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日本文化について考える

誰もが知る政治家、麻生太郎。国会で観光政策を話し合う中で彼が話したことは本質を突いていると感じた。すなわち、海外の人はポケモンやドラえもんといったアニメ・漫画に惹かれて「クール・ジャパン」を謳っているのではなく、私達の精神性そのものに対してクールな光景を見出していると。某TV番組でイギリス人のコメンテーターが話したこと。「海辺にポツンと立つ自動販売機。それに金を入れたらキチンと飲み物が出てくる。24時間365日屋外に存在する自動販売機など日本以外にはあり得ない。これこそ最高のクール・ジャパンだ。」麻生太郎氏はこの話を引用して、私達の思っているクールさには海外の人しか気付けない奥深さがあると話したのだ。形式的な印象しかない国会の答弁でこれを話す麻生太郎氏には感服した。

日本文化とは何かと聞かれて僕は答えられない。なぜなら今まで当たり前のように生きてきた暗黙知の内に日本文化を潜ませているため、言語化できていないからだ。ここでは日本文化の奥深さにある本質的理解を目標として、多様な視点から日本を再解釈していきたい。

日本庭園とコスプレ

「日本庭園と西洋式庭園でどちらが人工的か?」と問われれば真っ先に後者を選ぶだろう。噴水があり、綺麗に整地された庭園と人工的な形に整えられた植栽の数々。だが、実際は日本庭園の方がよっぽど人工的である。誰も見向きしなさそうな小さな石に生えたコケ、松の枝振り、遠くに見える山とその手前に置かれる存在感の無い生垣など。日本庭園はとてつもない手入れを施しながらも、決してその努力を見せない作り方をしているのだ。なぜかと言えば、日本庭園の目的はミクロコスモス(縮景)を表現する所にあり、それは思想を顕在化した理想的な姿である必要があるからだ。人間の存在など全く感じさせない次元にまで高められた美学を作るために、とてつもない熱量を持って積極的に関わろうとする庭師。一見逆説的に見えるその完成形を目指しながら、日本人は古来自然そのものが当たり前のように悠々と佇む姿を人工的に作り出してきたのだ。神仙思想、浄土思想、弥陀来迎図、禅宗思想などを庭園として体現していく所にその神髄がある。

アニミズム的な精神性を持つ日本人。私達は八百万の神を信じる。山河への畏敬の念を持ち、深い味わいを見せる自然石や生命感あふれる樹木、清らかな水に感謝する素直な心情。時にそれら自然風景は御神体ともなり、信仰心を発揚させる。これが日本文化の象徴であり、今に生き継がれている生活体系である。周囲を海に囲まれて国土の7割が森林であるという事実。その制約から生まれた生活文化を、私達は一度も忘れたことが無いのである。

『推古天皇は須弥山の形及び呉橋を南庭に構けと令す』

これは日本書紀からの引用。南庭(おおば)は貴族を集めて宴遊した場所であり、推古天皇はそこに庭と共に自然風景(池を含む)を作れと命令されたのだ。単なる娯楽のように感じられる池を天皇の命令で作ったという歴史は日本人の心の奥にある原風景を垣間見せるだろう。大和政権が大阪湾から奈良盆地に入った過去から、天皇は海への畏怖の念を忘れないようにしたのだ。

日本では弥生時代から稲作りのために山から水が引かれ、地域に配水する地点に水分(みくまり)神社が祀られた。窪地には水が貯められて池が作られ、河口部の湿地帯も水田になった。池は稲作民にとって大切な場所だったのである。平安時代の寝殿造庭園、そこから鎌倉時代まで続いた浄土思想の体現、室町時代から始まった禅宗様式、その後江戸時代に始まった本格的な池泉回遊式庭園。そこには常に水の表現があった。

西洋庭園が自然を作ったとするなら、日本庭園は自然を真似たのであり、この差異は民族に流れる精神性に見出すことができよう。能を初めて演舞した世阿弥。彼は元々日本にあった猿楽や田楽といった平安時代から続く芸能の持つモノマネ芸的な部分に着目し、まねびを通して本来人間が学ぶべき事を演出した。それは「まこと」に近づくための「まねび」であり、言うまでもなくそれが学びとして定着したのだ。その流れで見ると、現代のコスプレ文化も世阿弥や彼以前に存在した「まねび」の精神を体現しているように感じられる。日本庭園が徹底的に自然な物を作ろうとした意思もその「まねび」の文化、言い換えればコスプレ文化にその答えを見つけ出すことができるかもしれない。なにせ自然信仰が基本となっていた神道の流れを汲んで寺や住居の様式が完成されたことを考えるとなおさらである。

「結び」と「立て」

柔道、剣道、弓道、茶道。日本には多くの「道」が付く所作体系がある。中にはオリンピックにも採用される程人気を博しているものもあるが、元々それらに勝敗は無い。武士を目指すための手段が「スポーツ」という名前の元に勝敗が重視されるように変わり、それ自体が目的となったに過ぎないからだ。相撲は国技だが、それ以上に「古事記」との結びつきを考えた方がより日本との関係性は明白になる。相撲は日本の神話に登場する国譲りの一説を担う所に起源があるのだ。五穀豊穣や天下安泰を願う神事相撲よりも娯楽としての役割が大きくなった現代でもその伝統は守られ、受け継がれている。

ところで結びの一番、横綱はいずれも相撲に由来する単語だが、なぜそう呼ぶのだろうか。また結婚、結納、誰もが食べるおむすびまで、日本の言葉には「結び」に関連する物が多い。そしてさらに馴染み深い話として映画「君の名は。」でも登場している事は多くの人が知っている。

「糸を繋げることもムスビ、人を繋げることもムスビ、時間が流れることもムスビ、ぜんぶ、同じ言葉を使う。ワシらの作る組紐も、神さまの技、時間の流れそのものを顕しとる」
「よりあつまって形を作り、捻れて絡まって、時には戻って、途切れ、またつながり。それがムスビ、それが時間」
「水でも、米でも、酒でも、何かを体に入れる行いもまたムスビと言う。体に入ったもんは、魂とムスビつくで。だから今日のご奉納はな、神さまと人間を繋ぐための大切なしきたりなんやよ」

これは三葉の祖母であり、宮永神社の神主でもある宮水一葉の言葉だ。新海誠監督がどれほど日本文化に関心を持ち、単なる物語の斬新さやビジュアルの美しさを越えた壮麗なスケールの映画を作っているかがよくわかる。本来ムスビは「産霊」と書く。つまり「結び」には、新たな力を生むものを作るという意味がある。髪の髷の結い方、紐や帯の結び方、幣(ぬさ)の結び方にも多くの思いが込められ、ここに日本文化を形作る神髄の1つが垣間見える。

日本文化には「結び」ともうひとつ「立て」がある。例えば建築工事の前に行われる地鎮祭。一般的なものとしては、土地の一角に4本の柱を「立て」てしめ縄を「結び」付けて結界を作り、その中に緑豊かな榊(さかき)の枝を捧げた祭壇を設ける。そこに神職が祝詞を奏上することで工事中の安泰を祈るのである。地鎮祭ではその土地のことを産土(うぶすな)と呼び、多くの地霊がそこに蓄えられると考え、現代人がよく知る氏神様はその延長線上に存在する。つまり、常に土地の力と共にある姿・形の無い神を励起させて呼び寄せるために地鎮祭が行われたのだ。建築家・伊東豊雄はこのように話す。

桜が咲いて、かつてはそこに幔幕をめぐらし、そこがすばらしい宴会の場になる。自然と交換しながら、幕を張ってそこが聖なる場所になるというわけですね。今でも地鎮祭をするとそこが聖なる場所になる。それを取り去ったら、元の自然に戻るという思想。どこかで日本の建築はそういう思想のもとに、成り立ってきた。それが僕の建築の理想的な姿です。

柱を立てることの結界性は相撲や能の舞台にも見ることができるが、これは多神教ならではの思想かもしれない。というのも、一神教では神は常にホストであり、ゲストではない。ZOOMでホスト権限を譲渡するようにして主体が変わることなどまず無い。しかし、多神教では異なる。人間が神様をもてなす必要があるのだ。それは客神と呼び、その客神が人間界に一時的に舞い降りる場所が必要とされたのである。その意味で神社は常に仮設的であり、神様の宿り代なのである。地鎮祭で柱を立てる行為も同様で、日本の神は定位置に常在するのではなく、「迎えられ、送られる」神なのであり、古代日本人にとって、柱を立てることによって産霊を呼び起こす神聖な行事は最も大切な習慣だったのである。つい最近、富山に「マレビトの家」というゲストハウスが建てられたが、マレビトとはまさしく客神のことであり、現代木造建築に革命をもたらした建築に「マレビト」の名が使われていることは偶然ではない。

リミックス・ジャパン

ありきたりな批判として、日本人の文化の根幹が見えなくなって来ているというのがある。ハロウィンで叫び遊んでいる翌日にはクリスマスの準備を始め、キリストの生誕祭が終わった途端に静まり返って、正月には社寺仏閣に1年の安泰を拝みに行く。日本人には文化の骨格たるものが無い、無宗教だと。仏教なら仏教、キリストならキリスト、神道なら神道と1つの宗教に忠誠心を持て…みたいなことを延々と語る人がいる。だが、日本の歴史を鑑みるとそれはそこまで狂った話ではないし、むしろそれが日本の文化なのだとすら思ってしまう。古来日本は海外からの文化流入、主に中国の恩恵を受けて大きく発展してきた。そもそも文字という概念、貨幣という概念、教義が明文化された宗教、そしてその仏教から取り入れた建築様式や彫刻、絵画、そもそも農耕文明だって中国によってもたらされたのだから、一部に見られる過剰な愛国主義のかわりに日本がどれだけ中国や朝鮮によって文化をアップデートさせてもらったのかを知る方がよっぽど良いと思う。

だが恩恵を受けてきたといっても一方的に受け入れるのではなく、日本の民族に適合した姿を呈して日本文化に変化を与えてきた歴史がある。禅宗様に見られる枯山水庭園は水の乏しかった日本に合わせて石で表現した物だし、文字も日本語に合わせて音読みと訓読みとに分け、日本独自の仮名文字を作り出しもした。中国のオリジナルに倣い、それらを学びながらも自在にリミックスを行う日本特有のグローバルスタンダードの受け入れ方は、7~9世紀にかけて行われた遣唐使において特に顕著に見ることができる。唐に建築・造船・仏像技術を学び、そこから日本独自の組み木細工や寄木作りを編み出すことになり、中国文化に移り変わるのではない国風文化を作り出したのである。

しばらくは国内での価値基準は中国に置かれていたが、信長の時代にキリシタンが勢力を増したことに加え、秀吉の朝鮮出兵の2度の失敗もあり国内に価値基準が変化し、家康の鎖国と儒学者による学問の日本化によって古の心が再起された。これは日本におけるルネッサンスとまでは行かないが、中国離れによる文化再考の時代の到来であり、アヘン戦争が起こるまで200年以上続いた。皮肉なことに、中国離れをして自信を持ったはずの日本が危機感を持ったきっかけも中国の敗退であったのだが…。

apple社がFelicaに対応した日本独自仕様のスマホとして販売したのがiphone7。ガラケー時代から続くおサイフケータイ機能に、ようやくアメリカ発のスマートフォンが順応したのである。日本はいまだに海外の技術を取り入れて改良し、リミックスさせて発展し続けている。ユニクロがポップカルチャーを逆輸出し、TOYOTAがエコロジーの流れを汲んでプリウスを販売し、ましてや音楽など、英語と日本語のリミックスだらけだし、音楽それ自体も様々なアーティストによってリミックスされている。果ては、ルー大柴なんていうお笑い芸人もいたような…。

「イノリ」と「ミノリ」

米が世界中で食べられているのは言うまでもないし、米の生産量世界12位の小さな国が偉そうに米を語るのは微笑ましいことではない。ただし、日本米がブランド米として販売されている事からも分かるように、日本米は格段においしい。バンコクで食べたタイ米、エミレーツ航空の機内で食べた米、バルセロナで食べたパエリアと比べると同じ食材だとは本当に思えなくなる。美味しい米こそが日本を日本たらしめていると言っても過言ではないと思うし、例えそう思わなくてもその事実は微塵も変わらない。なぜなら、米信仰は日本書紀や古事記の中に神となって現れているからである。

稲魂。倉稲魂命(ウカノミタマ)と豊受媛神(トヨウケヒメ)はその稲魂を神格化したものだ。日本にはいつからか、稲と穀物をスピリチュアルに捉える見方が旺盛となり、それが様々な神格と交じり合って稲魂とみなされ、広範な意味における水田信仰や農村儀礼と結びついていったのだ。水田信仰から形成された「田の神」は数多いる神の総称であり、それが収穫祭の主人公となって日本中で農村儀礼の習慣が大成された。苗代作りの水口祭、田植え前のサオリ、田植え時の田植祭、田の神を送るサナブリやサノボリ、稲刈り時の稲掛け行事、収穫祭や霜月祭など多くの祭りが催された。

お正月に鏡餅を飾るのが日本における1つの風習だが、それも米信仰の一部である。元は村ごとにアプローチを設え、しめ縄を「結び」つけて松飾りを施すことで迎え入れたが、現代では各住戸ごとに小さな施しをして歳神を迎え入れるようになった。言うまでもなく鏡餅は歳神様の宿り代であり、正月の間だけ神様の滞在場所を作っているのである。ここでどうして餅なのかと言えば、日本人の魂の起源が白鳥が遠くから運んできた穀物霊だとする『白鳥伝説』があり、先祖への感謝として日本人の起源である米を供えるらしいが、一般的には神からの授かり物である米を神様に返すという意が込められている。

ここに「イノリ」が「ミノリ」に繋がった歴史がある。祈りは土地や植物、稲魂や田の神に向けられたものであり、上述した産土への敬拝がある。それはつまり大地への祈りであって、育まれるものへの祈りにも繋がり、その成果物として実りがある。実りは充填や充実を意味を持っているため、1年というサイクルの中で繰り返される「イノリ」と「ミノリ」の交歓が行われるのである。祈りが実現して実りに変わるのである。米が年貢として使われ、土地の価値を米の生産性である石高で計った歴史も、日本の米信仰を示す大切な歴史である。貨幣よりも米が年貢に適していたことは、普遍価値を貨幣というフィックションではなく米というノンフィクションに委ねたのであり、時代が変わっても価値の変わらない物を生活基盤である米に託した結果であろう。世界で大ベストセラーとなった『サピエンス全史』には三大革命(認知・農業・科学)のいずれもその功績はフィックションを作り出す点にあったと書いてあるが、日本では長らくノンフィクションとしての米を信じ続け、日本人の起源でもある米を守り抜いたのだと思えてならない。

「和」と「荒」、侘び寂び

国技館。呼び出しが扇を開いて東西の四股名を呼んで、力士が土俵に上がる。口を漱ぐ。塩をまく。蹲踞の姿勢で相手と向き合う。そして土俵の端に戻る。またそれを繰り返して約15分。場内の喧騒が異常なくらいに静まり返る。そして一気に歓声と両者のぶつかる鈍い音と共に巨体の凝縮が始まる。取り組み自体はほんの数秒で終わる。でも、その荒々しい数秒のために十数分にも渡る長く静かな運びが存在する。翻って、日本にはそのような静かな物と荒々しい物との双方がある。歌舞伎には「世話物」と「荒事」、能には静かで深遠な「神能」と「鬼能」といった荒々しい表現の物がある。建築様式にも数寄屋建築と安土桃山文化とが共存している。かのブルーノ・タウトは桂離宮を褒め称えた一方、東照宮は醜悪で日本らしさのかけらも無いなどとトンデモ論を述べているが、そんな言説に騙されてはならない。日本ではこの「和」と「荒」の共存がその精神性と深い関係性を持っているのだ。

語源を辿ると、日本を言い表すヤマトは「山門」であり、奈良盆地から大阪方面を眺めていた大和人が自らの住む土地を山の門と呼んだ所にある。やがてそれは大和となり、日本史上最大の戦艦にもなり、どうやら2199年にガミラス星に出陣するまでも続くようである。ところで大和には「和」という字が入っている。言うまでもなく「和」は柔らかくて優しい様子を表すのだが、日本書紀まで遡ると「和」と「荒」の対比構造がよく理解できそうだ。

日本神話ではイザナギの禊からアマテラス・ツクヨミ・スサノオの三貴子が生まれたことになっているが、アマテラスとスサノオは兄弟であり、アマテラスが高天原を、スサノオが海原を治めるように命じられ、そのふるまいによってそれぞれが「和」と「荒」のシンボルになったとされるのだ。詳しくは出雲神話を参照されたいが、つまり日本は荒ぶるスサノオの系譜で作られた出雲の国をアマテラス系譜の「和やかな」高天原が受け入れて統一されたため、「和」と「荒」の双方の系譜が文化内に浸透しているという訳だ。

そもそもスサノオという名前はすさぶる(荒ぶる)男という意味があり、転じて何かに熱中している様子を表している。やがてそれは「寂び」という形容をも生み出し、日本文化の神髄になったのだ。寂びの感覚は「もののあわれ」に繋がり、ものが清冽に哀愁や哀切を帯びている様子を表しているのである。また、「好き」という形容もスサノオに語源を持っている。それはつまり、こだわりや執着の表現であり、「数寄」屋建築もそこから生まれた言葉である。

寂びを説明したら侘びを説明するのが自然だ。侘び茶というのは聞いたことがあるが実際に経験したことは無いし、縁側が都市のファサードでなくなった現代においてそれを経験するのは難しい。侘び茶とは、生活の切り詰められた小さな一軒家に旅人が訪ねてきたときに「こんな所まで来ていただいて嬉しいが、私はろくな調度も茶碗も無いのでこんな茶碗でよろしければお茶を差し上げましょう」という気持ちで入れる侘しい生活の中で不如意を詫びるようにして心ばかりのもてなしをするお茶である。この意味で侘びと寂びは結び付いている。お「詫び」してもてなすホストに対して、ゲスト側に好き・執着したい気持ちが生まれて「寂び」が生まれるのだ。侘び寂びは1つの物語なのである。

都市観にみる「間」

西欧人と日本人の価値観の差は、都市観の差から生まれると断言できる。西欧では物心付いた頃から1人に対して1つの個室が与えられ、親と共に寝るのは稀である。個室の中だけがプライベートな性質を持ち、ドアを開けたその瞬間から1日の社会生活が始まる。つまり、個室の外はほぼパブリックなのである。その意味で家のリビングルームと街のリビングルーム(広場)はさして変わらない認識なのである。これは城壁国家、大陸文化がもたらした価値観であり、陣地の奪い合いによって培われた土地感覚の結果である。一方で日本の子供はしばらく川の字で雑魚寝する。現代日本の住居形式ではその後に個室が与えられるが、それでもなお個室とリビングルームとの差は感じない。ましてや建築家の設計した住居の中にはワンルーム・ハウスもあるくらいで、これは日本人にしか考えられない住居形式だろう。

広場について考える。英語「メッセ」は元々カトリック教会のミサに由来し、「フェア」はローマの神殿の中庭に人が集うフォーラムに由来する。また日本では祭りが広場の性質を備えていたが、前述したようにマレビトが舞い降りる場所が神社だったのでこれら広場は世界共通に神聖な場所が公共化した起源を持っている。しかし、起源は同じでも日本における広場のあり方は大きく変わる。例えるならばそれは、楽譜の無い和楽器のようであると言える。能に登場する和楽器は能管・小堤・大堤・太鼓があるが、それらはどれもチューニングができない。しないのではなく、できないのである。頑丈に作られている洋楽器と異なり、和楽器はその日の湿気によって音の響き方が変わるため、毎回その音色は微妙に変化しているのである。

西欧の音楽は非常に合理的で、誰もが共通に理解し合える「拍子」があり、楽譜があり、その内部で音の足し算や引き算、分割が可能である。だが日本の音楽では拍子自体が伸び縮みし、その時その時の「間」の取り方次第で音楽が決定していく。これは間拍子と呼ばれるもので、「ワン・トゥー・スリー・フォー」という一定のタイミングではなく「1と2と3と」という風に「と」が入ることでその場で即興的に合わせるという事が行われる。日本にはこのように合理的ではないが共通認識を保てるリズム感、定式が存在する。運動会の応援では三三七拍子を見る事ができ、長らく五七五七七の拍子を取る和歌が存在し、それは新聞記事の番組欄でさえ見る事ができる。そのように考えると日本にとっての広場空間も即興的に間伸びする間拍子のようなリズム感に見出すことができるだろう。西欧の広場が楽譜の中に現れ出る「休止符」だとするなら、日本の広場は単なる「間」であり、毎日の人間活動によって紡ぎ出される共通の空虚である。

サンドイッチマンほど面白いお笑い芸人はいないと思う。彼らの漫才の面白さの秘訣は、その内容もさることながら、富澤のボケから伊達のツッコミまでの「間」の良さにある。日本人が暗黙知のうちに身に付けている直感的な「間」。それをお笑いの中に体現しているからこそ、面白さが湧き出るのである。この「間」という概念は日本人を決定付ける大切な特質である。

御成敗式目の失敗

鎌倉時代の源氏はたったの三代で終わり、その後は待ちわびていたかのように北条氏が登場した。その時に出されたのが「御成敗式目」で、これは武士や御家人の社会との関わりあいにおける行動基準を示したものだ。これが画期的だったのは、その51か条に渡る内容もさることながら、それらが全ての価値基準を道理においた所にある。道理とは「物事がそうあるべき筋道」のことであり、理屈である。日本人を動かす原理が初めて明文化されたのである。それまでの日本、あるいは江戸以降の日本では義理や心情に倣った通念によって決まり事がされていたが、歴史上一度だけ、論理的で数学的なルール作りが成されたのだ。だが、道理に重きを置いたルールがそれ以降の社会的に深まることは無かった。

聖徳太子と聞くとすぐに十七条憲法という単語を思い起こさせる点に日本教育の悪い部分が詰まっている。十七条憲法は貴族や官僚、政治に関わる人々に道徳や心がけを説いたものであり、その第一条に「和を以って貴しと爲し忤ふこと無きを宗と爲す」とあるように日本人の心構えを示したものだった。それは現代の教育が十七条憲法を教えること以上に画期的で、生活に生きる学びだったはずだ。それ以後、あるいはそれ以前にも多少なりとも日本人は暗黙の了解なる無意識感覚に頼って社会を発展させてきた。御成敗式目はその後に根付かなかったという意味で失敗だと僕は思うが、裏を返せば、明文化されなくとも日本人同士には倫理的な前提があり、社会に対して共通認識を持てたのだろう。

東京は人口密度と共に安全性においても世界一だという統計がある。これは特段、東京に警視庁と防衛相が置かれているからだとか、交番のお巡りさんが強靭な訳でもない。「コロナの蔓延がお願いベースだけでここまで抑えられたのは民度の差だ」と麻生太郎氏が豪語したことに疑問を呈する人は多いし僕もその一員だし、しかも中国や韓国に比べると人口当たり感染者は日本の方が多いが、「自粛」の二文字だけでここまでの成果が挙げられた事に関して、日本人の社会意識が影響している事はあながち間違いではないと思う。世界と比べると遥かに弱い個人主義と強大な社会意識が結び付いたこの現代日本において、日本人の当たり前の生活体系が日本の平和維持に繋がっているという考え方は毎日の満員電車やスクランブル交差点などを見ると否定できそうにない。先進国の中で圧倒的に選挙投票率が低くてもtwitterのアクティブユーザー数が人口の割に多いことからも分かるように、日本人はその強い社会意識を払拭できるほどの強い個人性を持ち備えていて、目に見えない、顕在化されない個人性の集積体が現代日本の根幹を支えている。

見えない日本

KY、空気読めない人というのが流行ったことがあった。別に論理的に考えるとKYな人も悪くはないし、それが差別を助長してしまうのであればすぐにでも死語にするべきだ。だが、実際に日本社会を形作ってきたのはそういう見えない社会性なのだと思う。社寺建築のアルバイトをしていて思うのは、日本に建築図面が無かったのも当然だということだ。確かに図面らしきものは発掘されてるし、それが無ければ復元もできなかった訳だが、日本の木組みなどは暗黙知のうちに身に付いたスキルが形を与えられただけであり、それはトップダウンに図面を通して分かる物でもない。立面図をCADで仕上げたり、3Dで立ち上げたとしても(これは基本やらない)、材料の狂いがあったり多角的に見ないと分からない物だらけで、結局組みあがりは現場合わせという事がほとんどだ。これは恐らく中国の伝統建築も同様で、棟梁さんの知識と経験だけが技術を継承させてきたのだろう。僕はそんな見えない所に美学の原動力がある日本に、もう少しばかりの誇りを持ちたいと同時に、現代の社会にコミットさせる新しい方法を模索していきたいと感じた。

ジャポニズムは浮世絵の価値を海外の人が再発見したことで生まれ、画家ピカソや建築家ライトにも大きな影響を与えた。だが、それは主体性を持って行うべきものではないと思う。現代においてK-POPはアメリカの音楽界の中に独立したチャートを持つくらいに浸透しているし、実際にJ-POP以上に売れているアーティストが多いが、日本はJ-POPチャートを作ろうなどと微塵も考えたことは無かっただろう(多分)。なぜなら日本は日本で楽しめばいいし、価値基準を海外に順応させる必要などないのだから。日本の本当の美しさが日本人にしか分からないにしても、依然京都は世界一の観光都市だし、日本人の神髄は何も変わらないからである。

(参考文献)
松岡正剛、2020年、『日本文化の核心』、講談社
早川準一、2005年、『日本の庭園』、中央公論新社
篠田英雄 ブルーノタウト、1974年、『日本美の再発見』、岩波書店

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