名古屋STREETDANCE HISTORY2 〜プロローグ:名古屋の80年代〜
どうもです。UCです。
(これは名古屋STREETDANCE HISTORY企画の目次2です。その他の目次はこちらから確認ください。→名古屋STREETDANCE HISTORY )
(2020.10.19 追記・修正あり)
さて、
今回はこの企画の核である”名古屋NEW SCHOOLシーン“に入っていくための、プロローグになります。
HIPHOPが日本に伝来した80年代の名古屋の様子をざっくりとまとめてみました。
(※文中はすべて敬称略です。ご了承ください。)
はじめに
HIPHOPがサウスブロンクスで産声をあげたのが、
1973年8月11日、”KOOL HERC”によるブロックパーティーだということはHIPHOP好事家ならご存知のことと思います。
そして、そこから10年後、1983年に映画『フラッシュダンス』が日本で公開され、
東京原宿でも“ホコ天“で第一世代のbboyたちが活動を始めたということも、知る人は多いでしょう。
(どうでもいいけど、私は83年生まれですw)
その時代は、
名古屋も全国と同じようにディスコブーム時代でした。
名古屋のディスコと言えば、
『MAHARAJA』グループ(EAST, WEST, Barなど)、『PENT 2 HOUSE』、『SHELTER』、『DION』、『JUNK』、『BAZIL』などなど栄を中心に至るところにあったみたいです!!
(ざっと20以上は名前を目にしました!)
ちなみに現在も今池にあるライブハウス『BOTTOM LINE』も89年オープンでした!
歴史を感じますね〜
80年代の名古屋ダンスシーン
そんな80年代の名古屋はというと、
bboyでは栄公園(現OASIS21)で東京のホコ天と同じようにストリートでbboyingをしていた ”BREAK”や“ビート“率いる『CENTER JAPAN ALL STAR BREAKERS』が代表格として長年活動していました。
またSOUL系統でいえば、
”AKIRA”(現“AKIRA SOUL“)をリーダーにした『MOMENTS CREW』があり、
そこから派生した『M CONNECTION』『SOUL CHILDREN』などが活動しており、
メンバーには、
”SHUNJI”(のちに『the Message』リーダー)
“DAISUKE”(現、『flawless dance studio』)
“JUNKO SENSEI“(現、『STUDIO ZOO』看板インストラクター)などがいたそうです。
ディスコでは、
当時高校生だった”AKI“, ”MAYUMI“や,
"ATSUKO"(現、『DANCE SPACE VIB.』代表)
なども注目を浴びており、
JAZZダンサーであった“ATSUKO”は、『MAHARAJA DANCE QUEEN CONTEST』で優勝するなど活躍していました。
そして、
静岡の”RYO“(のちの『舞志道B-BOY CREW』)もbboyingからPOPからNEW DANCEまでをも踊りこなし、名古屋と静岡を繋ぐ重要人物として後輩から偉大なダンサーを何人も輩出していたそうです。
(申し訳ございませんが、この辺はあまり掘れていません…。
追加情報や修正あれば是非教えてください!)
一方で、
フィットネススタジオとして85年より開校していたのが現在もストリートシーンで異彩を放つ『STUDIO ZOO』であり、(あのZOOより先に名前つけていたんですね!)
80年代後半には、
名古屋TAP界の第一人者”市川ミサオ“(現、『Studio R3』代表),
そして、
前述の“JUNKO SENSEI”や“ATSUKO”などがインストラクターをしていたそうです。
クラブとクラブディスコ
そんな80年代後半。
時代はバブル景気真っ盛りでした!
夜の街がかなり賑わっていたのは名古屋も変わらないことでしょう!
この時代に差し掛かると、徐々にディスコが衰退し、クラブの台頭が見られ始めました。
移行期には、”ディスコ“と”クラブディスコ“に分かれていったそうです。
ディスコは風営法通り夜12〜1時には営業終了する形態に対して、
クラブディスコは、風営法を申請せずに小規模で営業する店で、朝まで営業していたそうです。
それぞれハコ毎にカラーがあったため、
ダンサーにも棲み分けがあったみたいです。
だから、
「いつもあっち系のディスコで踊ってるあのダンサーが、今日はこっちに攻め込んできたぞ〜!」
みたいな縄張りを超えた襲撃事件もちょこちょこあったそうです笑
そして、88年頃には音楽的にも”New Jack Swing“(名前は後付けらしいです。)が大流行し、
“ランニングマン”や“ロジャーラビット”、“ロボコップ”など新しいステップが次々と生まれていきました。
NEW SCHOOLへの架け橋ダンサー
そんな80年代後半から、最新の情報をキャッチし、
その後のNEW SCHOOLシーンへの架け橋となる活躍を見せ始めたダンサーが、
・”倉田サム”(以下, “SAMU”)(現、『ダンス★ダイナマイト』代表)
・”ROCK”(現、『Dance & Bodywork Studio KBS』代表)
・”KING BOO”(現、『Marble studio』代表)
・”KATSU”(のちの『BEEPER』, 『DEGIL FIRE』, 『MASH BRUSH』)
・”KITOH”(現、『FORCE DANCE STUDIO』代表)
そして、
・『WILD STYLE』の5人
—”TAKE“, ”UCOP“, ”OZEHAN“, ”SANO“, ”YOCHAN“
などなど。(順不同)
(※あくまで僕調べです。)
“SAMU”は、三重県四日市出身でした。
同じ三重の先輩”ねもっちゃん”によりダンスにどっぷりハマり、
学生時代は三重から名古屋に通いながらディスコでダンスを学ぶ日々を過ごし、
80年代後半の2〜3年はNYへと活動の場を移していたそうです。
▲NY時代のSAMU
その“SAMU”とのちに相方となるのが“ROCK”であり、
当初は前述の『CENTER JAPAN ALL STAR BREAKERS』としても活動しており、
その強靭な肉体から生み出されるキレのあるダンスと、昔ながらの漢気と色気あるキャラクターで存在感を放っていたそうです。
そして、
“KING-BOO”は『摩訶不思議』という歌って踊れるユニットで89年にメジャーデビューを果たしていました!(〜92年解散)
アクロバット(写真はヘリコプター!)などもガンガンこなすなど当時から洗練されたパフォーマンスだったそうです。
▲摩訶不思議(左から2番目がKING-BOO)(※写真は1990年)
”KATSU“は、ブレイクダンスで受けたHIPHOPへの衝撃そのままにディスコ時代からロボットダンスなどを踊り続けていた今でいうクラバーだったそうです。
そして、”New Jack Swing“にイチ早く反応し体現した名古屋ダンサーの1人なのではないかと思っています。
▲KATSU(※高校生時代)
”KITOH“は高校卒業後、東京の専門学校に進学し、そこで当時の最新のダンスを東京で吸収しつつ、89年には名古屋のディスコ『1968夢幻』で行われた「ソロダンスコンテスト」で優勝しており、
その後地元名古屋に戻ってから、得意の”MJスタイル“に磨きをかけていた存在でした。
▲KITOH(写真真ん中)※写真は92年時
そして、『WILD STYLE』は90年以降にも名古屋を代表するチームで全国的に活躍していました。(詳細は次回以降に記します!)
とにかく、名古屋のHIPHOP黎明期に燦然と輝くレジェンドチームです!!
当時はHIPHOPの4エレメンツの1つである ”bboying“が80年代前半に国内で流行した後で、
ストリートダンス自体が下火になっていた時代であったと言われており、
立ち踊りとしての“HIPHOP DANCE“という単語さえ生まれておらず、
前述したNYからの“New Jack Swing“が入ってきたり、LAからの”ホーシング”が持ち込まれたりした時代ですが、
それらは当時は”NEW DANCE“という括りだったとのことです。
結局、OLD SCHOOLとかNEW SCHOOL、あとは日本独特らしいですがMIDDLE SCHOOLなんて括りはすべて後付けってことですよね。
そんな数少ない情報が更新されていく中で、
“ダンス“と“BLACK MUSIC“の両キーワードに引っかかった人たちが、
人知れず新たな感覚を掴み、新たな動きを見せていた時代なのかもしれません。
そんな中迎えた1990年。
のちに“NEW SCHOOL”と呼ばれるシーンにとっての転換期と言われる年です。
名古屋にとっても、”NEW SCHOOL“として大きな大きな転換期を迎えます。
というわけで、
前置きが長くなりました!笑
次回からは本題突入です!
1年ずつ経年でまとめていきたいと思います!
【まとめ】
90年代へと続く80年代後半は、
70年代後半のディスコブーム、83年のHIPHOP伝来を経て、
ディスコからクラブへの移行期となった時代であり、
その中で新しい感覚を掴んでいったダンサーが現れた年だった。
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