名古屋STREETDANCE HISTORY3 〜1990年:NEW SCHOOLの幕開け〜
どうもです。UCです。
(これは名古屋STREETDANCE HISTORY企画の目次3です。その他の目次はこちらから確認ください。→名古屋STREETDANCE HISTORY )
(2020.10.19 追記あり)
さて、今回は名古屋NEW SCHOOLシーンの幕開けとなる1990年の歴史について記します。
この後どうなるか、もう早く言いたくて仕方ないくらい情報はパンパンですが笑、
1年ずつまとめていくので、その先を知る人も瞬間の時代を楽しみながら読んでいただけると嬉しいです(^^)
(※文中はすべて敬称略です。ご了承ください。)
1990年とは
この年は全国的な流れとしても、ストリートダンスとしての“NEW SCHOOL“というものが、
ハッキリとカタチ作られた年と言えます。
音楽的にも、
“U Can't Touch This / MC Hammer“
“Rhythm Nation / Janet Jackson”
などのダンサーチューンが世界的に流行し、日本でも話題となりました。
そして、
前年開始の『DADA LMD』を皮切りに、
人気テレビ番組『天才たけしの元気が出るテレビ』内の人気コーナー『ダンス甲子園』、
若き日のダウンタウンが司会をしていた『ダンスダンスダンス』
と国内でダンス番組が相次いで流れたことでダンスブームが全国に巻き起こされた年でした。
(この頃はネット情報など皆無に等しく、地上波の持つ情報影響力はとんでもなく大きかったと考えられます。)
そして、
『DADA LMD (のちにCLUB DADA)』, 『ダンスダンスダンス』は深夜番組だったのに対し、
『ダンス甲子園』はゴールデンタイムでの放送でした。
そのためか、
ダンス甲子園で踊る高校生たち(実際高校生じゃない人たちも多かったですがw)が、同世代に与えたインパクトは大きく、
名古屋の中高生たちにも例外なくダンサー人口増加のキッカケとなり、
その中でいくつもの特殊な才能が輝き始めました。
現役高校生ダンサーの輝き
90年の『第一回ダンス甲子園』で中部地区代表になったのが、
奇抜なメイクとキャラで人気を博した“服部くん“(ここはテレビでの愛称で表記)率いる『WEST FAST』でした。
(全国大会優勝はあの『L.L BROTHERS』なのは有名な話ですね!)
▲WEST FAST動画
そして、続く『第二回ダンス甲子園』の名古屋大会に出場したうち、
注目を集めたのが、
・『MOVE UP』
・『CAPTAIN SUCK』(のちの『MIAMI FACE』)
・『Double Force』(プロローグ編で登場したAKIとMAYUMIのNew Jack Swingチーム)
そして、第一回に続いて代表になった
・『WEST FAST』
の4チームでした。
当時の『MOVE UP』は、
“SENBA”, ”MICHI”の2人組で、当時昭和高校3年生の同級生コンビで結成された初代『MOVE UP』でした!
(※2人とものちに『UNIVERSE』, 『Feet Stylers』としても活動し、伝説の『ha:n party』などを催した東海最重鎮のハウサーですが、当時はバリバリHIPHOPでした。)
▲初代MOVE UP(※写真は91年時)
そして、
『CAPTAIN SUCK』は、
”KENGO”(のちの『PARTY』)
”KENICHIRO”
”KOU”(現、『CAKRA DANCE COMPANY』主宰/『STUDIO CAVE』代表)
”YASU“(現、“DELAYAS”)
”SANOちゅう”
”TECHI”
の6人組でした。
小牧高と名城附高の3年生どうしが、同中だった“YASU”と“TECHI”の引き合わせにより結成されました。
▲『CAPTAIN SUCK』メンバーと『ダンス甲子園』で人気だった『SLAM-G』メンバー(※写真は91年時)
この年は、
『MOVE UP』、『CAPTAIN SUCK』ともに名古屋大会で涙を飲んだわけですが、
この2チームが名古屋大会で直接繋がったことは後の名古屋シーンを大きく動かすキッカケとなりました。
そして、
『CAPTAIN SUCK』の悔しさは翌年いわゆる”倍返し“で進化を迎えるきっかけとなるとは当時は知る由もなかったでしょう。
そんなこんなで、
当時の現役高校生で今後の名古屋シーンを大きく担っていくことになるダンサーが誕生し始め、
さらには当時中学生だった年代の中にも、
後に名古屋を、いや、全国を背負って立つダンサーが何人も人知れず誕生していたのでした。
中堅世代の出逢いとアクション
一方で、
プロローグ編で紹介した先輩ダンサーたちはというと、
“SAMU“はNYへのダンス武者修行中に現地で “KOZO”(現、『BEBOP CREW』)という九州出身のダンサーとともに、
『Hekyman production』というアメリカのプロダクションとダンサー契約し、
プロチーム『BREEZE TEAM』との共演を果たし、
また“megafresh“という現地のbboyとともにストリートパフォーマーとしてもお金を稼ぎつつ、
逆輸入のカタチで東京や大阪でもイベント出演したり、ストリートパフォーミングするなど、
カマしにカマしていました!!
そんな”SAMU“が90年、帰国しました。当時25歳でした。
そのまま、東京で行われた『第一回ダンスダンスダンス』(第一回は関東だけの放送)にて、
”KOZO“との『 K2 』で見事優勝しました!!
初代チャンピオンとして歴史に名を刻みました!
(ちなみに『THAI』と同時優勝)
※関東限定の放送だった為か、動画をこれまで確認出来たことがありません!もし、映像お持ちの方は是非見せていただきたいです!!
その後、”SAMU“は、
本場NYで培ったリアルな活動経験に加え、全国的なタイトルも引っ提げて、
「名古屋にカルチャーを伝えていく・根付かせる。」
という想いを持って、名古屋へと拠点を戻しました。
帰国直後より、盟友“ROCK”(現、『Dance & Bodywork Studio KBS』代表)と合流し、
チーム『ダンス★ダイナマイト』を結成しました!
名古屋を代表するチームとして活動を始めました。
そして、
ディスコやクラブで、プロローグ編で紹介した『WILD STYLE』のメンバーなどと繋がっていきました。
当時、
『WILD STYLE』のメンバーは“YUKOP“以外は愛知学院大学や三重大学に通う20〜21歳の大学生でした。
(もちろんダンスサークルなんてない時代です。)
一方で、”SAMU&ROCK“は脂の乗った25歳でした。
完全なる先輩後輩の関係だったのかもしれませんね。
とにかく、
ディスコもクラブも、夜遊び好き・音楽好きが集まる“大人の社交場“なわけでして、
ダンサーどうしの出会いの場も、やはりクラブやディスコでした。
当時は、
ほとんどの人が携帯電話も持っていないし、ポケベルも文字送信すらできない時代でしたから、
出逢いもキッカケも基本的には現場で顔を合わせてです。
そうなると社交場での出逢いとは偶然でありつつも、
会うべくして会ったある意味必然でもあったかもしれませんね。
当時の人気ディスコ(クラブディスコ)
90年に入って、名古屋でダンサーに人気だったディスコ(クラブディスコ)は、
・『WHAT’S』(店長は”DAISUKE”, 店員に ”RYO”とプロローグ編に登場したダンサーが関わっていたディスコ)
・『TRANCE WORLD』
そして、
『CLUB DADA』収録地となった『CRUSH』(正確には91年オープン)などがありました。
その中でも90年というキーワードで確実に外せないハコとなったのが、
この年大きな話題とともに千種区今池にオープンした『カラーズ』でした!
ここはクラブディスコ『D-PARTS』と10店舗以上集まる屋台村の複合施設であり、
なんと初めから期間限定でのオープンだったそうです!
(参考資料:http://blog.livedoor.jp/cangee-memo/archives/13737272.html)
期間限定、そして前衛的。
そんな煌めきと儚さが同居するものに魅惑を感じるアーティストはいつの時代も多いですよね。
ということで名古屋ダンサーたちも多くの人が遊びに踊りに集っていたようです。
前回から登場している、
”SAMU&ROCK“や”AKIRA“、”KING-BOO“などそうそうたるメンツがここで交流を深めていったそうです。
▲今池カラーズにて。(左からAKIRA, SAMU, KING-BOO)
そんな出逢いにおける、こぼれ話をひとつ。
”SAMU”&”ROCK“と、のちの『2TIGHT』として名古屋を代表するダンサーとなる “TOMOKO“&“KEIKO“姉妹との出逢いもこの『カラーズ』だったそうで、
ここでの出逢いがキッカケで翌91年の『DANCE DYNAMITE』への出演が決まったそうです。
しかし、
当時はまだ『2TIGHT』の名前がなく、
”SAMU“と”ROCK“からつけてもらった『BLACK CRYSTAL』という幻の名で出演したそうです!笑
しかも、当時は”NEW JACK SWING”だったそうです!(※『2TIGHT』は名古屋ソウルダンス界の重鎮です。)
色んな歴史がありますね。
ちなみに、
当時名古屋の夜を盛り上げていたDJ陣と言えば、
・”DJ SAORI”(のちの『P.D UNITS』)
・”DJ MOTO“(現、『W.C.C.』ボス)
・”DJ 吉田タダヨシ“(『vapors record』代表※2019年閉店)
などなどでした。
あの”DJ 刃頭”(現、『Obrigarrd』)は “TWIGY“との『BEATKICKS』時代ですね!
▲BEATKICKS(HAZU, TWIGY)
そして、
“AKIRA”(現、“AKIRA SOUL”)もダンサーのみならずDJとして、さらにディスコやバーの店長として夜の街を仕切っており、
数多くのダンサーに影響を与え、育てていました。
(DJやラッパーの話まで触れだすとマジキリがないのでやめておきますが、
やはりダンスと音楽は切っても切れない関係なので、浅瀬だけ記しておきます。)
今でもガッチリシーンに残っているDJばかりで、
こういう“太い”人たちがいてくれたことは名古屋にとって本当に財産だったなぁと感じさせてもらえますね!
そんな感じで、
ディスコからクラブへと変遷しても変わらず盛り上がり始めるナイトシーンですが、
この時期から“SAMU”と“ROCK”は、プレイヤー(ダンサー)としてのみならず、
裏方としてもダンス業界を盛り上げるべく、
ダンスイベント会社『ダンス★ダイナマイト』を設立しました!
そして、2人で準備を進め、
翌91年からこの令和の時代まで続く、名古屋最古であり、風物詩であるダンスイベント『DANCE DYNAMITE』が生まれていくこととなります!
▲2019年、令和初となったDANCE DYNAMITE予選のフライヤー画像(※30年目の2020年は新型コロナの影響で延期中)
イベントについては、次回以降に詳しく述べていきますが、
このイベント会社設立の動きは早かったのではないでしょうか?!
当時からしたらかなり斬新だったのではないでしょうか?
ダンサー自身がイベント会社(組織)を作るというアクションでした。
当時、どのように捉えられていたかは分かりませんが、
今までにないものをどんどん創り出していくクリエイティブな動きというのは、
常に先を見通していたのかなと感服させられますね!
そんなこんなで、
世代ごとに色々な始まりや拡がりがあったこの年でした。
それぞれの動きが次々と連鎖し、進化し、
翌年の爆発を迎えることとなります。
次回、濃厚の1991年編です!!
【まとめ】
1990年の名古屋は未来を担う金の卵の誕生と、当時の中堅世代が地盤を固め始めた嵐の前の静けさの1年だった。
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