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#3 飛び降りた自分を想像すれば、少しは生きたいと思えるかもしれない

※少々直接的な表現があります

ストレスフルな世界において、”死にたい”と、わりとカジュアルに思えてしまうのには、人が今ここで生きている限りはまだ、その死を選択できる内にある、という立ち位置的な要因があるのではないかと思う。

このまま生きるか、いっそ死んでしまうか。

例えば夕食は肉か魚か、あるいはレジャーで山に行くか海に行くか…といったベタな逡巡にも似たような泡沫希死念慮は、きっと無意識の内にだって心の中をうごめいている。

では死にたくなったときにはどうすればよいか。
大切な人と語らおうか。
おいしいご飯を食べようか。
温泉にでも行って広い湯船にゆったり浸かり、とにかくよく寝ようか。
本当のところでは何ら解決していないかもしれないが、心身の平穏を回復するという意味において、いずれも至極真っ当な提案である。実際、これらの一般的施術によってケロッと回復してしまう人が多い。元来カジュアルな希死念慮とは、その程度の脅威、瞬間の気の迷いである。

しかしこれらはあくまでも、人が平常心を保った状態で思いつく提案であることに、私たちは十分留意しなければならない。

カジュアルさが失われ、よりシリアスに近づいた”死にたい”思いは、自分自身への無価値観により浸食されていく。

何ら価値の無くなってしまった私を、大切に、いたわって、なぐさめる必要などどこにあろうか…というのが、カジュアル「ではない」希死念慮の正体だ。むしろ無価値な自分へ訪れる死は、自身への最後の優しさの結実であるとすら思うだろう。

このような段階にあっては、当人が自らをいたわる行為を勧めるのは難しい。一度動き始めた精神のデフレスパイラルは、降下が激しく危険だ。

それでもなお…当人を生の内に留めようとするならば、どうするか。荒療治ではあるが提案の一つとして、誰もに備わっている強烈なネガティブマインド、すなわち「死への恐怖」を思い起こさせる方法が考えられる。

自死にはある一線が引かれている。その一線とは、たとえ一瞬、自らの選択への後悔が生じたとしても、「私のせいで」もはや生者としてこの世界に帰れないことが確定する。そういった自死の段階だ。

首を絞めつけるロープ、ぶら下がった手から握力がすっと尽きる瞬間。
ホームから駆け出した身体の、あと数センチ先に迫る特急電車。
こぼれ落ち続ける鮮血と、もはや動かすことのできない身体。
屋上から飛び降りたあと、二度と両足を着くことのできぬ地面。

私たちはいつだってこの人生を、終わらせようと思えばそのように為せる選択肢を持っている。しかし一度死へと流れていってしまった選択にあって、生への退路が完全に断たれていることには、あまり現実味のある想像が及ばない。
自らの選択の結果、受け入れざるを得なくなってしまった「死」はもう間近、あと数秒数センチというところで抱く後悔は、どうしたって飛び降りた者にしか分からないのだ。

死の本当に怖いところは、全てが終わった後に待つ暗闇ではなく、死の間際に思い起こす後悔にある。生きることもできた未来を自ら断った自死の後悔は、泥臭くとも精一杯生きた後の死に際よりも、きっと強烈なはずだ。

飛び降りる前に、その後悔を想像してみる。
それがまだ怖いと思えるのなら、どうかまだ生きていて欲しい。
他ならぬその人自身が、自らの選択への後悔の内に生を閉じないように。

「死にたい」という願いの前に叶わなかった願いがあるのでは?…と
それが叶えば死なずに済むのなら…
「死にたい」は本当の願いではないはずです。

このはな綺譚10巻「家路」

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