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気持ちは幕末志士の心意気で。

嘉永6年6月3日。

この日に皆さんはなにが
あったかご承知だろうか。

一度は教科書で目に、耳に
したことがあると思うんです。

正解は、、

あの黒船が三浦半島は
浦賀に来航した日です。
(知ってるわ!舐めんな!って方恐縮です)

長く続いた鎖国の世で
突如現れた4隻の黒船。

引き連れてきたのは皆さんご存知
アメリカペリー提督

当時の日本は船と言ったら
まだ主流は手漕ぎの船。

蒸気を上げた大きな黒い船は
当時の人達の目にどう映ったんだろうか。、

「え?デカくね?怖くね?」
「え、え、何あれ???」

ってなると思う私的に。

突如現れた黒船に幕府は慌てふためき

当時のアメリカ、ペリーが要求した
開港やら、和親条約やら貿易やら何やら。。。
(この辺りを話し始めたらキリないので省略)
とひとまず話を聞き、。。考えた結果、。。

一言。

「とりあえず今急には決められないからさ
悪いんだけどまた来年来てくんね????」


江戸幕府🇯🇵

それにペリー🇺🇸

「分かった!じゃ来年また
来るわ!考えておいて!」


で一度目の来航が終わるわけですよ。

うんうん。

︎上記のようなくだけた私主観の
ポップな解釈で歴史を語りますので
どうかご了承下さいませ🙇🏻‍♀️笑)

ここまでかなり前置きが長いんですけど


私が今回話したいのは、、
黒船来航の歴史ではなく!!

このペリー率いる黒船がさっきあった
約束通り2度目の来航を果たした時に

まだ見ぬ世界をこの目で見るために
果敢に小船を漕ぎ出して
黒船に隠れ乗り込もうとした青年


私は激しく背中を押されている
ことを伝えたいんです。

その青年こそが吉田松陰。


私は松陰先生と呼んでいます。
(どうでもいい)


二度目の来航を果たした黒船は再び浦賀へ。

その後は横浜日米和親条約を締結


条約締結する際に
「開港場所なんだけど下田なんかどう?」
と日本側から提案された伊豆下田。

条約締結後さっそく開港された
下田ペリー艦隊入港していました。

写真:ペリー提督と去年のわたし(笑)

写真:下田港に停泊する黒船を模したサスケハナ号

大きな黒船をじっと見つめ、
乗り込むその時を待つ青年こそが

吉田松陰金子重輔

兵学術を学び、山口萩で多くの
教え子を抱えていた吉田松陰

日本は世界で大きな遅れをとっている。
それをマジマジと見せつけられた
嘉永6年の黒船来航。

今こそこの国を出て世界を
見に行かねばとここへ駆けつけていた。

「先生!俺も連れていってください。」
と熱望した教え子の金子くんを連れて。

伊豆下田、ところは弁天島で、
黒船に向けて小さな小船を
漕ぎ出したのでした。

写真:弁天島で撮ってきた写真たち


当時、密出国は死罪

バレたら死ぬ。いやむしろ黒船に
乗れてもどうなるかはわからない。

命は顧みない、その覚悟で
日本を変えようとしたんですね。

松陰先生
。、。

もうなんなんでしょうか。

私は今、どうにもこうにも、
彼をはじめ幕末の志士たちに
背中を押されまくってます。

何かを変えるってこういう
覚悟がいるってことですよね。


そうなんですよね。先生。

周りにまだ成し得たいことが
理解されなくても積み重ねた先に、
きっと何か繋がる気がしてる。

だって、松陰先生は結果

黒船には乗れなかったし、捕られられて
刑場で儚く散ってしまわれたけれど。


その意思決意は多くの人の胸を打って
教え子たち大きな偉業をなし得ましたよね。

そして令和2年、12月2日。

今、私の背中をも押しています。


「レナ、黒船乗り込んだらしいよ」

「レナならやりかねないね〜」

「なんかレナも頑張ってるし、
うちらもやったろ!!」

「だね!」

(絶対に例えが間違ってるけど笑)

って私もいつか誰かの背中を
押せればいいなって思っています。


そんなこんなで、長くなりましたが

2020年ラストスパート!!

12月も多くの出会いがありますように。

みなさん、よろしくお願いします。

弁天島での去年の私(笑)

弁天島でひとりセルフタイマー

散歩に来ていた親子が引いてました(笑)


2020.12.2
ウエマツレナ

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