見出し画像

「仲良くね。」の強烈な違和感と本日の感動。

子と共に、地域の児童館などで遊んでいると、「初めまして」の母子と出会うことが多い。そして、一緒に遊ぶ流れになる。そこまでは良いのだけれど、そのあと、猛烈な違和感が私を襲う。

我が子が、少しでもそのお子さんに手をやる。
またはそのお子さんが、我が子に、少しでも手をやる。
子というのは、決まって、人の顔に手をやりたがるものなのだ。

その時、私はこう言うことになる。
「仲良くね。優しくね。お顔じゃなくてね。」

その時、相手のお母様はこうおっしゃる。
「仲良くね。優しくね。お顔はダメだよ。」

そして私たちは、それぞれの子らの間に、少し距離ができるように仕向ける。例えば、他のおもちゃが遠くにあるのを教えたり。

これに、私は、心の底から辟易し、あぁ、やっぱり来るんじゃなかった。と思う。こんな東京のど真ん中にある、みんなが顔色を伺うだけの児童館なんて最悪だ。と思ってしまう。

「仲良くね。」と言いながら、「引き離す」
「優しくね。」と言いながら、優しさを学び合う間柄を消し合う。
子には「仲良くね」と言いながら、母同士は「仲良くなろう」としていない。むしろ、「問題を起こさないように」しているだけ。
もっと言うと、子には「仲良くね」と言いながら、社会には、世界には、仲良くしていない大人ばかり。仲良くしないどころか、その存在を無視するように、スマホに手錠をかけられているのが、私たちの実情だ。

私たちは、「仲良くなる」アクセルとブレーキをいつも両方踏みっぱなしなんじゃないか?

それは私だけなんだろうか?

しかし、本日、感動的な状況に出会うことができた。
しばらく顔を出していなかった、東京賢治シュタイナー学校の幼児部のたんぽぽひろばへ。

我が子(1歳4ヶ月)はいつものように、そこにいた年上のお兄ちゃん(3歳)の持つおもちゃが欲しいと手を伸ばす。
お兄ちゃんもまた、そのおもちゃは譲りたくない。
お兄ちゃんは、先生のお膝にいて、そこに我が子が向かって行く。
「お兄ちゃん、今遊んでるんだよ・・」と、私がいつものように声をかけようとすると、抱いている先生が、私を見て、そして手をして、「いいの」と囁く。


悔しさでどんどん泣く我が子。
いつものように助けて欲しくて、私を見る我が子。
両者とも、一つのおもちゃ(竹の輪切りである)を握りしめ、それはビクとも動かない。
お兄ちゃんも貸したくない。

先生始め、周りの大人たちは
「貸したくないね。ちょっと貸してあげる?」と声をかけ
「欲しいね。悔しいね。」と声をかける。

これが、おそらく・・・5分以上続いた。10分近かったかもしれない。
もちろん、このお兄ちゃんと私たちは、初めて出会ったのだ。
しかし、これを、先生は「やりとり」と呼び、これが大事なのだ、と、徹底してやらせる。
それはさながら、「真剣勝負」。
本当の剣を持って戦う、あの場面そのものの両者の真剣さ、気迫であった。


結局、その試合は、絶対に終わらない様相を呈し続けたので、ついに先生が立ち上がり

「わかった。じゃあ、代わりにいいもの貸してあげよう」

と、その竹よりふた回り大きい竹の輪っかを持ってきて、我が子に渡した。


その時の、我が子の、本当に嬉しそうな顔!

真剣勝負があったからこその、大きな喜び。幸せ。満足感。

そして、そのお兄ちゃんは、引き続き勝ち取った小さい竹で遊びながら、
「面白かった」
とつぶやいたが、私はそれは、その瞬間に小さい竹で遊んでいたのが面白いのではなく、あの真剣勝負が面白かったのだと感じた。

お兄ちゃんは、その後、すぐに小さい竹も我が子に渡し、我が子は両手に竹の輪っかを持ち、ぴょんぴょんと躍動する。

そしてその後の時間はずっと、そのお兄ちゃんが、我が子を見守り、「一緒に遊ぼう」と離れなかったのだ。

我が子もまた、そのお兄ちゃんの存在を、一つ近くに受け入れて、感じている様子であった。

私は、この先生のご対応に感動して、嬉しくて、泣けてしまった。
「このやりとりがね、近年少なくなってきて。この中で、語彙が育まれる。それがなくなってきているの。だからね。。」


「仲良くなる。」
それはなんだろうか?
どうなると「仲良くなる」のだろうか。
どんな状態が「仲良し」なのだろうか。
間柄は千差万別だけれども、お子たちのそれというのには、このような「真剣勝負をした仲」と言う、身体中で味わった「実感」があってこそなのではないだろうか?特に男同士は。

もちろん、この仲良くなるプロセスも、一つの事例にしかすぎないけれど
それでも、私にとっては、我が子の1歳4ヶ月になったその日に、こんな体験をさせてもらえたことに、ひたすらに、感謝の思いしかないのである。

人間疎外、そいう言葉を、今年穂高で初めて知った。
人間  疎外?
信じられない言葉と言葉の組み合わせだけれど、それを知って世の中を見渡せば、常に私たちは人間疎外の海を生きていると言える。

そんな中で、どのように、人ととして、豊かな感受性を持ち続け、人を愛し、愛される存在へと、導いていけるのか、いつも私は心悩ませてきた。

でも、この学校には、同じように、または私よりももっと深く、そのことを思い、全てを知りながら、その中で、いかに・・・という道を探求してらっしゃる方々、先生方、親御さん方がいらっしゃる。


そのことは、私にとって、この世界にまた一つ、暖かな明かりが灯る場所を見つけられたようなもの。
迷ったら、ここを目指せば良い。
迷ったら、ここを見つめれば良い。

人として生きることが、困難なこの時代に、
同じ生きづらさを感じながら、命に向き合う仲間がいることほど
勇気をもらえることはない。

今日は、本当に、
ありがとうございました。
1歳4ヶ月の、かけがえのないプレゼントになりました。

この記事が参加している募集

よろしければ、ぜひサポートをお願いいたします! いただいたご支援は、さらなるアウトプットのための、素敵なインプットのために使わせていただきます✨✨✨