見出し画像

17年間すごした東京から長野へ移住する理由ー都心の子育てに想うこと

あけましておめでとうございます。

ご無沙汰になっていたnote。継続力より、再開力。ということで、2020年もゆるく続けていきます。

さっそくですが、今年の3月頃に、東京世田谷区から長野へ引越します。向かう先は軽井沢。「東京24区」とも呼ばれているので、もしかすると都内移住かもしれませんが。なぜ引越を決めたのか。書き残しておきたいと思います。

大きなきっかけの一つは、ここです。

軽井沢風越学園の開校。

そして幼稚園・年少クラスへの子どもの入学。子育て移住です。紆余曲折ありました。まず子育てに対する、疑問と、いまのところのアンサーです。

1・受験戦争ってどうなの?という疑問

子どもが2歳になる頃。夫婦で何度か、将来の教育の方向性について考えた。早い、と思われるかもしれない。けれど、どの学校に通うかは、どこに住むかと直結する。しかも「中学受験」のためには小4から塾通いを始めないといけない、らしい。しかし、それに反発する自分もいる。そんなのおかしくない? 小学校なんて遊んで過ごせばいいじゃない? 小学時代を思い返しながら、そう思った。ではどうするか?ここからがまたややこしい。

中学受験を回避するにはどうするか? 小学受験があるらしい。そこからエスカレーターで昇るのが、「詰め込み」にならない一つの手らしい。もっと「お勉強」しないためには、幼稚園受験がいいらしい…。

受験で疲弊しないために、受験を前倒しする。この嘘みたいな発想は、いまや、王道な考えとして一定の支持者がいるそうだ。

そこで、一応、幼稚園を探してみる。そこには、美辞麗句が並べられている。でも、なってほしい、子供の姿は見当たらなかった。まるで昭和の価値観に押し込めるような気がしたからだ。うーむ。

子どもが15歳のときに、どんな子になってほしいか。

まだ3歳にもならない娘を前に、将来を思い描く。なにもたしかなことがいえないけれど、できることはしてあげたい。そんなときに、ひっかかかってきたのが、軽井沢での開校の情報だった。

「じっくり たっぷりゆったり まざって遊ぶ 学ぶ 「 」になる」

現行の教育の真逆をいくようなビジョン。そこに、惹かれる自分がいた。

2・当事者として生きる、ということ

今の学校制度への疑問。そして、遊び→学び、という思想に共感した背景として、大きかったのが、麹町中学の工藤校長の本を担当させていただいたことだ。

本書は、既存の教育の問題点を指摘する。宿題、定期テスト、校則、惰性のルールやイベント…。全ては大人の都合で、学校が運営されていることがつまびらかにされる。そのうえで、最上位概念として「子どものために」とは何か?を読者に考えさせてくれる。本書に通底しているのは、「当事者意識」をもて、というメッセージだったように思う。

「同調圧力を感じていた自分」「周りと比べる癖のついた自分」「音楽や体育に苦手意識を刷り込まれた自分」…僕自身、打合せや取材を通して、教育へのモヤモヤが晴れるのが自分でわかるほどだった。

この本を読めば、(あるいは校長のお話をうかがう機会があれば)、おそらく多くの人が、思うことだろう。「日本の教育ヤバい」「いまの学校はだめだ」「先生、もっとしっかりしろ」と…。でも、ちょっとここで立ち止まったほうがいいのだ。なぜなら、そんな感想を漏らしてしまう自分こそ、「他人事」意識に、芯から染められてしまっているからだ。無自覚に…。

本書では、学校教育の悪い側面として、過剰なサービスによって「受け身で」「すぐに人のせいにする」子どもを育ててしまう点を指摘している。そうなのだ。すぐに、国のせい、学校のせい、かつて受けた教育のせい…と人のせいにする、こうした発想こそ、数十年かけて、埋め込まれてきた「受け身」のスタイルなのだった。(自分が批判しているそのものだ)。もうすっかり内面化されていて、当の本人さえも気づけない。でも、周りをみるといっぱいいるような気がしますね。正論。批判。で、悦に浸る雰囲気。いやいや、まさに自分自身が、そうなっていたと、気づかされたのだった。

(だいぶ遠回りした)ここで最初の問いに戻る。「子どもにどんな15歳になってほしいか」…?

少なくともいまはこういえる。「他人の人生を生きる」だけはよくない気がする。当事者意識をもって、自分の人生を生きてほしい。それこそ、自分の人生のコントローラーをしっかり握って。そのためには、もしかすると、英語もプログラミングも、必須ではない、かもしれない。むしろ、「自分が何をやりたいのか」。内発的な動機を、しっかり自分でつかみ取れること。その心の持ちようを、鍛えること。

学園では、1日をどう過ごすか、自分で決めるそうだ。ホームと呼ばれる場で、興味関心からプログラムを作り上げていくという。聞いただけでワクワクしませんか。教室に座ってさえいれば、自分の関心によらず、先生が「勝手に」授業をし、その出来・不出来に文句をいう。そんな姿はそこでは生まれないのではないだろうか。教育の素人なので、本質のところはわからないけれど、なんとなくそう思った。もちろん、興味関心による履修の凸凹はあるのかもしれない。でも、大人の知識だって、凸凹だ。なにかに突出していることこそ、価値につながるはず。「まんべんなく」を大人が先回りする必要はどこまであるだろう。ひとまず、そう考えている。

3・保護者としても「つくりて」に。

なんだか実験台にされてしまう娘よ。すまない。

でも、きっとたのしいよ。「たのしい」というのは、「正しい」よりも価値をもつことなのだ。ときによっては。そう言いきかせて、入園と移住を決めました。

もうひとつ、チャレンジしたいことがある。子どもの環境ではない。それは保護者として、親としてのチャレンジだ。他人のせい、ではなくて、当事者意識をもつ、と書いた。でもこれ、実は、保護者の立場だって変えられるのだ。

学校説明会の場で、創業者の方からハッとさせられる言葉を投げかけられた。

「ここに預けたら大丈夫、とは思わないでください。そう考える人は合わない。たくさん失敗もすると思います。」

自分もどこかで、我が子だけには良い環境を用意したい、最高の場を見つけてあげたい、と思っていなかっただろうか。正解主義のように、預ければそれで万事OK 、と思っていなかっただろうか。教育関係者ではないので、偉そうなことはいえません。けれど、一介の保護者として考えるならば、子育ては正解に当てはめていくのではなく、もっと探索して、模索していく行為。もっと自由で多様なものなはず。

だから、今の学校の在り方とか、受験制度を批判する前に、足元でできることはたくさんあるのだと思う。まちがってもいいし、むしろ失敗をたのしむというスタンスで。それが、こどもに伝染すればなお、すばらしい。

個人的なことでいえば、「本のある場所」をふやしていきたい。書店の数は急減し、デジタル情報に身の回りを囲まれたいまだからこそ、意識的に「本」との接点をつくる。図書館事業なのか、読み聞かせなのか、ブックイベントか、書店コラボなのか…。いろんなやり方はあるだろう。それが、将来世代へ、本を引き継ぐことにつながればいいな、と思う。

と書いてきたら、移住のはなしではなく、教育話に終始してしまったです。次回、もうすこし生活に根ざした話を・・・。

この記事が参加している募集

この街がすき

この記事は「投げ銭」記事です。サポートいただいたお金は、家庭菜園で野菜をつくる費用に投じていきます。畑を大きくして、みなさんに配れるようにするのが夢です。