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テクスト論派なので作者の意図とか気にしない

先日、Twitterで驚くべきツイートを見かけた。
アイオリアは第1話だけのゲストキャラのつもりだった、と車田正美先生がインタビューで答えているという。
 
まあ『聖闘士星矢』に限らず、昔の少年ジャンプなんて後付け設定だらけなのは先刻承知なんですが。
そっかー。単発ゲストかー。知らんかったわー。
 
※以下、『聖闘士星矢』の原作ネタバレを含みます
※文学用語の話をしていますが正しく理解できているか・正確にお伝えできているかは怪しいです
 

アイオリアは後づけで黄金聖闘士になった、とすると

そうすると、私が以前書いたあの話はどうなのか。

一番最初に登場した黄金聖闘士だが、最初はザ・雑兵スタイル。教皇の間に呼び出されたときさえあの平服。正装で来んかい。
彼は兄・アイオロスが逆賊の汚名を着て聖域を追われて以来、なるべく目立たないように生きてきたのだろう。あんなラフな格好でそのへんをうろうろしていたのは「裏切者の弟」だから。下級の兵士や修行中の少年たちの面倒を見て、地味ながら堅実に働いて忠誠を見せようとしていたのだろう。そのけなげな心のうちを一切言葉で説明せずに表現するストーリーテリングの巧みさよ。 

結論から言うと、この読み方を撤回する必要はないんですね。
そのことを言いたいがためだけに一冊読んだ(謎の執念)。
『読者はどこにいるのか』石原千秋

小説の読者・語り手についての本。
 

「作家論」と「テクスト論」

めちゃくちゃざっくり、私がとらえたところで言うと(合ってるかは知らない)、
「作家論・作品論」は、作者の意図を読み込むことが目的である。
作者に答えを求めるという読み方だ。
 
その方法で行くと、上記の私のアイオリア解釈は全然、はなから間違っていることになる。
だって、車田先生は最初にアイオリアを出したとき、彼の来歴なんざ全く考えてなかったんだから。
黄金聖闘士として描いてすらいなかったんだから。
ぬぁにが「ストーリーテリングの巧みさ」だよ。知ったような口をききゃーがって。
 
だが待て、しばし。
「テクスト論」の立場で言うと、その解釈はおおいにアリなのだ。

テクスト論は「立場」なのである。別の言い方をすれば、イデオロギーなのだ。それは、さまざまな方法は使ってもかまわないが、作者に言及することだけはしないという立場だ。 

『読者はどこにいるのか』p.30

テクスト論の立場では、
「黄金聖闘士のアイオリアが雑兵スタイルで第1話に登場するのは作者の設定準備不足」(アイオリアが実は黄金聖闘士だった、というのは後づけ設定だから)
という片づけ方は絶対にしない。
 
『星矢』を「作者・車田正美」から完全に切り離し、作者の意図(の有無)を一切問わず、作品に描かれていることだけを読む。
その場合、
「アイオリアは裏切者の弟として目立たない形で地道に聖域に奉仕してきた(ので、雑兵ルックでそのへんに気軽に現れた)」
という読み・解釈は十分成立する。
(まあ、「ストーリーテリングの巧みさ」が偶然の産物だってことは注記しといてもいい)

 
よく、「作者はそこまで考えてない」と言われる。
『星矢』以下、多くのマンガでその通りだとしても、
テクスト論の立場では、考察・解釈は自由だし、無駄ではない。
「作者の意図」の中に、作品を押し込める必要はないのだから。
いったん書き手・描き手の元を離れた作品は、それ自体が自立した宇宙なのだから。
作り手が「そこまで考えてない」部分こそが、作品の奥行きなのだ。
 
……てことですよね?
 

……てことにしておいて、私も基本的には「作者のミス(と思われるさまざまな要因)を解釈に組み込んだほうが面白く読める」(p.205)というテクスト論の立場で、これからも小説やマンガを読んでいく。

「作者の意図」の中におさまらないスケールの作品だ、と見たほうが、ずっと面白いじゃないか。
(これが言いたいがために読んだことを石原先生に謹んでお詫び申し上げます)
 
(もちろん、「作家論よりテクスト論の方が優れている」などと言いたいわけではない。見ている世界が違う、というだけのこと……)
(「作者の意図」に全然興味がないわけでもない。車田先生の『星矢』関係インタビュー集があればぜひ読みたい。どっかでまとめて出してくれ)

私もその「読者」の一人です

さて『読者はどこにいるのか』で私が首をぶんぶん縦にふったのがこちら。

美禰子の内面はすべて読者に委ねられている。美禰子が魅力的な人物であり続けるのは、内面が書かれないからなのである。

p.193

……めっっっっっちゃわかるわ。
わが師カミュもそれやもん。
カミュが考えていたことが筒抜けになっていないからこそ、
内面が描かれないからこそ、
カミュは魅力的なキャラクターであり続ける。
 
主人公の星矢ですら、その内面はさほど描かれていない。
最後の最後、沙織さんをかばってハーデスの剣を胸に受けたシーンは、行動のみが描かれている。
モノローグすらないのだ。
改めて、見事だ。この肝心要のシーンで、主人公が一言もないというのは。
 
これを描写不足とみるか、想像の余地を与える抑制的な表現とみるかは、それこそ好みの問題だろう。
 
 
もう一つ。個人的に刺さったのが以下。

小説の読者は「ここにも自分がいる」と感じたに違いない。そして、「あの人も自分と同じように読んでいるだろう」と感じているに違いない。その上で、「自分はちょっと違う読み方もしているし、違う読み方ができる」という感覚を自己のアイデンティティーのよりどころとするのが大衆だ。それが近代小説の読者である。 

pp.67-68

石原先生! 言わんといて!!
恥ずかしいから!!!!(致命傷)


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