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あなたもわたしも、とどまらないから。

 十代半ば。今から五年と少し前から、三年間。まさに思春期真っ盛りの時分の話になる。とあるミュージシャン…‥というか、その人がフロントマンを務める三人体制のバンドが心底好きだった。そして今も、彼らの音楽はわたしの中の特別でありつづけている。

 殆どの曲の作詞作曲をこなすギターボーカルの彼に対する気持ちは、一時期もはや信仰の域に達していたと思う。あのバンドの各パートが一体となって鳴らす音の絡まりに、バルコニーにて夜風を浴びるかのような感覚をもって触れていた日々があった。ヴェールがかかったような仄暗さ、生ぬるいあたたかみ、点滅する光の甘さを、胸いっぱいに吸い込もうとした。ペン先のような、素朴にとがった視線を以て、空間の奥行きを一枚の絵に切り取るような音楽をやるひとたちだ。あえて断言してみる。

 一度の解散ののち再結成し、その後も短い休止期間を挟みつつ新たな響きを届け続ける彼らだが、やはり代表作としてはメジャーデビューしてから五年間(通称:第一期、第二期)の作品が挙げられることが多い。率直に言えば、ここ一年半の私が積極的に聴こうとした音源は、第二期までのものばかりだ。

 再結成を果たしてからの、この十年間で生み出された作品のうちにも、いわゆる“よい(と感じる)曲”はいくつもあるのだが、スパイスのような煌めきを帯びた、神がかり的にというか、なにかしら真に迫っているような印象を受ける曲はやはり少ない。

 それでも、十五歳やそこらだった当時の私は、なるべくリリースされた時期に関わらず、そのバンドのすべてのアルバムを分け隔てなく聴こうとした。自分の感受性が作品の方を"迎えに行っている"時点で、新しめの曲や歌詞とはチャンネルが合っていないのかもしれないと、薄々感づいてはいたのだが。
 また、自分の中で、その”いい曲”を初期の”やばい曲”と同列に扱いたい気持ちもあった。「円熟した彼らの作品の良さを、きっと”まだ”、わかる(感じる)ことができないだけなのだ」と。
 行ける範囲の中古CD店を巡り、すべての音源をあつめるほど大好きになったバンドが新しく出し続けているものに、あんまり夢中で向き合えそうにないことを、たぶん信じたくなかった。
 黒髪白肌に髭面、黒服に身を包む長い睫毛と泣きぼくろの彼が、もう、まだ柔いわたしの中での、絶対すぎる絶対だったから。


 はじめての偶像崇拝。通っていたミッションスクールの夏休みの宿題『聖書の一場面をステンドグラス風に宗教画として表現する』に取り組んだ際、磔刑に処される前夜のイエス・キリストの様子を描いた『ゲッセマネの祈り』を題材に選んだのだが、神の子の顔を彼に似せて形作りながら、ひとりで超絶ニヤついていた。
 実際、(バンドのフロントマンという立場にありカリスマ性を求められる彼が、自らの容貌を、故意に、日本で共有されている”イエス・キリスト像”へと寄せていたところもあるのかもしれないが、)日本人男性としてはかなり”イエス様”に近い部類の顔立ちをした人だと思う。

 仕上がったわたしの作品は、文化祭での展示作品に選出されたことに続いて、翌年の三月半ばまで、学校の廊下に飾られる運びとなった。
 授業の合間の休み時間。教室から教室への移動の際、オリーブの森で祈る、慈愛と苦悶がせめぎ合い、諦めを帯びた表情を浮かべた""”推し”""と目が合う。その度に、ズルい感じの気持ちよさがあった。

 偶像(キリスト”像”)を通した、偶像(アイドル視された実在の人物)の、偶像(2次?創作)だ。
 "盲目"、ここに極まれり。といった感じである。

  ただ、ここで弁解させてもらいたいのだが、彼率いるそのバンドは、わりと初期から宗教的な空気を色濃くまとっていたのだろうと思われる。

 バンド初期の活動に関して、わたしは完全なる後追いでしかないため、歌詞やコンセプト、バンド公式側の発信を除けばネット上に残っている情報から推察するところのバンド像しか掴むことができないのが惜しいところではある。
 ここでは、彼らの持っている空気感について、現在のわたしがアクセスしうる範囲で要所をおさえ、大まかにとらえてゆければと思う。
 
 まず、ギターボーカルの彼が書いた曲の歌詞を見てみると、ここでは詳細は伏せるが明らかに聖書を意識したようなモチーフが多用されている。多少キリスト教に触れた経験がある人であれば、すぐに気づくことができるだろう。
 世間一般に共有されているわけではなさそうな、数々の「イエス・キリストの例え話」からの引用も散見される。
 また、とあるアルバムのジャケットには牧草地に一匹で佇む羊の写真が、解散前にリリースされたDVDのパッケージデザインには、黒い背景に白い十字架があしらわれている。
 彼の創作へのキリスト教からの影響は、否定し難いといってもよいのではないだろうか。

 そして、仏教のエッセンスも見てとることができる。
 こちらに関しては、仏教に固有の語が多用されているというよりは(いちおう『業(カルマ)』は登場する)、輪廻転生や一切皆苦、涅槃寂静…的な概念が落とし込まれたような表現がしばしば登場するというところだ。
 歌詞だけでなく、サウンド的にも、聴いていると空間に溶け、まわりと一体になってしまうような錯覚を起こさせる感じがある。(仏教について、興味はありつつも詳しくはないので、要素の見落としをしているのかもしれない。)

 さらに彼は、バリ島の呪術的儀式「ケチャ」からインスピレーションを受けたことがあると、音楽誌でのインタビューで公言してもいる。
 まあ、どの宗教も儀式も、仕組みとしての目的や役割にそう変わりはないのだろうと思うから、「これは何教からの何々〜」と言う風に判別することにあまり意味はないのかもしれないが、その認識はあまり広くは共有されていないだろうと考え、一応、区分けをしてみた。

 音楽誌でのインタビューでは、社会学への関心をあらわにし、「社会派」を志向しているとの発言も残されている。
 やはり、フロントマンの彼はなにか”本質”的なものに迫ったり、世界の仕組みを解きほぐしたいというような思いを抱きながら、つねに創作活動を行っていたのではないのだろうか。

 そしてあのバンドにはもう一つ、聴く者たちの熱狂を呼び起こす大きな要素がある。それは、作中で、(わたし自分も当事者のひとりである)精神疾患をモチーフにした表現がかなり多く出てくることだ。
 例えば、向精神薬の名前や効能、疾患の症状によってあらわれる、”あるある”的言動の描写など、歌詞には多く出てくる。そして、全体を包み込む諦観、虚無感と死(現世からの逃避)への希求。
 精神の不調を抱える者たちへの拠り所として、まさにうってつけの、おいしいコンテンツ、そして表現者であると言える。

 また、世の宗教団体では、幻覚などを共有して信仰心を芽生えさせたり信者同士の結束を強めるため、しばしば薬剤の力を用いる。
 ビートルズを代表とするロック文化とは、まあ、”そういうもの”でもあるのだろう。
 これはひとりの音楽ファンとして、悲しんでしまってよいことなのだろうか。

 最近たまに思うのだが、「実生活を離れた体感が芸術作品に落とし込まれ、それらがわりと”高尚な”ものとして人口に膾炙する」、というようなムーヴが当たり前になり過ぎて、見えなくなっているものがある気がする。

 話がやや脱線したが、ここまで書き出してみると、様々な要素が複合し、世界と自分の関係づけが脆い状態にある人々にとっての魅力度が、良くも悪くも極めて高いバンドであることは明白であろう。
 彼らが自然とそのスタイルに行き着いたのだとしても、戦略的に練り上げられた形態なのだとしても、どちらにせよ圧巻である。
 彼のことを「天才だ」と、漠然と思っている人は多いのだろうが、今回、思いや言葉にまつわる観点から、わりかしうまく見ることができた気がする。

 ただでさえ鬱っぽく不眠がちな中学生が、あの仄暗く甘い蠱惑に出会ってしまえば、文字通り”全て”を持っていかれてしまうとしても無理はないだろう。
 思想としてではなく、”芸術”として出会ってしまうのだから、殊更。
 世界や人の本質に迫った表現をする自由と、感化されやすい人の、心の状態。いったい、どちらが優先されて然るべきなのだろうか。

 いのちを揺るがす可能性のある詩的表現は、時に規制されてもよいと、わたしは思う。これはいったい、誰の言葉を下敷きにした実感だっただろうか。あとで今一度調べておこう。(おそらく、プラトンでした。)

 
 さて、わたしはいちおうデジタルネイティブ世代のど真ん中に位置する。小学校高学年ごろからは、インターネット経由で興味の範囲を広げるだけでなく、好きな作品のファン同士の交流に加わることもそれなりにあった。リアルではなかなか出会うことができない、近い趣味をした人たちとの関わり合いは、大変に嬉しいものである。
 中学生だった当時は、生まれてはじめて熱狂した、件のバンドのファンの方々とも濃いめの交流があり、いつも楽しんでいたのを覚えている。

 信者状態だったころから数年が経過し、いまではそのバンドのファンのクラスタに対し、わりと批判的な思いを抱くことがある。主に、バンドメンバーのお三方をキャラクター的に扱うさまがかなり頻繁に散見されることについてだ。

 特に、今回話題にしている、ギターボーカルで作詞作曲も担う彼に対する視線が、少なくない人数の愛好の現れとして、かなり不健全だと感じる。

 ファンの方々の人間性を悪く言いたいのではない。歳上の方が殆どだったこともあり、ゆるいつながりの中でご厚意にあずかったこともたくさん思い出せるし、感謝の気持ちも確かにある。それでも、なんというか、”推す”姿勢?やり方?が引っかかる。どうしても気になってしまう。

 Twitter(現:X)を始めとするSNSでの、オープンなようで閉鎖的かつ排他的だったりするコミュニティ内ではありがちなことなのだろうが、実在の人物である、”推し”が、ある意味で非人間的な扱いを受けている様子が散見されるのだ。

 ファンによって、実在する人間(実像)の、”一瞬(ありふれたこと・偶然)”が切り取られ、”永遠(有り得ないこと・必然)”に引き延ばされる。それが『いつもこんなんだったらイイなァ』という願望(虚像)となって、再びその”推し”に押し付けられる。

 ひどい言葉で言えば、「みんなの"推し"」が、ファンたちによって”自慰行為のネタ”として共有され、資源のように”消費”されているように見えてしまうのだ。欲望の、乱反射。拡散。双方の中で一致した像が結ばれることは、ない。素顔っぽいものも、どんどんわからなくなる……。
 多分それは、特に、”推される”立場にある方々がしばしば行き着くところなのだろうと思う。

 対象の実在 /非実在を問わず、”推し方”に関する諸問題は、アニメや漫画、それこそアイドルなどの、いわゆる典型的な『オタク趣味』を共有する界隈ではしばしば取り沙汰され、”推し”が不愉快に思ったり、大多数にとって道徳に反するとされた推し方には自浄作用がはたらいたり、外部からの指摘で見直されたりすると聞く。
 さらに、主に非実在の男性同士の恋愛を消費する界隈では、同じキャラクターのオタク同士でも、”解釈違い”などで不快にさせないよう”自衛”しあったりと、バラバラな好みを抱く者同士での、なるたけ平和的な共存が目指されているようだ。その実態についてはあまりわからないのだが、同じ何かを愛好する集団の姿勢としては素敵だなと思う。

 一方、ファジーな楽しみかたが許される(それが良さでもある。)音楽アーティスト愛好者の関わり合いの中では、そういった、ファンとしての人権意識や倫理観が不足していることが多いように見える。
 これ以上、ファンの不躾さで身を持ち崩すアーティストが出てほしくない。非常に、歯がゆい気持ちだ。

 あなたの、わたしの、大切にしたい”推し”。毎秒新たな息をし続け、ひとところにとどまることは決してない人格を、いのちを、魂を、物の流れを、展翅されたチョウの標本のように停止した存在として扱ってはならないと思う。

 時に危ういまでの、"""愛"""を引き出してくれる存在に、身動きを取れなくさせ(てい)るのは、実はあなたやわたしなのかもしれないのだ。


 
 今よりマシな"want"、考えませんか。



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