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名古屋STREETDANCE HISTORY8 〜1995年:爆発、出逢い、連鎖〜

どうもです。UCです。

(これは名古屋STREETDANCE HISTORY企画の目次8です。その他の目次はこちらから確認ください。→名古屋STREETDANCE HISTORY )   
(2020.07.06 追記アリ)

というわけで、遂に90年代後半!
今回は1995年を振り返ります。

ぶっちゃけ、この頃になってくると、
ダンス人口も5年前の90年とは比べものにならないくらい増えてきていまして、
とてもじゃないけどすべてを追いきるのが難しくなってきました笑

登場人物もどんどん増えてきますが、
それだけたくさんの人たちが関わって、名古屋ダンスシーンを盛り上げ、創り上げてきたんだと思って楽しんでいただければと思います!

それでは、今回も長丁場、よろしくお願いします!!
(※文中はすべて敬称略です。ご了承ください。)

はじめに

この年は、年明け早々”阪神・淡路大震災”, そして3月には”地下鉄サリン事件”と、
日本国内で社会不安が広がった1年でした。

そんな中でも、ネガティブな出来事をスポーツのチカラで跳ね返そうと、
日本人選手が世界的に活躍するニュースが多かった年でもありました。

名古屋のダンスシーンも例外でなく、
多くのポジティブニュースがあり、
非常に盛り上がった1年と言えます。

少しずつ振り返ってみたいと思います。  

ミスフィッツの来名


この年の『DANCE DYNAMITE』”春選考会“は『セントラルパーク』にて行われました。

そこにGUESTとして登場したのが、
92年編で紹介した、あの通称『ALIVE TV』に出演していた『Misfitss』のメンバーたちでした!
HIPHOP DANCE”のオリジネーターと言って過言ではない、
MarQuest”, ”Rubberband“, ”Peek A Boo
の3人が初来名したのでした。  

遂にレジェンドたちが名古屋に来たということで、この衝撃は非常に大きかったみたいです。
ちなみに、このブッキングが成立したのも、当時NY在住で活動していた”YUKOP“(初代『P.D UNITS』)の繋がりがあってのことだそうです。
(とことんすごい人ですね!)

そんなレジェンドダンサーの登場に触発されたかどうかは分かりませんが、
93年編94年編でも紹介した『J&J』『Jクルー』のメンバーもそれぞれのチームでチャレンジします。

まず、
CHITOSE“(のちの『ユテライツ』, 『ASTONISH』, 『龍五娘』など)と、
YUKARI“(のちの『UNIVERSE』)は、
LUCK』というチームで出場していました。

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▲LUCK(DANCE DYNAMITE ’95春選考会)

そして、
RYO-Z“(のちの『Hi-Problem Child』『FIVESTAR』『Bush Babeez!!』など)は、
静岡の、
NOB”(のちの『ALL DEGREE』, 『RAG POUND』)と“TARO“と3人で、
スージーQ』というチームで出場していました。
(これまた贅沢なチームですね!)

彼らは、”RYO-Z“が91年編で紹介した『DIG』時代に静岡までコンテストに乗り込んだ際に知り合い、繋がった同世代のダンサーであり、
以来、名古屋と静岡の距離を超えて親交を深めていったそうです。

さらに、
YOSUKE“(のちの『Hi-Problem Child』『PLAYS』など)も、
AKIRA “(元『ケレレクヴァア』)との、
VANILLA』で出場していました。

また、新城市からは、
24-7SOUL BROTHERS』として、
尾林兄弟(弟は現、”DJ OBA“)も出場していたそうです。


それぞれに歴史がありますね!


そして、初日本ツアーだった『Misfitss』メンバーを、名古屋の大先輩たちは存分にもてなし、交友し、
さらにここには書けないようなところにまで連れ回しw、
帰国後、現地のストレッチアームストロングのラジオで、
Misfitss』メンバーが「日本に行ってきたんだけど名古屋には本物のHIPHOPがあった」と発言したとの記録も残っています◎

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▲仲良くなったMisfits × 名古屋ダンサーたち

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▲MarQuest × SENBA
(2人がソックリだとRubberbandもビックリしたそうです笑)

※こぼれ話。
当時、”STRUT“結成前の”SHINICHI“(現、『BUTTER』)が、『Misfitss』目当てで名古屋まで遊びにきていました。
そして、アフターのクラブパーティーで当時”カミソリ“だった”AG“(『MOVE UP』)がよそ者である ”SHINICHI“にバトルを仕掛け、大白熱したそうです!笑
当時は溜まり場に知らないダンサーが来ると、例えどんな大物だろうと、まずバトルで潰しにかかっていたそうです笑

ダイナマイト本選の変革

そんな『DANCE DYNAMITE』ですが、
この年から”本選“にスポンサーがつきます。

ディスコ時代からの名古屋のナイトシーンの超重鎮“幸島”の営むアパレルショップ『strongberg』(『P.D UNITS』にも衣装提供をしていました。)を始め、
FILA』、『ナンバーワントラベル』、のちに『TOWER RECORD』『H.I.S.』など様々な企業からスポンサーがつき、
それぞれ“スポンサー賞”として“賞品”がつくようになります。

そして、当初1番の目玉が『ナンバーワントラベル賞』であり、
賞品は”NY往復チケット”だったそうです。
その為、
ナンバーワントラベル賞』受賞チームが、
その年の優勝チームとして語り継がれるようになり、
夏の本選でも順位が決まるようになった年が、この年でした。  

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▲DANCE DYNAMITE ’95 本選フライヤー

そんな変革の年に本選進出を決めたのが、
1.『よそほひ
※”SHIGE“(現、”DJ TETSU aka Daddy-1“), ”YOSHIMOTO“, ”IKEPON“, ”MASAKI“の4人組。師匠は”KOU“(『P.D UNITS』/現、『CAKRA  DANCE COMPANY』)です。

2.『うずずFamily
※“YOHEI”(のちの『来い!』オーガナイザー), “IMAYAN”を中心としたオールドスタイルチーム。

3.『MOVE UP
※”SENBA“, ”MICHI“, ”JUNYA“, ”AG“, ”TAKAO“の5人でのエントリーでした。

4.『MIYUKI‘S
※JAZZチーム。(情報募集中)

5.『SLAM KIDS JAM
※『studio ZOO』に出来た同名のHIPHOP KIDS CLASSからの選抜メンバー。 ”ASAKO”(のちに『U Go Girl!』), ”RYOHEI”, ”TAKUMA”の3人であり、当時平均年齢8歳(!)のKIDSチーム。先生は”KOU”(『P.D UNITS』)で、アシスタントが”MOTSU”(のちに『NASTY』)でした。

6.『PINOCCHIO
93年編から紹介している”PINO“, ”KENJI“, ”TOMOKAZU“の3人チームです。当時18〜20歳の若手チーム!

7.『BLACK BEANZ
93年編での紹介時から1人抜け、“IKUMI”(現、『FORCE DANCE STUDIO』), “SHIHO”(のちの『HYZKETZ』), “MACCHAN”の3人でした。

8.『RA
94年編で紹介した『JDD vol.1』特別賞の『OOCHIE COOCHIE』から ”AYUMI”と“RENA”の2人組。96年デビューします。

の8チームでした。(順不同)

そして、
その中で“ナンバーワントラベル賞”を獲得し、
初代『DANCE DYNAMITE』本選優勝チームとなったのが、
PINOCCHIO』でした!!
当時、18〜20歳のフレッシュ世代が名古屋ナンバーワンを射止め、
PINOCCHIO』はさらに勢いに乗っていきます。  

PINOCCHIO大爆発の1年


DANCE DYNAMITE』での勢いそのままに、
この年に開催された『JAPAN DANCE DELIGHT (以下、JDD) vol.2』で、
PINOCCHIO』は“特別賞”に輝きます!  

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▲JDD vol.2 レポート(提供:ADHIP)


▲PINOCCHIO 『JDD vol.2』でのSHOW!
(クソキレキレでカッコイイですね!)

まさに無双状態です!

ちなみに、
当時の“KENJI”の練習量はハンパなかったと自他共に認めるところであり、
共にshowを行うメンバーにも一切の妥協を許さないほどに厳しかったと様々な方から聞いております。
また“KENJI”自身はそこまでストイックに自分を追い込んだ理由として、
「クラブのサークルで1番ヤバいダンスがしたかったから。
それが“TETSU“(『FOOLISH』)や “KANGO“(『ROOTS』), “CALEAF“(『DANCE FUSION』) , “EJOE“, “BRIAN GREEN“, “SHAN.S(『DANCE FUSION』)、
みんながそうだったから。」
とコメントしています。
(全員説明不要のレジェンドダンサーばかりですが、名前部分に動画LINKを貼っておきます。)

バトルとか、コンテストとかじゃなくて、
やはり、原動力はクラブのサークルだったんですね!
カッコイイです(^^)

そして、
その年末に開かれた『OSAKA DANCE DELIGHT(以下、ODD)vol.10』においても、
PINOCCHIO』は“3位”入賞を果たします。

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▲ODD vol.10 レポート(提供: ADHIP)

あくなきチャレンジ精神ですね!

しかし、この頃には “PINO”と“KENJI”は“HOUSE”へとどっぷりハマっており、
TOMOKAZU”(当時まだ高校生)は、 “HIPHOP”スタイルを貫き、極め始めていました。

その方向性の違いから、
TOMOKAZU”は『PINOCCHIO』としての活動を離れ、
徐々に94年編で紹介した『C-HAIS』1本の活動となっていきます。
(翌年の『JDD vol.3』は”PINO“と”KENJI“の2人で出場しています。)

ちなみに、
話は少し前後しますが、
この年の『STYLE JUNCTION』(西日本最大のSHOW CASEイベント)には、
名古屋から、”MOVE UP“, ”PINOCCHIO “と2チームも招待されており、
レペゼン名古屋“を体現する2チームとして存在感を発揮していました。

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▲STYLE JUNCTION ’95のフライヤー

新たなレペゼン名古屋チームの台頭


さて、
PINOCCHIO』での活躍が目まぐるしい中、
TOMOKAZU“率いるHIPHOPチーム『C-HAIS』も、
この年大きく動き出します。

まず、
91年編で紹介した『DIG』の後輩であった ”TATSUYA“(のちの『FIVESTAR』『THE BROTHERS』/現、『Black is Black Dance Studio』代表)は高校を卒業したこの年、
TAJI“(元『MAKE UP TRIPS』)と名古屋のイベントでSHOWをするようになるなど、
徐々にシーンに顔を出す中で、
TOMOKAZU”と出逢い、よく遊ぶようになります。

また、同じ頃に“SENBA”(『MOVE UP』, のちの『FOOT ILLUSION』など)のストリートレッスンの生徒で上手い高校生がいると話題だったのが “MASAKI”(のちの『PLAYS』, 『NIGHT RYDERS』)でした。

当時、
C-HAIS』で県外のコンテスト出場を考えていた “TOMOKAZU”は、
初代『C-HAIS』(94年編参照)の7人のうち、
ダンス経験者だった“TAKAOMAN”, “MOTO”と共に、
TATSUYA”, “MASAKI”をメンバーとして迎え入れ、
5人で2代目『C-HAIS』となり、神戸のコンテスト『RADIO TRON』に出場をし、
見事“準優勝”を獲得します!

以降、『C-HAIS』は、『PINOCCHIO』の “TOMOKAZU“が組んだ実力派HIPHOPチーム。
ということで、全国から注目されます。

そして、
名古屋をレペゼンするチームがもう1チーム誕生します。
PINOCCHIO 』が特別賞を受賞した『JDD vol.2』ですが、
この回は予選地区が6地区に増え(vol.1は東日本、西日本の2地区のみ)、
愛知でも予選大会が行われました。

阪神・淡路大震災“へのチャリティーも兼ねて、
内海の『ASIA』前の駐車場スペースで行われたそうです。

そして、
その時に準優勝で予選を通過したのが、
NAGOYA SOUL SISTERS』でした。

IZUMI”(現、“維月見”/のちの『TEASE.』)
CHITOSE”(のちの『ASTONISH』, 『龍五娘』)
YUKARI”(のちの『UNIVERSE』)
RYO
YUCCO
の5人で結成した新チームです。
当時、19〜21歳のフレッシュチームでした!

※ちなみに、
優勝は静岡の『BE-FUNK EXPRESS』(“ジョー”, “マーシー”, “マチャ”, “モトーミ”)
3位は愛知の『NIFTY』(”のり”, “ふみ”)
でした。

▲JDD vol.2 中部大会結果

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▲JDD vol.2出場チーム(提供:ADHIP)


このチームは、
当時NY在住で活動していた“YUKOP”が名古屋に戻ってきたときに、
「今、私は『SOUL SISTERS』というクルーで活動している。
 あなたたちが『NAGOYA  SOUL SISTERS』となりなさい!」
という一喝で組んだ歴史的チームだそうです!

憧れの大先輩”YUKOP“の想いに応えるかのように、『NAGOYA SOUL SISTERS』は、
名古屋初のディライト予選を突破し、
見事に“NAGOYA“をレペゼンしたフィメイルチームとなりました!

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▲NAGOYA SOUL SISTERS
(上: 左から、RYO, IZUMI, CHITOSE、下: 左から、YUCCO, YUKARI)

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▲NAGOYA SOUL SISTERS × YUKOP
(左から、IZUMI, YUKARI, RYO, YUKOP, CHITOSE, YUCCO)


余談ですが、
この『JDD vol.2 中部地区予選』のGUEST SHOWを務めたのが、
P.D UNITS』(“TAKE”, ”KOU”, ”TAKU-G”)であり、
この時の『In The Sunshine / Arrested Divelopment』使いのネタのカッコ良さは語り草となっているほどです。

新チーム続出とチーム結成への時代性


さらに、
この年は、のちに名古屋を騒がすことになるダンサーたちが続々とチームを結成します。

まず、
小学生時代から”名古屋NEW SKOOL第一世代”[(勝手な)通称:テレビ塔世代]と行動を共にし、
小4(!)でDANCE DYNAMITEのステージでも踊っている”MIKI“が、中学生となり、
ネイヴクイーン
を結成します。

メンバーは、
MIKI“(のちの『植物物語』『YoYo!』)
MISUZU“(のちの『ユテライツ』)
NORI“(のちの『ユテライツ』『Astonish』)
MARIKO
の4人でした。

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▲ネイヴクイーン
(左から、MISUZU, MIKI, NORI, MARIKO)

そして、
94年編で紹介した、“WAKKAN“(現、『BANUL』代表)が、
PINO“(『PINOCCHIO』/のちの『ALMA』)の弟である”JUNBO“と意気投合し、
同世代の”AKIRA“, ”JUNJI“と共に、
EDITS』を結成します!
現役高校生チームとして、
翌年から衝撃的なデビューを飾り、名古屋の新世代を象徴付けるチームとなります。  

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▲EDITS(※写真は96年時)
(左から、WAKKAN, JUNBO, AKIRA, JUNJI)


このようにストリートから新チームが現れる中、
ダンススタジオからも根っからの”HIPHOP“ダンサーが現れるようになります。

当時、”HIPHOP”ダンスに見せられた男子高校生や大学生の多くが飛び込んだのが、
プロローグ編92年編などで紹介した『STUDIO ZOO』でした。

この頃はまだダンススタジオと言えば、
JAZZ”ダンスメインのスタジオばかりでした。
男性向けのHIPHOPクラスがあるスタジオは『studio ZOO』くらいであり(それ以外はストリート)、
そこでHIPHOPインストラクターをしていたのが、
KITOH”(現、『FORCE DANCE STUDIO』)
と、
KOU”(現、『CAKRA DANCE COMPANY』主宰、『studio CAVE』代表)
の2人でした。

そんな2人のレッスンを受けていた中にいたのが、
OJIRO”(のちの『Hi-Problem Child』『FIVESTAR』), “SUGI”, “NAOKI”(現、“SEAMO”), “MIYA”(現、“AKEEM”), “SAKAI”(のちの『FIVESTAR』), “KAZ”(現、『10game』『CAKRA DANCE COMPANY』), “KAZUMA”(現、『YAMAKAJI』,『C.C.C』), “AKIO”, “ウッチャン”, “タケ”, “ヤス”, “JIRO
などでした。

そして、
この年に“KITOH”は“IKUMI”(『BLACK BEANZ』)との結婚を機に、『studio ZOO』のインストラクターを離れ、
珈琲屋タニ』のオーナーとなり、
ダンスレッスンは“若宮高架下”へと移ります。  

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▲KITOH × IKUMI 結婚式  

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▲KITOH×IKUMI結婚式。

※こぼれ話
”KITOH“×”IKUMI“の結婚式は、“倉田サム”(初代『P.D UNITS』リーダー、現『ダンスダイナマイト』代表)と同じ日に結婚式が行われたとのことで、後輩ダンサーたちは相当大変だったみたいです笑


そこで、”KITOH“についていったのが、
OJIRO“, “SUGI”, “SAKAI”, ”AKIO“, “ウッチャン“, “タケ“, “ヤス“の7人であり、
新チーム『J.A.P.』が結成され、
翌年以降名古屋の人気チームとして、そして全国を席巻するスターダンサーも輩出するなど活躍します!
(名前の由来は、J:ジミー A:アソコ P:パックリ らしいです笑)

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▲J.A.P.
(下: SUGI, 真ん中: ウッチャン, 上: 左から、AKIO, OJIRO, SAKAI, タケ, ヤス)

一方で、“KOU”により深くついていったのが、
KAZ”や“KAZUMA”であり、
KAZ”はこの年に”タツヤ“と『でらコツ』というチームを組んだのち、
96年には、
KAZ”, “KAZUMA”, “KEI”, “MIKA”, “AI”, “RISA”(元『OOCHIE COOCHIE』)の6人で、
カルビークッパ』を結成します!
こちらも名古屋の実力派チームとして活躍します!

そして、さらに、
NAOKI”(現、“SEAMO”)と “MIYA”(現、“AKEEM”/のちの『Bush Babeez!!』)は、”JIRO“も誘って、
プロローグ編93年編などに登場した豊橋にいた ”KATSU“(のちの『DEGIL FIRE』『MASH BRUSH』など)の噂を聞きつけ、
KATSU“にラブコールを送り続け、
当時、”KATSU“との出逢いを果たしていた”You-Gee“(現、『studio U』代表)とともに、
チーム『ジャイアント馬場股関節骨折君』を結成します!
翌年には、『Beeper』と改名し、
こちらも名古屋を代表するチームとして歴史に名を刻みます。
(チーム名を巡ってのネーミングで“SEAMO“と“AKEEM“が対立していたそうです笑)  

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▲Beeper(※写真は97年時。メンバーも初代メンバーと一部改編あり。)

ちなみに、”KATSU”と”You-Gee”は同時期に、自身でRAPし、その他にダンサー、DJ, GRAFFITIメンバーを加えた、
JUNGLE JAM
というユニットで、HIPHOP4エレメンツを網羅したパフォーマンスを展開していました。
JUNGLE JAM』は栄の『ウォッチマン』(名古屋本社の専門量販店チェーン, 2006年倒産)に販促用のラップ音源を提供したり、
ウォッチマン』前でゲリラパフォーマンスをしていたそうです。

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▲JUNGLE JAMライブ フライヤー

さらに、
JUNGLE JAM』は、『PARCO』主催の『ラップコンテスト』(judge:“脱線3”)では、
準優勝”の好成績を残します。
(ちなみに優勝は若かりし日の“TOKONA-X”率いる『ラップで勝負』という即席クルーだったそうです。)

また、94年編で結成を紹介した『ドールクエスト』はこの年には、
紆余曲折を経ながら徐々に『entrance』として活動するようになり、
YU-JI“, “SHUNJI“の2人に、
現在も『entrance』メンバーである”MO-TA“がこの頃より加入し、
その後、“RYO”の加入などもあり、
徐々に”YU-JI“, “RYO”, ”MO-TA“のダンサー3名体制にシフトしていきます。

そんなこんなで、
若手のチーム結成ラッシュが続く中、
PINOCCHIO』と同じように ”HOUSE“と”HIPHOP“に分かれたのが、
先輩である『MOVE UP』でした。

SENBA“, ”MICHI“, ”JUNYA“, ”YASU“(現、“DELAYAS“)はHOUSEへ傾倒していきますが、
AG“と”TAKAO“はHIPHOPがやりたいということで、
2人で『HIPHOP CORN』として再出発します。
(命名は”DJ Butcher“とのことです!)  

▲HIPHOP CORN動画

(”AG“の足技と、”TAKAO“の重たいノリが最高にカッコイイチームです!)

改めて、チーム結成ラッシュの年でした。
興味深い現象としては、
それまでは『ネイヴクイーン』や『EDITS』のように“ストリート”での出逢いから意気投合してチームを結成するような流れが主流でしたが、
この頃より『J.A.P.』『カルビークッパ』のように“スタジオ”(もしくは誰かの生徒)で出逢ってチームを結成し、
ストリートシーンでもカマすという流れも増えてきたということです。

僕の勝手な推察では、
90年代前半はスタジオストリートの距離感があり、
地域でも、温度差や排他的感覚が少なからずあり、
それぞれのプライドや美学が、かえって見えない壁みたくなっていたのではないかと思うのです。
ここまでの記事でも並列して書いてきたような出来事も、
実は同じ名古屋、愛知にいながら共有していないことも多かったようです。
その壁を壊し、徐々に近づいてきたのが、
スタジオ出身の“KITOH”や“ANN”、
そして、豊橋にいた“SHUICHI“(現、『QUARK』代表)や“KATSU”だったのかもしれません。


ダンサーの新しいアプローチ


さて、新しい動きはダンスチームのみではありません。

この頃より”KATSU“は”You-Gee“とともに、
イベント主催を手がけるようになります。
初イベントは、『club globe』での、『BPM Ready!』というものでした。

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▲BPM Ready! フライヤー。
(当時は手書きのフライヤーが多かったみたいですね!)

当時、ダンサーを取り巻くイベントは、
PARCO』や『東急ハンズ』のイベントスペースで催事的なダンスイベントがあったり、
クラブイベントは、”HIPHOP“と”メロコア“、”HIPHOP“と”SM“(?!)など異ジャンル抱き合わせのイベントが多かったりしたみたいです。


そこで、
KATSU”は、“ダンサー”が主役の、“ダンサー”の為のイベントをしたい。
という想いを持つようになります。
それが、その後に始まっていく『Check It Out』『TOSS IT UP』などに繋がっていきます。

今では当たり前となった“ダンサーイベント”ですが、
こうやって“ダンサー“にスポットを当てて尽力し、
作り上げてくれた人たちがいたからこそ、今がありますね。

また、
2代目『P.D.UNITS』の“TAKU-G”は、
THE UNDERGROUND』をプロデュースした “DJ SUKU”に誘われ、
Atlantic Bar』(のちの『CIPEHER the underground』『FLEX LOUNGE』)で毎週水曜に“HOUSE“のレギュラーパーティー『Master of Quality』を主宰するようになります。

そこに、
DJ”として参加したのが、
当時DJを始めていた『MOVE UP』のリーダー ”SENBA“や、
DJ Saji”でした。
豊橋を牽引する存在であった“SHUICHI“(元『Free Style』、現『QUARK』代表)も、
のちに”DJ”として参加します。

このように、”DJ”としても活動するダンサーが増え始めるのはこの頃からです。

そして、このPARTYはその後、『HOUSE TOPS』と名を変え、
レジデントも“SENBA”に変わり、
名古屋のHIPHOP聖地『丸美観光ビル』の『Atlantic Bar』(のちに『CIPHER the underground』)で数年間、木曜レギュラーを張ることとなります。

TAKU-G“は当時のイベントについて、
『好きなものが同じ人ばかり集まると身内ノリで、違う趣向の人との出会いのある”社交“の場ではなくなってしまう。
ある意味でclubはカルチャー、ディスコは社交場みたいなきらいがあって、それを自分は好まなかった。
海外はDiscoとclubは同じもので、日本のように別れてなかった。
自分は、Discoもclubも区別しないで楽しんだし、どちらも好きだから、自分のレギュラーイベントはそうなるように努めていた!
ダンサーの為のイベントやレギュラーを作る気は最初からなく、ただ”いい音”や””と”男女”、””、その他もろもろ、本当の”アングラ”を楽しむそういう場作りをしたいという思いはあった。』
とコメントしています。


またひと味違った思想と感覚ですね!
オーガナイザーの趣向や思想が反映されたイベント/パーティーというのは筋が通っていていいですね◎

あとは選択するのはお客さんなわけですから。
個人的にはお客さんありきのイベントが増えるよりも、
遊びに行く人の選択肢が増えるくらい様々なタイプのイベントがあった方が面白いのかなと思ったりしています。

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▲丸美観光ビルにて(95年)
(上: 左から、PINO, KUMAZAKI, TAKAO, JUNYA, ヨーイチ
 下: 左から、RYO-Z, AG, TOMOKAZU)
クラブがやっぱり1番の遊び場だったみたいですね!

そんなこんなで、93年あたりから始まった世代交代から、
徐々にシーンを動かす、牽引する存在が少しずつ変わってきたことが実感できる95年でした。

また、
のちにダンスシーンにも深く関わっていく、
世界的GRAFFITI ARTISTの”DA KOOLAID“(現、”CAZUL“)がLAでの活動を終えて、名古屋のシーンに現れだすのもこの頃だったようです。

そして、翌年の96年!
さらに新たな動きが次々と起こり始めます!
今回紹介したチームも続々と暴れ始めます!!


まとめ

名古屋NEW SKOOL第一世代の最若手であったPINOCCHIOが爆発した年であり、
その後の第二世代を象徴するチームが多く生まれた1年だった。

↓NEXT↓




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