夏の終わりに「風あざみ」 井上陽水「少年時代」
最初から最後まであまりにも美しい。
夏の終わりに聴いたら涙が出てしまう、
なんなら冬に聴いたって夏の終わりの空気を思い出さずにはいられない、
日本屈指の名曲。
……つい数日前まで、私は、
「風あざみ」
が造語だと知らなかったのだ。
※いつにもましてアホな記事です
その日の帰り道。
自転車をこいでいると、ふと「少年時代」が流れてきた。私の中に。
「八月は夢花火」。
もう九月だけど、今がまさにそんな季節だな。
帰宅して、Youtubeで聴いてみた。あまりにもよすぎる。
輪郭のくっきりした爽やかな伴奏と、曖昧模糊とした歌詞が、夏の終わりの空気ににじむ独特の寂しさ、名残り惜しさを絶妙に抽出している……
ああ、やはり名曲!
ふと、Wikipediaを開いてみた。
衝撃の事実が書いてあった。
なん……ですと?
――永遠に続くかと思われた夏休み。
あれほど暑かった日々も終わりが近づき、
風が「あざむ」、
秋の予感がする、見えない何かとの別れの予感がする、
その一瞬の儚い空気を歌いこんでいる歌詞なのだと、
私は信じこんでいたのだ。
風が「あざむ」というのは、
暑かった一日の終わり、
暑かった、そして長かった夏の終わりに、
ふっと、ほんの少し涼やかな風が吹く、
そうして私たちは今年の8月が往き、夢の中に還っていくことを知る――
そんな一瞬の風の動きと心の揺らめきを表しているのだと、
思っていたのだ。
だって、
「夏が過ぎ」に続いての
「風あざみ」なのだ。
「あざむ」の連用形だと、思いませんか!? 思うでしょ!?
そして「風あざむ」は、風が穏やかになる感じ、するでしょう!?(必死)
実際は、井上陽水の造語だという。
“「オニアザミ」があるなら、「カゼアザミ」もあっていいだろう”
……まさかの名詞だった。
念のため広辞苑も引いた(往生際が悪い)。
「あざむ」と電子辞書に打ち込むと、
「欺く」が出てきた。徒労。欺かれたのは私の方だ。
ダメか。マジか。雅語とかにもないのか。
ついでに言うと「宵かがり」も造語だが、
こちらは「宵」+「かがり火」から連想が可能であり、
お祭りの夜の提灯や松明の明かりを思い浮かべてよいだろう。
「夢花火」も同様で、容易にイメージできる。
たった5音、3文字で、大輪の夢が夜空に咲き、余韻を残したまま消える。
見事な一語。
しかし「風あざみ」は……
私の、夏の終わりにだけ吹くあの風は、どこへ……
――いやいやいや。
やはり私は、テクスト論的な立場にここでも立たせてもらおう。
作者の意図およびその有無は度外視するという立場に。
(そろそろテクスト論に謝れ)
夏の終わりには、風が「あざむ」。
夏の終わりをそっと告げる、穏やかで少しさみしい風が、夕方に吹きわたってくるのである。
少なくとも、私の「少年時代」では。
……これからは、
「やっぱもう九月だもんね、風があざんできたよね」
などと人前で口走ることのないように、
重々気をつけていきたい。
(Twitterで「風あざみ」「動詞」で検索すると、「あざむ」を心の辞書に載せていた仲間たちがザーッと並んでまこと壮観である。
そうだよな、これは日本語話者にとっては十分ナチュラルな推論なんだ……)
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