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名古屋&daft STREETDANCE HISTORY4 〜2006年:新境地と転換年〜

どうもです。UCです。

(これは名古屋&daft STREETDANCE HISTORY企画の目次4です。その他の目次はこちらからご確認ください。→名古屋&daft STREETDANCE HISTORY

また、名古屋STREETDANCE HISTORYの続編で.もあります。1990年〜2002年のヒストリー記事はこちらからご確認ください。→名古屋STREETDANCE HISTORY )
(2020.07.28 追記アリ)

さて、
今回は2006年です。
いよいよ、2000年代も後半ですね。

色んなことがありすぎて、
もうまとめきらないくらい拡がりすぎてきて、
かなりの出来事をカットしましたが、
それでもめちゃくちゃ長くなりました笑

是非ゆっくりと、何度も、味わっていただけると嬉しいです!
(※文中はすべて継承略です。ご了承ください。)

はじめに

この年は、自分にとって大きく環境が変わった年でした。
3月に大学を卒業し、
4月に就職をしたからです。

学生の頃は、
本当に毎日のように朝まで練習していました。
2005年あたりからは、
僕ら『daft』の練習場所は『中区役所』前でした。

当時、
daft』と同じように練習をしていた”中区役所常連組“は、
04年編で紹介した『GESSO』(“NANA”, “YURI”)
05年編で紹介した『HOT CHIX』(“AMI”, “あすぴ”, “ニコラ”, “レーカ”)、
そして、92年編より紹介している ”TATSUYA“(『C-HAIS』, 『FIVESTAR』, 『moNsta』など)の『STUDIO NEXX』でのレッスン生たちで2005年に結成された、
90STEPPERS』(”RIYO“, ”ERIGON“, ”Bomber“, ”SAORI“, ”yu-na“, ”SAKI“)
でした。

何度、一緒に朝を迎えたことか…笑
本当に戦友って感じですね。

しかし、
就職ともなると、なかなか同じペースでは練習できません。
僕らは社会に初めて飛び出して、
慣れない生活環境の中、何とかダンスでもかまそうと、
必死にもがいた1年でした。
そんな、2006年に名古屋シーンでは何があったのか?
また『daft』中心にしつつも、幅広く振り返ってみます。

初の県外コンテストでの入賞


まだ僕らが大学生だった、2006年1月。
我々『daft』は、大阪の『DANCE CHALLENGE』というダンスコンテストに出場しました。

このコンテストは毎月開催されていたので、
新ネタが出来ては挑戦していました。
若手登竜門的なコンテストであり、
実際に、関西の『branDRIVE』(”TAKUYA”(現、”たくや仙人”), ”YU”, ”DAIGO”)や, 『Exze』(”SHINGO”, “SHUN”, “HASSE”(現、“長谷川敬夕”), “KO-HEI“)などのチームがこのコンテストを足掛かりに一気に売れていったのを見ていました。

そして、
この時に挑戦を決めたのが、JUDGEが『HEX BEX』(“HONGOU”, “KUCHA”, “CHEKE”)だったからでした。
2005年に『OSAKA DANCE DELIGHT(ODD) vol.23』を初めて観に行った時に、
そこで優勝した『HEX BEX』のあまりのカッコ良さにやられてしまっていたからです。

是非、JUDGEしてもらいたいと思い、
年明け早々大阪まで行きました。
結果は“準優勝”でした。

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▲DANCE CHALLENGE レポート(DANCE DELIGHT MAGAZINE 2006.3月号より)


また優勝に一歩及ばず…
ただ、大阪という土地で結果を出せたことは喜びでしたし、
憧れの『HEX BEX』から、
「好きなことを貫いている個性丸出しな感じが良かった。HIPHOPだった。」
「自分たちの本当にやりたいことを、そのままやればいいんだよ。」
と言ってもらえて、
めっちゃ嬉しかったのも覚えています◎

それ以来何度か『DANCE CHALLENGE』に挑戦しますが、
結局入賞したのはその一度だけでした。

ただ、当時、
DANCE CHALLENGE』での1番の目的が、
コンテスト審査中のDJ TIMEでのサイファーでした。
KNIT“(『New Black-izm』)や、 “GO”(『PUMPKING』)や、その月の出場者ととにかくサイファーで踊りまくることが本当に刺激的でした(^^)

名古屋のクラブでは僕がサークルに入るとすぐに解散となってしまうことも少なくなかったため笑、
もう、存分に踊り合えるダンサーがいることがとても楽しかったです◎


そして、就職してからの7月。
神戸であった『DANCE DRIVE』というダンスコンテストに出場しました。

神戸の海沿いの倉庫『ZINK』で行われたコンテストでして、
JUDGEが、
WILD CHERRY”(『O.G.S』), “KOJI”(『ALMA』), “YUKARI”(『MEGATONE』), “KATO”(『D’OAM』)、
MCが、
MC TATSUYA”(『ROUND SHAKER』, 『GIDDAP』)、
GUESTが、『D’OAM with JOKER
と本当に豪華なCASTでのコンテストでした。

出場者も、
当時『JAPAN DANCE DELIGHT(JDD)』のFINALIST経験のある人やチームがいて、
そこレベルの高さにもビビっていましたが、
ここでは”特別賞(KOJI賞)”を受賞しました。

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▲DANCE DRIVE vol.1 レポート

入賞できたことで少し満足してしまった部分は否めないですね。

そして、
優勝は当時高校を卒業したばかりの『GROOVIN/SLASH』(”HiRo“(現、”HIRONORIFUKUZUMI”), ”TAKE“(現、”TAKE/SLASH“), ”SHINGO“)
でした。

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▲GROOVIN/SLASH(左から、SHINGO, HiRo, TAKE)

このチームは初めて観た時から衝撃的でした!
めちゃくちゃ勢いあったし、ヴァイブス半端ないし、もう僕らは食らいまくってしまいましたね。

そしたら、
このコンテストで踊り終わった時に、
「daftさん、めっちゃかっこいいじゃないですかー!友だちになりましょー!」
なんて逆に声掛けてくれて、仲良くもなりました◎
遠征により、ダンスを通じて繋がりが増えていくことが嬉しかったですね。


※こぼれ話
特別賞”受賞により、表彰式まで出ていたら名古屋までのラスト新幹線を逃しました。
仕方ないので鈍行で滋賀にまで近づくも、そこで完全に終電を迎えてしまいました。

始発で帰っては翌日の仕事に間に合わない。。
すると、“masahiro”が「絶対に仕事には遅刻出来ない。」
とかいうもんだから、結局そこからタクシーで帰りました!笑
5万くらいかかりました笑
当時は新入社員だったのでまったく融通がきかなかったみたいです。


この年の名古屋の風物詩イベント

さて、
91年編から紹介している東海最大級のダンスコンテスト『DANCE DYNAMITE』ですが、
この年は、1日のみの開催で、一発勝負で優勝を決める方式でした。
会場は、『OASIS21』でした。

04年編05年編で記したように、
僕ら『daft』は、
2004年“Spy Master賞”,
2005 年“準優勝
と、きていたので、
もうあとは“優勝”するしかないと意気込んでおりました。


そして、
全チームが踊り終わり、
まずは順不同に”BEST7“が発表されます。

呼ばれたのは、
・『KoRock
02年編から登場し続けている当時中学生のスターチーム。“泰智”, “J”, “いっとん”(以上、現在も『KoRock』), “あっつー”(のちに『A.R.E.S』), “KAZUTO”(元『S.P.CREW』), “Susumu”(現、“Susumu Spaniel”/『A.R.E.S』)の6人でした。

・『頂志
05年編で紹介したbboyチーム。コンテストキラーとして、この年も活躍を見せています。
メンバーは、“SASA”(現、『DANCE STUDIO33』代表), “YABETTY”(現、『STARGATE DANCE STUDIO』代表), “Ko-ketsu”, “Iguchin”, “ISOWA”, “YASUTO”(元『MITSURIN』)の6人。

・『Skullz
04年編で紹介し、05年編でメンバー編成とその活躍ぶりを記した『Bo’z』ですが、就職を機に “YAMA-chan”, “YU-JI”が脱退しました。
そこで残ったメンバーで結成した新チームでした。
メンバーは、“ヒロト”(現、“Hilototti“/『Hilotes』代表), “HIROAKI”(現、“WOWZ”), “DEJI”, “YU-TA”(現、“0014”)の4人でした。

・『daft
※“UC”, “masahiro”の2人組。この時は前述の『DANCE CHALLENGE』入賞後、『DANCE DRIVE』入賞前の時期で、新社会人なりたての頃でした。

・『SPICE BOYZ
※一宮駅で練習していたメンバーで結成したbboyチーム!メンバーは、”HARAKO“, ”Ash“, ”KID”, “BUCHI”, ”TETSUYA”, ”YASU”, ”SAKU”, ”TAKASHI”でした。

・『U go girl!
04年編から紹介している全国区のJAZZチーム。“RENKA“(現、『Rei NAGOYA』ディレクター), ”LISA“, ”ASAKO“(のちに”Ne-Yo“/”Snoop Dogg“ツアーダンサー)の3人であり、それぞれが全国、世界で活躍しました。

・『???』
※情報募集中。


でした!

その上位チームが呼ばれた後で、
その中から入賞チームが発表されました。

Spy Master賞”が、『SPICE BOYZ
準優勝”が、『U go girl!
そして、
優勝“が、
Skullz』(“ヒロト”, “HIROAKI”, “DEJI”, “YU-TA“)
でした。

足踏みする僕らを尻目に、
Skullz』は、名古屋の新世代を象徴するHIPHOPチームとなっていきました。


JDD vol.13 中部予選と社会人ダンサーの代償


DANCE DYNAMITE』が終わり、
次に来る大きなダンスコンテストイベントは、
JDD vol.13』名古屋大会でした。
昨年、5年ぶりに開催された『JDD』の中部予選でしたが、
その後は10年ほど開催され続けます。

ちなみに、
JDD vol.13 final』は、それまでの『Zepp OSAKA』などの2000人規模の会場から、
パシフィコ横浜』の5000人強の会場へと拡大された転換点となった年でもありました。


そして、
我々『daft』は、この年に初めて『JDD』予選に参戦しようと決意しました。
前述の『DANCE DYNAMITE 2006』では“優勝“を逃しましたが、
その後、前述の神戸での『DANCE DRIVE vol.1』での入賞を励みに、
「今年こそは『JDD』のFINALISTになる!」
と、中部予選に向けて意気込んでいました。


DANCE DYNAMITE 2006』では、
就職を言い訳に練習時間・濃度ともに低下していたんじゃないか?
との仮説を立てていた僕らは、深夜練の時間を延長し、
JDD』に向けた練習に熱を入れるとともに、
どんどんと睡眠時間が削られていきました。

そして、
迎えた『JDD vol.13』名古屋大会当日。
僕の相方“masahiro“から連絡が入りました。
「朝起きたら膝が3倍くらいになっている。」

数時間前まで普通に練習していたのに、
これはいつもの寝坊した時の言い訳かなと思いましたが、
送られてきた写真を見ると、本当に腫れてました笑

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▲当時masahiroより送られてきた写真


何とか3分間持つならば踊りたいと、
応急処置で鍼灸治療などを施しましたが、
遂には歩けなくなるほど痛みが増してしまい、
daft』は出場を断念します。

これはショックでしたね。
結局、”masahiro“は膝に入った細菌が化膿してしまったということで、
手術となり、そこから3週間くらい入院しました。
治療とリハビリで2〜3ヶ月は『daft』の活動が出来なくなってしまいました。

寝不足で免疫力低下の中、
仕事と練習でずっと緊張(ストレス)状態だったことが、
少しずつ身体を蝕んでいたんですね。

社会人ダンサーとしてのペースを掴む大切さを痛感した出来事でした。


それはさておき、
JDD vol.13』名古屋大会の本選進出チームは、
・『Skullz
※前述の『DANCE DYNAMITE 2006 』の優勝チーム!前身の『Bo’z』から2年連続の『JDD』 FINALISTでした!
ヒロト“(現、”Hilototti”), ”HIROAKI“(現、”WOWZ“), ”DEJI“, ”YU-TA“(現、”0014“)の4人組。

・『TRACE
93年編から紹介している ”HIRO“(『ALMA』)、そして同じく静岡出身の ”SOICHIRO“, さらに、 ”TAKESABURO“(『SO DEEP』, 『XXX-LARGE』)という超トップダンサーのユニットチーム!

の2チームでした。

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▲JDD vol.13 名古屋大会レポート

Skullz』は結成早々既に常勝チームでしたね。
名古屋のBIGイベントでももちろん引っ張りだことなっていきました。


その他の名古屋ダンスコンテストイベント

ここから、
さらにこの年のコンテストイベントを振り返っていきます。
昨年同様、大小様々なコンテストがありましたが、
自分から見て比較的シーンへの影響の大きかった地元コンテストをまず3つ振り返ります。

1つ目は、
04年編から紹介している『HEAT STREET』です。
今一度言いますが、
97年編で紹介した『From Behind』, 『Check It Out』を皮切りに、
01年編から紹介しており、2006年の当時でも変わらずシーンの中心イベントとなる『TOSS IT UP』を手掛けていた ”KATSU“(『Beeper』, 『DEGIL FIRE』, 『moNsta』など)が仕掛けていたダンスコンテストでした。

当時は、『JDD』はじめ、中部での主要コンテストのほとんどに”KATSU“は“JUDGE”として参加している“名古屋シーンの父”と言って過言ではない時代でした。

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▲HEAT STREET 2006 フライヤー

その“KATSU”が東京からGUEST JUDGEを招いて行っていた年一回のダンスコンテスト『HEAT STREET』において、
見事2006年のチャンピオンの座を射止めたのが『HADIT』でした!

HADIT』は、
岐阜を拠点とするHIPHOPチームであり、
TAKA”, “KEN”, “TOMO”, “SATOKI”の4人組でした。
元々、“KEN”, “TOMO”が大阪で『SENCE』というダンスボーカル&ラップグループで活動しており、
岐阜に拠点を移した際にダンスチームとして結成されたのが『HADIT』でした。

小気味の良いノリと、アッパーなバイブス、
巧みな構成が持ち味のチームでした。

我々『daft』は“masahiro”のケガも明けており、意気込んで出場したものの惨敗した苦い思い出があります。


そして、2つ目が、
05年編で紹介した”You-Gee“主催の『DANCE TRIMUCH』です。
この年も昨年と同様に、4回の予選大会を通過した ”TRI-MASTER“チームによって、
年間チャンピオンとなる”GRAND MASTER“を決める大会が行われました。

こちらは”masahiro“のケガで予選大会に出られず、
daft』は指をくわえて見ているだけでした。

というわけで、
この年に”TRI-MASTER“となったのが、

・『HADIT
※前述の『HEAT STREET 2006』優勝チーム。”KEN“, ”TAKA“, ”TOMO“, ”SATOKI“の4人組。

・『DRAGON CLOWNZ
99年編から紹介している”Nishi-P“(『遊闇』), ”INO“(『青空』, 『NIGHT RYDERS』), ”MOTOTAKA“(『FROG』, 『Traffic Panic』), 04年編から紹介している”JUNYA“(『Heart Be Groovin’』)によるレアなCLOWN UNITでした!

・『BEVIZ
03年編で紹介した『Q'z』のメンバーである ”SUGI-J“(aka ”MC ROKUDENASHI“, ”Toofiyman“)と”TATSUNORI“(現、焼肉『』代表)に、
SUGI-J“の実兄であり、98年編から紹介している“Coko-1“(現、“CONiY"/『DANCE STUDIO HIGH STARS』代表)も加入していたHIPHOPチーム。

・『TIMBER
※大阪から参戦してきた2人組のフィメイルHIPHOPチーム!若手ながらスキルの高さで圧倒していました。

・『ROMP
※2006年結成のJAZZチーム!『STUDIO ZOO』で”KANAMI“の呼び掛けで出逢った当時高校生〜専門学校生の若手フィメイルチーム!
メンバーは、“KANAMI“, IDUMI“(現、『Art informel』), ”MAIKO“, ”MAKO“, “AIKA“の5人組。

・『SLAM BAD FUNK
01年編で紹介した『無限ロッカーズ』の ”ATSUSHI“(現、『ALL GOOD FUNK』), ”MORIATSU“(現、”MORIARCH“/『BIO BLOOD』)と、その後輩である”T-mo“で結成されたLOCKチーム。
当時、既に ”ATSUSHI“は上京していましたが遠距離チームとして名古屋に登場します!

・『ダイカサボン
※前述の『90STEPPERS』の”Bomber“, ”SAKI“が元々在籍していたチーム。
メンバーは”DAIKI“(のちに『Smokin’ Jacxxx』), “SAKI“, ”Bomber“の3人組!

・『vanilla
※”YUKARI“, ”MEGU“(のちに『しゃかりき』)などを擁したガールズHIPHOPチーム!

・『DANCE LIKE A TALKING
05年編で紹介した『DANCE DYNAMITE 2005』の優勝チームである『K-flavor≪ZERO≫』のメンバーである、 ”KATSUO“, ”Sougi“, ”HIROKI“の3人のチーム!

・『S@mmy
※情報募集中

・『LOVE LA-X
※REGGAEチーム

・『Black Jiggy
※岐阜を拠点に活動する”HAYATO“をリーダーとしたLOCK&POPのOLD SCHOOLチーム!

・『にっぷくるう
02年編で紹介したLOCKチーム。この時は ”HIROKI“, ”MASASHI“, ”なおみ“の3人でした。

以上、13チームでした。(順不同)

この中で、
2代目『GRAND MASTER』に輝いたのは、
SLAM FUNK LINE』(”ATSUSHI“, ”MORIATSU“, ”T-mo“)
でした!

03年編で紹介した『レオン』がメンバーの就職により事実上解散となってしまった ”MORIATSU“(現、”MORIARCH“)が次に勝負をかけるべく選んだ新チームが見事結果を残しました。

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▲DANCE TRIMUCH 2006 レポート


そして、
GUESTには、『NAGOYA DREAM TEAM』として、
名古屋を支えるベテランダンサー勢揃いしていますし、
さらに、
Popin’ Pete“&”SUGAPOP“(『ELECTRIC BOOGALOOS』)まで登場という豪華さでした!
それは会場入りきらないくらいの状態になりますね!


そして、3つ目は、
96年編より紹介しているダンスコンテスト『来い!』です。
10周年&vol.10の節目ということで、2年ぶりに開催されました!

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▲来い! vol.10 フライヤー


来い!』HISTORY
vol.1(96年) show case event
vol.2(96年)優勝:『Hi-Problem Child
vol.3(97年)優勝:『C-HAIS
vol.4(98年)優勝:『e’f
vol.5(99年)優勝:『PUMPKIN HEADS
vol.6(00年)優勝:『CONTROL
vol.7(01年)優勝:『TEAM
vol.8(02年)同率優勝:『TEAM』&『女聖
vol.9(04年)優勝:『???』※情報募集中
と経てきまして、
vol.10のアニバーサリー回を制したのは、
98年編より紹介している名古屋のPOPシーンの礎を築いたと言っても過言ではない、
ROOT’S ON』(”ANI“, ”BUNPEI“)
でした。

僕ら『daft』も出場していましたが、
特別賞”に終わりました。

表彰式では、納得できなくて壇上でめちゃくちゃふてくされていたのを覚えてますね笑
よく説教されなかったなっていうくらいふてくされてましたし、吠えてました笑

若気の至りですね。
お恥ずかしい限りです。
まぁ、嫌いじゃないんですけどね。
本当に熱いんだったら。
もし、中身伴ってなかったら1番ダサいんですが。
だから、絶対にいつかひっくり返してやるなんてのは良く思ってましたね。
そういう勝負じゃないんですけどね。


というわけで、
この年に名古屋で開かれた主要なダンスコンテストの紹介でした。


SUPER BAD 2006

さて、
コンテストのみならず、もちろんクラブイベントも盛り上がっていました。

東海の年に一回のお祭りイベントと言えば、
01年編から紹介している『SUPER BAD』(『トップアッププロダクション』主催)でした。

2001〜2003年が大箱である『CLUB OZON』での開催であり
2004〜2005年が『丸美観光ビル』を丸ごと会場となる”クラブサーキット“でしたが、
2006年は、その2つを合わせた”大箱+クラブサーキット”開催となりました!

会場は、
Zepp NAGOYA』, そして、『丸美観光ビル』(『CIPHER』(のちに『Flex Lounge』), 『TIGHT ROPE』, 『LUSH』(現、『eight nagoya』), 『JB’s』, 『Daughter』)
の合計6会場での開催でした!!

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▲SUPER BAD 2006 フライヤー表紙


Zepp NAGOYA』というさらに巨大化したステージに、
CASTINGにもチカラが入っていました。

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▲『SUPER BAD』Zepp SIDE -Live&DJ-

Zepp side”のLIVE&DJは、
名古屋が全国に誇るレジェンドクラスのメンツが登場していますね!

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▲『SUPER BAD』Zepp SIDE -DANCE-

そして、
DANCEは全国各地から最高峰のダンサーが集結し、
さらには東海の最前線チームもオリジナルチームやユニットで登場します!

観れば観るほどにすごいメンバーです。

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▲SUPER BAD 2006 フライヤー裏表紙(DA KOOLAIDの最高なイラストに右下にはRIP TX/K4)

そして、
CLUB SIDE”にも、
アングラ色強い出演者が勢揃いします。

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▲『SUPER BAD』CLUB SIDE -DJ-


写真1枚目のDJ陣は本当にレジェンドばかりです。
2枚目からはダンサー出身のスーパーDJたちも目立ちますね!

ちなみに『Traffic Panic』に当時ダンサーとして所属していたのが、
KOME“(のちに『MASH BRUSH』/現、”水上亮平“/『nexx design』)、
そして、99年編より紹介している ”MOATTACKA“(現、”MOTOTAKA“/『FROG DANCE STUDIO』代表)
でした。
ダンサーにも支持の多いDJ集団にダンサーメンバーがいるイケてるCREWでした!


そして、
MCも濃厚です!

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▲『SUPER BAD』CLUB SIDE -MC&SING-

ちなみに、
名古屋が全国に誇るウェッサイグループ『PHOBIA OF THUG』の、
LIVEダンサーを当時務めていたのが、
ROOT’S ON』(”ANI“, ”BUNPEI“)
でした!

そして、
DANCEももちろん盛りだくさんです!

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▲『SUPER BAD』CLUB SIDE -DANCE-


僕ら『daft』もこの年初めて『SUPER BAD』に出演することができました!!

やはり、嬉しかったですね。
名古屋を代表し、象徴するイベントですからね。
ようやく”名古屋シーン“にひとつ認められたのかなと思えたキッカケのひとつになりました。


そして、
この年の『SUPER BAD』での思い出がもうひとつあります。
それがイベント内企画の『CASH the BATTLE』でした。

この企画は、会場で自由参加のサイファーをして、
良いダンスをしたら、JUDGEからその場で現金がもらえるというものでした。
(02年編の『GATE』でもありましたね!)

その時のサイファーで初対面で熱くバトルしあったのが、
TECCHY“(現、『SOUTHGATE』)でした!
やたら上手い人がいる!ということでガンガン仕掛けていって、踊り合って、仲良くなりました(^^)

この頃は、
沖縄から”TECCHY“や、その先輩の『temporaly』(”CGEO“, ”“, ”TA-NI-“)が、
三重県に出稼ぎに来ており、
時折名古屋のイベントにも遊びに来たり、踊りに来たりしていました。

その後も、
YA-SU-“(『MORTAL COMBAT』), ”山犬“(のちに『LOKI』), ”mi-to“(のちに『SOUTHGATE』)など、
沖縄から東海地方に出稼ぎに来ては東海シーンで活躍し、
東京/大阪へと進出したりするダンサーも多かったです。


そして、
そんな『CASH THE BATTLE』で、
JUDGEの”YOSHIE“と”AKANE“(ともに『BE BOP CREW』)から、
現金をGETすることが出来たのもとても嬉しかった思い出ですね!

この後、
前述したように”masahiro“が怪我をしてしまい、踊れない時期もあったので、
僕”UC“は1人でも踊ることのできるバトルにもハマっていくようになります。


ROCK ITの進化

さて、
クラブシーンを代表するイベントであり、
バトルシーンの先駆けとなったイベントが、
03年編より毎年紹介している『ROCK IT』です。

これまでに、
WHO WANNA BATTLE”, ”挑戦箱”,
ソロバトルグラチャン”,
2on2バトルグラチャン
と各企画で盛り上がって来ましたが、
その『ROCK IT』に、
大きな事件が起きました!!

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▲ROCK IT × AFRICA BAMBAATAA

それが、
AFRICA BAMBAATAA“の名古屋初登場でした!
あの“HIPHOP”の名付け親とも言われるカルチャーの創始者の1人であり、
PEACE”, ”UNITY”, ”LOVE”, ”HAVING FUN”を掲げた『ZULUNATION』を組織したレジェンドです。

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▲ROCK IT × AFRICA BAMBAATAA フライヤー裏面

その”AFRICA BAMBAATAA“が出演するpartyとして『ROCK IT』を選んでくれたことは、
当時、『ROCK IT』運営サイド(主に”CAZUL“, ”JUNJUN“)も相当テンションが上がったらしく、
さらに、
AFRICA BAMBAATAA“本人から、
「このイベントにはHIPHOPに必要な要素が全て詰まっている。
俺らのHIPHOPを継承したホンモノのHIPHOPだったよ!」
というコメントをもらい、
続けてきて良かったと感動したという逸話も残っています。


そして、
その余韻も醒めやらぬまま、新企画も始まりました!
それが、”ROAD TO LA“という新企画でした。

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▲ROCK IT -ROAD to L.A.-フライヤー

これまで通り、
ドラマー“KASHI“率いる『THE GROOVE BROTHERS』の演奏による”生音バトル“、
そして毎月8組限定トーナメントによる”2on2バトル“、
JUDGEは『WARRIORS』(“KENJI“, “HAYATO“, “BUNPEI“, “GOTCH“)の各1票と、“デシベル計”を用いた観客の声援で1票という点は変わりませんでしたが、
そこに、
当月の優勝チームが、前月までのチャンピオンチームに挑戦する。
という“防衛バトル”が追加されました。

そして、
チャンピオンチームは5ヶ月連続で防衛してV5を達成したら、
LAへのフライトチケットをGETできる!
という企画でした。


そして、
始めにチャンピオンとして防衛を重ねていったのが、
キャラメル&TA-NI-』でした。
名古屋城前ポッパーズ』の“キャラメル”と、
temporaly』の“TA-NI-”という
スーパーポッパーユニットでした。

V3”まで行くも、その次の防衛を止めて、
新チャンピオンになったのが、
KENTA&AKO』(初代2on2グランドチャンピオンコンビですね。)
でした。

その後に、
防衛バトルを制して新チャンピオンとなったのが、
DDT』(“BBOY YASU”(『NEXT SCHOOL』/『CONCRETE SOUL ROCKERS』, “BUDO-BOY”)
でした。

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▲DDT(左から、YASU, BUDO-BOY)


こちらは2人とも『I LOVE FOOTWORK』に所属するBBOYユニットでした!

生音にしっかり乗せられるBBOYはかなり強かったですね!
2006年はこの『DDT』が”V3”を達成したところで幕を閉じました。
この新チャンピオンがV5を達成するのかどうか?!

結果は2007年に続きますので、
また次編に記します。

名古屋クラブシーンの屋台骨

そして、
レギュラーのダンスイベントで人気を博していたのが、
01年編から紹介している『TOSS IT UP』と、
98年編より紹介している『WILD WILD SMILE』であり、
これらが長寿イベントとしてシーンの屋台骨を支えていたことは、
04年編でも紹介しましたが、
この年もやはり変わらず盛り上げ続けてくれていました。
本当にすごいことです。

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▲TOSS IT UP 2006 フライヤー

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▲WILD WILD SMILE フライヤー


WILD WILD SMILE』(通称:ワイスマ)のオーガナイザーの1人である”Coko-1“(現、“CONiY“/『DANCE STUDIO HIGH STARS』代表)は、
DJとしてのみならず、
ダンサーとしても、実弟”SUGI-J“らと前述の『BEVIZ』としても活動していました。

そして、
もう1人のオーガナイザー ”TAKAOMI”(現、『(株)エントランス』代表取締役)は、
この時期には、
02年編で紹介した『moNsta』の中から、
C-HAIS』, 『FIVESTAR』の“TATSUYA”,
Hi-Problem Child』の“YO-SUKE”,
entrance』の“TAKAOMI”, “COZY”, “MO-TA“,
元『BRIDGET』の“TAKESHI
で新しく結成した『TOP SCRUM』というチームで活躍していました。


そして、
WILD WILD SMILE』のイベント前には、
97年編から紹介している “SHIZUKA”(『ROSE HIPS』)がダンスレッスンをクラブで行われていました!

ちなみにこの頃の『ROSE HIPS』は、 “SHIZUKA”と“CHIKA”の2人で活動をしており、
カリスマフィメイルチームとして確固たる地位を築いていました。

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▲ROSE HIPS(左から、CHIKA, SHIZUKA/右は生徒のNAGISA, AYUKO)

本当にずっとシーンを支え続けてくれているってすごいことですね。

ということで、
当時の名古屋を象徴するダンサー、スポットを紹介した記事が、
全国版雑誌『DANCE STYLE』にも紹介されました。

ここでも、
名古屋の歴史を語る上で外せない2人として取り上げられているのが、
プロローグ編から紹介している”倉田サム“(『ダンスダイナマイト』代表)と、
95年編から紹介している”DA KOOLAID“(現、”CAZUL“)の2人です!

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▲倉田サム&DA KOOLAID インタビュー記事(DANCE STYLE  2007.02号より)

この2人の柔軟かつ、確固たる信念は、
名古屋シーンの発展になくてはならなかったということを、
若輩者の僕でも感じる所存です。

そして、
「名古屋のダンサーと言えば?」
の質問に、この当時でもすぐに出てくるダンサーが、
91年編より登場し続けている、
PINOCCHIO』と”RYO-Z“でした。

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▲PINOCCHIO&RYO-Z

全員、今もカマし続けているカリスマです。

そして、
もうひとチーム、当時全国規模で活動し、名古屋を象徴するチームが、
04年編でも紹介した『HONEY WAXX』でした!

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▲HONEY WAXX(左から、AIKO, TOMOKO, AYA)

まさに時代を彩ったカリスマチームでした。
他にも紹介したい記事が色々ありますが、
他のダンサー紹介の写真を載せておきます。

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▲名古屋ダンサー名鑑

これまでに紹介してきた方ばかりですが、
見逃してはいけない方が1人いますね!


それが、この2006年に、
NYダンス留学より地元愛知に戻ってきた “ERI“(現、”ERi FeNeSiS“/『DOWNZ』, 『Keep It Real』)
です!

地元豊橋からNYに渡り、現地でbreakin'に出逢い、
一気に世界レベルに磨き上げたスキルで、
帰国後より、愛知の若手代表BBOY CREW『Keep It Real』にも所属し、ガシガシにかましていきます。
前述の『ROCK IT』にも、04年編で紹介した ”MAKI“(『W.a. funk star☆』, 『L.L.STYLE』)と2人で良く出場していました。


名古屋近郊のダンスイベント


さて、名古屋と同じように、
他の地域でも、その地域を代表する長寿イベントや大規模ダンスイベントが行われていました。

年代は多少前後しますが、
いくつか紹介します。

まずは、豊橋市です。
こちらは02年編で紹介したように『CLUB BIRTH』や『PARADA』において、
シーンの中心イベントが行われていました。

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▲GROOVY JUNCTION フライヤー

2005年に、“Tar-Q“(現、『C.R.E.A.M』代表)主催で行われたこのイベントは、東京からのGUESTのみならず、名古屋、静岡からも大御所ダンサーが豊橋に集結しており、
1000人近い集客で盛り上がっていました。


そして、
半田市では、”You-Gee“(現、『Studio U』代表)が、
2003年から長寿イベント『ROCK☆YOU』を仕掛け始めていました。

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▲ROCK☆YOU フライヤー

名古屋での前述の『DANCE TRIMUCH』より先に、地元半田市で草の根活動をしていたという、まさにHIPHOP活動家ですね。


また、岐阜では、
98年編から紹介している “TAKURO“(『PUMPKIN HEADS』)主催の『DIVE』などがダンスイベントとして人気を誇っていました。

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▲DIVE フライヤー

東京・山梨からも豪華ゲストが来ていますね!
S.A.S』結成前の”YOSHIO“, ”TATSUO“(『POTENTIOAL』)とかレアですね!


さらに、
同じ2003年から始まっていたのが、
今なお続く岐阜のダンスイベント『DLX』でした!
初回GUESTは、02年編で紹介した『Ugly』だったそうです。

また、
2005年より始まっていたのが、
98年編でも紹介した『DOPE FRESH』の ”TARO“(現、『dancing base zenith』代表)が仕掛けていた『PROGRESS』でした。

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▲PROGRESS フライヤー

こちらも数年にわたる長寿イベントとして岐阜のダンスシーンを盛り上げていました。

さらに、
のちに岐阜のバトルイベントとして名シーンを何度も演出した『@beat』も、
この年に始動していました。

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▲@beat vol.1 フライヤー

最初はSHOW CASE イベントだったようですね。

各地域でそれぞれのイベントで盛り上がっていたようです。


バトルイベントの台頭と東海ダンサーの活躍

さて、
これまでに何度か触れたように2004〜2005年あたりから、
NEW SKOOLにも全国的に大きな”バトル“イベントが開かれるようになりました。

代表的なものが、
・『THE GAME』(2003年〜、『ADHIP』主催)
・『HOOK UP』(2004 年〜、『ADHIP』主催)
・『DANCE@LIVE』(現、『DANCE ALIVE HERO’S』(2005 年〜、『アノマリー』主催)
でした。

これらのイベントの盛り上がりが全国的に拡がり、参加者の地域も増えることで、
2006年はこれまで以上に東海ダンサーが活躍した年だったと思います。

私”UC“も上記3つのイベントには参加しましたが、
2006年は全て“予選落ち”しました。

そんな中、
大活躍していたのが、
91年編より登場している ”KENJI“(『PINOCCHIO』)でした!

DANCE@LIVE 05-06season』において、
FINALIST”となると、
DANCE@LIVE 2006 FINAL』において、
HOUSE“サイドで優勝し、
初代チャンピオン“となります!!

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▲KENJI(ダンスアライブ2007パンフレットより)

名古屋にいながら”日本一“を獲りました!!
凄すぎます!
かっこよすぎです。

そして、
THE GAME』でも準優勝しました!

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▲THE GAME 2006 レポート


そして、
04年編で紹介した静岡の ”MITSUO”(『CHOOSE ONE』/現、『DANCE STUDIO Cyper』代表)も、
DANCE@LIVE 2006 FINAL』の “HIPHOP”sideでFINALISTに輝き、
THE GAME tokyo 2006』でも準優勝を果たすなど、
全国トップクラスのバトラーとして活躍していました。

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▲THE GAME tokyo 2006  レポート

さらに、
同じ静岡の “KANSUKE”(『3GENERATION』)も、
HOOK UP house 2006』で準優勝、
THE GAME tokyo 2006』でベスト8と、
こちらも“HOUSE”シーンで活躍を見せました。

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▲HOOK UP ”HOUSE” レポート

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▲THE GAME -HOUSE SIDE- レポート

そして、
DANCE@LIVE 2006 FINAL』が終わり、
2nd seasonとなる『DANCE@LIVE 06-07season』となると、
さらに名古屋ダンサーが爆発し始めます!

まずは、
初代チャンピオンの”KENJI“(『PINOCCHIO』)は、シード権があるにも関わらず、
06-07season“でも予選大会で優勝をするなど大暴れし、
2年連続のFINALISTとなりました。

そして、
同じく“HOUSE side”では、
90年編より紹介している”SENBA“(『MOVE UP』, 『FOOT ILLUSION』, 『RING』)が、
突如バトル参戦すると、”優勝“, “準優勝“, “3位“と常に上位に駒を進め、一気にFINALISTとなりました。

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▲DANCE@LIVE 06-07season HOUSE side レポート

そして、
HIPHOP sideでは、
91年編より登場している”RYO-Z“(『Hi-Problem Child』, 『FIVESTAR』, 『Bush Babeez!!』)が、
いきなり参戦いきなり優勝で、一発でFINALISTとなります。

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▲DANCE@LIVE 06-07 charismax レポート

  ”KENJI“も、”SENBA“も、”RYO-Z“も、
90年〜02年編まで、毎年のように登場し、その時代を彩ってきたスターダンサーたちなわけですが、
そこから10年以上経っても、国内トップクラスのシーンで全国的に活躍しているって本当に凄いことですね!

さらに、
06-07seasonから新設された”FREESTYLE“ sideでは、
99年編より紹介している”キャラメル“(『名古屋城前ポッパーズ』)が大爆発しました!

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▲DANCE@LIVE 06-07season charismax レポート

国内トップダンサーが集結する中、
準優勝“, ”ベスト4“と結果を残しまくりました。
キャラメル“は当時、県外のバトルイベントにチャレンジする名古屋ダンサーがほとんどいない中、
全国のバトルに単身で乗り込んでおり、
少しずつ出してきた結果が、ここに来て爆発していました!

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▲DANCE@LIVE 06-07season FREESTYLE SIDE結果
※静岡の“MITSUO”(『CHOOSE ONE』)、長野の“YOSHIAKI”(『REAVEL』)もポイントとってますね!

また、
当時18歳だった”BIG WEST“(のちに『LOKI』)も、『DANCE@LIVE』”freestyle side“で1度ベスト8入りするなど、
その大器の片鱗を見せていました。

皆、本当にすごいですね。
また、FINALについては次編で記します。

そして、
BUNPEI”(『ROOT’S ON』, 『名古屋城前ポッパーズ』)も、
HOOK UP』での“ベスト4”をはじめ、各地のPOPバトルで好成績を収めていましたし、
MAKI”(『W.a.funk star☆』)も全国のLOCKバトルに足繁く通い好成績を残していました。


bboyシーンの大まかな変遷

そして、
バトルといえばbreakin’ですね!

もちろん名古屋でも様々なダンサーがバトルで活躍していましたが、
バトルイベントが多すぎますし、
かつ独自のシーンで発展しているので、
ここですべてを紹介することは出来ませんが、
この年は前述したように、
ERI“(現、“ERi FeNeSiS“/『Keep It Real』)が帰国したこと以外にも、
様々な BBOY CREWが誕生していたので、
少しだけ紹介します。

これまでは、
01年編で紹介した『NEXT SCHOOL』(“MATSU”, ”B-YASU”, ”GANE”, ”GO”, ”ANDO”, ”KAN”)が、
バトル派BBOY CREWの新世代として登場したあたりから世代交代が始まり、
2003年頃には、のちに『Keep It Real』となる ”SHINTARAW“, ”ジュニア“, ”ユースケ“, ”マル“, ”SHIGERU“などが活動を始めていました。

そして、
2005年に本格活動したチームが、
OFF-STREET BOYS』でした!
メンバーは、
TSUBASA”, “KID”, “Achilles”, “egg”, “”, “Ash“(前述の『SPICE BOYZ』メンバー), ”GENKI“(04年編の『シュライン』メンバー)
の7名でした。
当時の名古屋bboyの練習場所のメッカ『神宮前』から生まれたチームでした。

さらに、
同じ2005年には愛知と奈良のBBOYで結成された
YELLOW SUNS』(”WUTA“, ”YAGISHOTARO“, ”WOOD“, ”MASUO“, ”SNG“, ”DON’T“など)
も活動を開始しました。
こちらも日本を代表するコアなCREWとして、ブレない活動を続けていきます。

そして、
2006年に結成直後から、2006年, 2007年, 2008年と、
UK BBOY CHAMPION SHIP』中部予選を3連覇し、
一気に注目チームとなったのが、
名古屋(岐阜)の勢いのある若手が手を組んだ『MINITZ MADE』でした!
(2006年は前身チーム『EXTREME AMBITION CREW』として優勝。)


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▲MINITZ MADE(上: 左から、たっちん, YABETTY, HIROKI, SHION、下: 左から、YUSUKE, Ko-ketsu, すっぽん)

メンバーは、
05年編で紹介した『MITSURIN』の “YUSUKE333“, “たっちん”(現、『一撃』)、
同じく05年編で紹介した『頂志』の “YABETTY”(現、『STARGATE DANCE STUDIO』代表), ”Ko-ketsu“、
そして、
HIROKI“(のちに『MASH BRUSH』), ”SHION aka 2D“, ”すっぽん“,
でした。
ちなみに、『UK BBOY CHAMPION SHIP 2006』中部予選の際まで、
ゆーきも“(現、お笑い芸人”ベーグル吉村“/『ポメラン』)
も参加していたそうです。

そして、
ERI“(現、”ERi FeNeSiS“)と同じ『Keep It Real』である”RYO-Z“が後輩に組ませたCREWが、
AVARANCHE』でした。
メンバーは、
UNO ONE“, ”CHABO“, ”チュンバ“, ”コミックス“, ”リルイー
でした。

このように、
BBOYシーンにとどまらず、クラブシーンにも存在感を示すBBOYやCREWも次々と生まれていました。


KIDSシーンの盛り上がり

さて、
バトルイベントと同じ時期に盛り上がり始めたのが、
KIDSシーン”でした。

05年編で記したように、
ALL JAPAN SUPERKIDS DANCE CONTEST
が始まったのがこの年でした。

そして、
第一回の中部予選大会を優勝したのが、
小学生部門:『3PEACE
中学生部門:『まいけるじゃく3

でした!

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▲ALL JAPAN SUPER KIDS CONTNST 予選レポート

3PEACE』は、
MONA”(のちに『BULL BABE』, 『1994』)
SHO-TA”(のちに“中尾翔太”/『WOWZ Fam』, 『FANTASTICS』)
MAHO
の3人でした。
当時10〜12歳にして、その実力はズバ抜けていましたね!

ちなみに、
前述の『DANCE DYNAMITE 2006』の “KIDS class”でも優勝しており、
数多のコンテストを制していました。
メンバーを育成、選抜したのが、
KITOH”(『FORCE DANCE STUDIO』代表)であり、
当時プロデュースしていたのが、 “Coko-1”(現、“CONiY”/『DANCE STUDIO HIGH STARS』代表)でした!
(“Coko-1”は当時、『FORCE DANCE STUDIO』にてインストラクターとしての腕を磨いていました。)

そして、
05年編でも紹介した『まいけるじゃく3』は、
岐阜が産んだスーパーKIDSダンサーでした!
メンバーは、
YUKA”(現、“スーパーYUKA”/『Man&Woman』, 『off-wite』)、
TAEKO“(現、『BO:CE』, 『1994』)、
NORIKO“(現、『BO:CE』)
の3人でした!
中学生部門での優勝とはいえ、
この年、”YUKA“が中1なだけで、”TAEKO”, “NORIKO”の姉妹は共にまだ小学生でした。
いかにズバ抜けていたかがわかりますね!

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▲まいけるじゃく3(左から、NORIKO, TAEKO, YUKA)

ちなみに、
まいけるじゃく3』を育てたのは、
05年編で紹介した『チョコランタン』の “NATSUKO”でありますが、
先生ではあるものの、
当時から、選曲・振り付けはメンバー自身にさせていたということなので、
3人の才能と努力にはさらにびっくりさせられますね!

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▲ALL JAPAN SUPER KIDS CONTEST vol.1 結果


それ以外ですと、
05年編で紹介した『FAB☆GEAR』が、
この年より開始した『スーパーチャンプル』に出演し、
人気ダンサーの1組となりました。

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▲FAB☆GEAR

当時、小学校低〜中学年が踊るLOCKは、
かわいらしさとかっこよさの融合で、お茶の間の人気者となったそうです◎


このように、
地元名古屋からも才能豊かなKIDSダンサーが次々と生まれていきました。
今最前線で活躍し、全国・世界で活躍するあんな人やこんな人もこの頃から実は踊り始めていたりしました。

今後は多すぎて紹介しきれないかと思いますが、
またタイミングがあれば、純真無垢だった頃の写真を載せていきたいと思います。


名古屋アーティストとダンサーの関わり

さて、
もうひとつシーンを語る上で欠かせないのが、
アーティストとダンサーの関係です。

名古屋ダンサーに所縁のあるアーティストと言えば、
95年編から紹介していた『Beeper』に所属していた”NAOKI“こと”SEAMO“ですね。
02年編で、”シーモネーター“としてのメジャーデビューが決まったと記しましたが、
この年に”SEAMO“として再デビューしました!

そして、
この頃より、専属バックダンサーを01年編より紹介している『BRIDGET』が務めるようになりました。
この頃には、
初期メンバーだった”RYUTA aka Jacky”, “TAKESHI”は脱退し、
HAYATO”が加入しており、
YU”, “RYO”, “MASA”, “HAYATO”で活動していました。

以前にも記した通り、
この経験を経て、のちに『BRIDGET』自身も、ダンスボーカルグループとしてデビューしました。

そして、
BRIDGET』を脱退した“RYUTA aka Jacky”は、
01年編から登場しており、2004年にはメジャーデビューを果たしている『HOME MADE 家族』の“マネージャー”となります。

そして、
その“RYUTA”の紹介により、
HOME MADE 家族』の専属サポートダンサーとして活躍したのが、
04年編から紹介している『HONEY WAXX』のメンバーであり、
97年編から登場している“AIKO”,
99年編から登場している“AYA”,
そして、
00年編から紹介している“ヒロト”(『Skullz』/現、“Hilototti”)、“SUGI-J”(『BEVIZ』/現、“MC ROKUDENASHI”)
の4人でした。

※こぼれ話
最初は『Bo’z』/『Skullz』の“DEJI”と“YU-TA”(現、“0014”)もバックダンサーとして参加していましたが、
「笑顔がうまく作れていないから。」
という理由で、
誰よりも笑顔が不自然だった “ヒロト”によりクビとなり、
SUGI-J”が正式メンバーとなるという経緯もありました。

この専属ダンサー4人で、
全国ツアーも共に回り、この年にはあの国民的音楽テレビ番組『MUSIC STATION』にも出演を果たします!
全国区のメジャーアーティストになっても地元のダンサーを活用してくれる、
名古屋愛を感じる『HOME MADE 家族』の漢らしさは最高ですね!

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▲HOME MADE 家族 × サポートダンサー


そしてもう1人、
日本を代表するHIPHOPラッパーになっても、
長い間名古屋ダンサーをサポートダンサーに起用してくれていたアーティストがいました。

それが、“AK-69“でした。
サポートダンサーに自身の2ndアルバム名にちなんで、
REDSTA DANCERZ』というユニット名までつけてくれ、
のちに『日本ガイシホール』や『日本武道館』でも単独ライブ時まで起用し続けてくれました!!
最終的には、“AK-69”のプロ意識が凄すぎて、東京のプロダンサー起用が増えてきてしまいましたが、
それでも、『REDSTA DANCERZ』は、
初期からの“AK-69”ファンの方々にも認識され、人気を誇っていました。

▲Ding Ding Dong〜心の鐘〜/AK-69

2007年リリースの『Ding Ding Dong 〜心の鐘〜』のMVから参加している初期メンバーは、
91年編より紹介している、 “SOMEKA”(『NASTY』, 『TEASE.』, 『RAJAH BROOKS』/現、『SAM×2』)、
92年編より紹介している、
TATSUYA“(『C-HAIS』, 『FIVESTAR』, 『TOP SCRUM』)、
95年編より紹介している ”TAKAOMI“(『entrance』, 『TOP SCRUM』)、
98年編より紹介している“YO-SKE”(『DOW BOYZ』, 『Bush Babeez!!』)
などでした。

その後に、
前述の『Skullz』の“ヒロト”(現、”Hilototti”), “HIROAKI”(現、“WOWZ”), “DEJI”、
99年編から紹介している “TATSUYA”(現、“ARROW”/『DROP GIFT』代表)
らも参加するようになりました。

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▲REDSTA DANCERZ(写真は2015年時)

この時期は、
名古屋発のアーティストが全国を賑わしていました。
今紹介した“SEAMO”, 『HOME MADE 家族』, “AK-69”に加え、
04年編で、紅白出場をはじめとしたその活躍ぶりを記した『nobody knows+』などがその代表格と言えますし、
どのアーティストも地元を大切にしたHIPHOP精神で、
アングラからメジャーまでどの層からもプロップスの高い方々ばかりでした。


新たなジャンルの台頭

というわけで、
あらゆる角度からシーンを振り返ってみましたが、
最後に、この年、全国のダンスシーンに衝撃を与えた出来事が、
映画『RIZE』の公開による、”KRUMP“というダンスが日本に広まったということでした。


92年編で紹介した『WRECKIN SHOP(ALIVE TV)』が一気にNEW SKOOLダンスの流れを決定付けたように、
そこから”HOUSE“も広まっていったように、
また新たなジャンルの流行に、
センスやアンテナの高いダンサーたちや、
衝撃を食らったダンサーたちがハマっていきました。

東京では、
RAG POUND』(“PATO“, “SEVA“, “AKIRA“(01年編登場『スカイラブハリケーン』/現、『EXILE』), “TETSUYA“(現、『EXILE』), “NOB“(93年編より登場、『ALL DEGREE』), “NAOKI“(現、『EXILE』), “JUN“(現、“Twiggz“), “REO“(現、『GENERATIONS』), “TAKESHI“)
をはじめ、
当時上京していた“RYO-Z”(『Bush Babeez!!』)などが第一世代として広めていき、
大阪では『D'OAM』(“KATO”, “KYOGO”, “MOCCHIN”)がいち早く取り入れてSHOWなどに昇華していました!

そして、
名古屋でも各々が“KRUMP”を踊り始め、
翌年の2007年に、
ILL BUCCNESS』が発足されました!
メンバーは、
02年編より紹介している“HIROAKI”(のちに“WOWZ”)、
99年編より紹介している“INO”、
91年編より登場している“matsuratty”(aka “TOMOKAZU”)、
99年編より登場している“TATSUYA”(のちに“ARROW”)、
前述の“SHO-TA”(のちに“中尾翔太”)
98年編より紹介している“YO-SKE”(のちに“J R@IO”)
の6人でした。

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▲ILL BUCCNESS(左から、SHO-TA, TATSUYA, HIROAKI, INO, matsuratty)

これ以外にも様々なダンサーが“KRUMP”を取り入れていき、
またひとつのジャンル、カルチャーとして根付いていくこととなります。


というわけでして、
何とも長くなりすぎました笑
年代も、ジャンルも、スタンスも、それだけ幅広くなったということですね。

自分が社会人としてスタートした瞬間に、これだけのことがあったのかと思うと、
中々思うところがありますね。


皆さんも、それぞれの視点でゆっくり楽しんでいただけたらと思います。

まとめ

daftが社会人ダンサーとして歩み出し、失敗ともどかしさを繰り返しながらも少しずつ繋がりを増やしていた頃、世間ではダンサーのスタイルやスタンスが拡大に増えてきた時代であった。

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