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変化も幸せも怖がらない|転職日記

世界のいろいろに恐れて傷ついて、他者に優しさを与えているかと思いきやつけ込まれ、生きづらいながら自分の繊細さを信じて、繊細でなくなることを怖がって生きていた思春期がある。

思春期といっても、大学生くらいのころがピークで、大人といえば大人だし、まだまだ子どもだった。

いまからそんな自分を見つめると、本当にそれは本心だったの? となる。


もちまえの共感性高さと意志のなさで、誰かと接するときには「話がわかるいい奴」になりきっていた。

誰かが自分の内側に入ってくること自体そういうものだと思っていたし、わたしも他人の内面をよく知ろうと想像をした。ウェットに付き合うことが当たり前で、つまりは他者との境界線がグダグダで、たまにひどい扱いを受けて心を踏み荒らされても、そういうものか、と。

優しいと言えば聞こえがいいけど、自分を搾取されても気づいていないような人間。

明るく生きていたし、幸いながら接するほとんどの人が人間としてできている人だったから楽しい記憶も多くて、「自分は誰よりも不幸」とは思わなかったけど、とにかく生きづらいと感じていた。


いつの日だったか、生きている社会の構造をゆるりと話しているときに、自分の生きづらさは別に自分だけのせいじゃないということに気づく瞬間があった。

大学で出会った同級生との生まれ育った環境の違いや、選択肢の幅の違い。性別間にある明確な格差。

わたしも与えられた環境で挑戦してきた方だと思うが、努力量と目の前にあった機会が比例していたのかわからない。

致し方ない環境に合わせることを強いられた頻度が多い人は、目標に向かっていくことなんかより、どうやって生きるかにフォーカスせざるを得ない思考体系になるんじゃないか。

現に、わたしは「何したい?」と聞かれて何も出ない時期がずーっとあったし、自分が夢を持ってもいいと知った今も、大体そうなる。

これだけじゃないけど、自分に染みついた思考自体が、自分の性質というより環境や構造によって作られたのかもしれないとわかってから、わたしの生きづらさは格段に軽くなった。

誰かのせいにしてるわけじゃない。少なくとも自分だけのせいではないとわかることで、ぬかるんで見えた自分の道に、少しだけ砂利が敷かれたような気がした。


今のわたしは、繊細であることと強かに生きることは成立すると思っている。

みんな幸せでいてほしいけど、みんなの幸せを願う「みんな」の中に自分がいなかったら、それはもうみんなではなくて。

だから、繊細なままで生きていくために、自分の真ん中に自分を置くことを許した。


誰かからみたら、戸惑い慌てふためいて傷ついて、いろんな人に合わせていたときの自分は都合がよくて、愛らしかっただろう。

でもわたしは、社会の中でふらふらとしながらも自分と強く結びついて、自分の立場を明らかにしようともがいている、いまの自分が1番好きだ。

そんな人だと思わなかったとか、変わったとかいわれても、誰かの理解をわたしが追い越しただけで、いまの自分が1番魅力的。それをわたしがわかっていればいいのじゃなかろうか。

自分の変化も幸せも怖がらない。

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