を回って帰ってくる……セーフ……セーフ……劇的な幕切れ……サヨナラ勝ち……。

 つけっぱなしにしていたテレビから、球児たちの夏が終わったことを告げる、実況アナウンサーの声がする。続けてまどろみの奥から聴こえてきた大歓声は、私の瞼をこじ開けるのに充分なボリュームだった。
「帰省」と書いて「たいくつ」と読む生活は今日で二日目を迎えていた。
 上体を起こして目を擦ると、二の腕に畳の跡がくっきりと残っているのが見えた。縁側から差し込む陽光で右半身は少し汗ばんでいたが、左半身は冷え切っている。暑さよりも寒さに弱い私は、扇風機を「強」にしたままうたた寝したことを後悔した。思わずくしゃみをしてから、扇風機を睨む。
 その視線から逃れるかのように首を振り続けるそいつに腹が立って、速やかに電源オフのボタンを押す。

 ピッ。

 電子音が響き、横で寝ていたヤエの耳が動いた。数拍の間を置いて目を開けたヤエは、丸くて黄色い、レモンのような瞳を私に向けた。
 ヤエは数年前の春に祖母が拾ってきた猫だった。祖母が言うには、満開の八重桜の木の下で「途方に暮れていたから拾った」らしい。ヤエという名前もそこから付けられている。遠い親戚の新盆で出払っている家族の帰りを待ちながら、私と一緒に退屈な留守番を任されている、とぼけ顔のオス猫。それがヤエだった。
 のそっと起き上がったヤエが、扇風機に近づいて、こっちを見る。

「なんだよ、暑いの? じゃあ弱で勘弁してよ」

 今しがた止めた忌々しい扇風機に手を伸ばし、再び電源を入れる。

 ピッ。

 その音に呼応するかのように、縁側の梁に付けられた風鈴がぬるい風に揺れ、一度鳴った。ヤエが満足したかのように、元の場所へ戻っていく。さきほどより緩やかな風を送り始めた扇風機に向かって、私は顔を近づけた。

「わ〜れ〜わ〜れ〜は〜う〜ちゅ〜う〜じ〜ん〜だ〜……」

「退屈」と「孤独」とは恐ろしいものだ。こんなふざけた行為にも充足感を覚えてしまうのだから。
 不意に背後に気配を感じて振り返ると、ヤエが後ろ足だけで立ち上がっていた。
ギョッとしたが、私以上にヤエの方がギョッとした表情を浮かべていた。
 そして、言った。

「西丸サチ……! お前も宇宙人だったのか……!」
「猫がしゃべった!」

 話を聞くと、どうやらヤエは猫に擬態した宇宙人らしかった。

「……で、私を同胞だと勘違いして、思わず自分の素性を明かしたってことね」
「そういうことになる、よくも騙したな、この卑怯者」
「あれは扇風機をつけたときの……なんというか、地球人独特の儀式みたいなもので、決してあんたを騙そうとしたつもりはなかったんだけど……というかなんで猫に擬態してんの?」
「地球の、特にこの国の人々にとってポピュラーな生き物に擬態すれば、監査が円滑に進むだろうと思ってな。まさかこの国の夏と猫の毛皮がこんなに暑いとは思わなかったが……申し訳ない、扇風機を強にしてもらって良いか?」
「申し訳ないけど間を取って中で」

 ピッ。

「それで、日本を監査して最終的にどうするわけ? もしかして侵略? だとしたら今すぐあんたを保健所に連れて行かなきゃならないんだけど」
「やめてくれ……当初の計画はそのつもりだったが、君の祖母には随分とよくしてもらったからな……侵略は一度白紙にしようと考えている……」
「義理と人情がある宇宙人で良かったわ。三年くらいおばあちゃんの世話になってるもんね」
「正確には、三年と四ヶ月だな」
「随分と長いこと続けてんだね、その監査っての」
「……実は乗ってきた船が着陸の拍子に壊れてしまってな……乗組員は俺を含めて三人いるんだが、交代でこっそり修理してたんだ」
「なるほど……おばあちゃん、あんたが時々いなくなるって心配してたよ」
「俺の代わりに謝っておいてくれ。間もなく船の修理は終わり、我々は母星に帰投する。地球の侵略も先延ばしにするよう上に伝えておく。具体的な期間は言えないが、少なくとも君が生きている間は何も起きないことを保証しよう」

 そう言うとヤエは立ち上がり、テーブルの上に作り置かれていたオニギリに手を伸ばした。オニギリを覆っていたラップフィルムを丁寧に外し、自らの背中に乗せ、呟く。

「これがあれば修理は完了する」
「ただのラップだけど……あんたの船大丈夫?」

 私の言葉を無視してヤエは縁側から飛び降りる。慌てて玄関へ向かい、既に数メートル先で揺れているオレンジ色の尻尾を追いかける。留守番はもう終わりだ。

「まったく、君が家族と一緒に新盆の挨拶に行っていればな……」
「自分からバラしたくせに。見送りくらいさせてよ」

 そんな会話をしながらしばらく歩き、ヤエは大通りから外れ、一本の大木の前で止まった。そこは紛れもなく、三年と四ヶ月前に祖母がヤエを拾った場所だった。
 ヤエが聴いたこともない言葉を唱えると、木の真下の地面がまるで自動ドアのように開き、小さな宇宙船……というよりも、むかし本で見たUFOにそっくりの流線形をした円盤が出現した。

「隠蔽のために縮小化してあるが、修理が終わって我々が乗り込む際は元の大きさに戻るんだ」
「すごい、こんな異文明の乗り物がラップで修理できるんだ……」
「君にとっての常識は、我々にとっての非常識でもあるということだ。このラップという極薄のフィルムに秘められた力は凄いんだぞ、我々の人知を超えたファンデルワールス力が……」

 ヤエが講釈を垂れ始めようとしたその時、私たちが来た道とは逆方向から、何かが駆けてくる音が聴こえてきた。解説を中断させられたヤエが、それでも嬉しそうに言う。

「他の乗組員たちも来たみたいだ」

 それは二匹の猫と、小学生の男の子と女の子だった。困惑する私の前で二匹が止まると、二人がそれに追いついた。二匹は私を見、そしてヤエの方を見て、揃って口を開いた。

「お前も騙されたのか!?」

 続けて小学生の、男の子の方が問いかけてくる。

「おねえちゃんも扇風機でやったのー? わ〜れ〜わ〜れ〜は〜う〜ちゅ〜う〜じ〜ん〜だ〜、って!」

 女の子の方も口を開いた。

「そしたらミケが立ち上がってね、お前もか! って言ったの!」

 どうやら三匹の宇宙人は、監査を行うためにそれぞれ別のご家庭に拾われる形で、人間界へ潜入したらしい。そこまでは良かったが、三匹仲良く例の「儀式」に引っかかり、ヤエと同じくこの小学生の男女に素性を明かしてしまったのだ。
 互いに呆れ合っている三匹を見てニコニコ顔の小学生二人とは対照的に、私は顔から火が出そうだった。私だけ今年で二十一歳なのだ。小学生と同レベルの「儀式」を行ってしまったことが、とてつもなく恥ずかしかった。
 そんな私の心中はお構いなしに、三匹はてきぱきと宇宙船を修理していった。最後にヤエが持参したラップを張り付けると、円盤型のそれは徐々に肥大化していき、倍ほどの大きさになった。船に乗り込んだヤエは、窓越しに私を一瞥して口を開いた。

「死に際に姿を見せなくなる猫の話を聴いたことがあるだろう。彼らは死んでなどいない。全員、監査を終えた俺たちの仲間なんだ。改めて君の祖母に……西丸カナエに礼を伝えておいてくれ」

 ピッ。

 空気を切り裂く音を残して円盤は舞い上がり、彼方にそびえ立つ入道雲の更に向こう側へ、あっという間に消えていった。呆然と空を見上げていた私の横で、小学生二人が小さく呟いた。

「……ミケ、いなくなっちゃった」
「俺んちのレオも……」

 私はしゃがんで、二人に視線を合わせて言った。

「明日お昼ご飯食べたあと、三人でもう一回ここに集まろっか」

 新盆の挨拶から帰宅し、ヤエの姿を探す祖母に、私は事の顛末を話した。

「ヤエがおばあちゃんにありがとうって言ってたよ。それと、今まで時々いなくなって、心配かけてごめんって。でももうこれで最後、自分の星に帰るってさ」

 高齢の祖母が全てを理解できるだろうか。そんな私の心配を余所に、祖母は、ゆっくりと頷きながら言った。

「そうかい、あんたも一人暮らしで、ヤエもいなくなると寂しくなるね」

 その日の晩、縁側に並んで腰かけ、祖母と麦茶を飲んでいた私は、月を背に光り輝く流線形の円盤を見た。義理と人情に溢れた宇宙人は、最後にもう一度、世話になった祖母の顔を見に来たのだろう。そしてそれを見つめる祖母の横顔もまた、家族を慈しむ、たおやかな表情をしていた。

翌日、私は午後一番であの八重桜の下へ向かい、小学生二人とくたくたになるまで遊んだ。冬休みもまた三人で集まる約束をし、帰りの新幹線にギリギリで飛び乗ったときには、既に私の中から「退屈」の文字はすっかり抜け落ちていた。
 年末も必ず帰省しなきゃな、と、私はまどろみかけた思考の中でひとりごちた。


 一人暮らし先のアパートは、帰省する以前よりもなんだか静かで、妙に殺風景に感じた。実家にはなかったパソコンも、ゲームも、エアコンだってある。それでも、この回的な空間で何をしていても、どこか物足りなかった。
 ふと思い立ち、近所のリサイクルショップで古い扇風機を購入した。
帰宅してすぐにコンセントを差し込み、私の「退屈」を母星へ持って帰ってくれた一匹の猫を想いながら、迷わず「強」のボタンを押した。

 ピッ。

「わ〜れ〜わ〜れ〜は〜…………」

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