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HSS型HSP(INFJ?)のsouutu的な晴れ間の記録(雑文)

ふざけたタイトルで恐縮だが、今朝寝苦しくて良い睡眠がとれなかった。
そのため先ほどの今朝の投稿はかなり鬱々とした内容になっていたと思う。

私はよくインターネットカフェのブースで作業をしているのだが、これってHSS型HSP(INFJ?)の人間にとってはかなり洞窟で修行する修道士のような、瞑想的な働きがある気がする。

いわば今私はめっちゃ元気なのだ。

多分、HSS型HSP(INFJ?)は根本的に求める刺激で満たされていれば鬱とは無縁な気がする。

つまりHSS型HSP(INFJ?)が病む原因は「退屈」である。

子供のころはひたすらファンタジーの物語や童話を読み続けていればそれで幸せだった。

受験勉強は勉強することで何とか退屈は避けられた。

そして社会人。

どうも社会人になってから自分の好奇心や興味関心、要はHSS型HSP(INFJ?)の「脳」が満足するような刺激を仕事や社会を通して受け取ることが難しいと感じる。

正直自分のまだ見たことのない美しいものや面白いもの、または純粋な闘争心によって毎分毎秒アドレナリンやドーパミンで満たされない限り、私の脳は常に退屈であり、不幸なのだ。

思えば学生時代、最も楽しかった思い出は弓道部での記憶である。
私は中学時代に弓道に出会って初めて生きてて幸せだと感じた。
それはおそらく初めて自分の脳が満足するレベルのアドレナリンかドーパミンを浴びたからだろう。

だかこのレベルのドーパミンやアドレナリンを日常で接種するのはたぶん難しい。ずっと感動を味わうような体験を仕事ですることはできるのだろうか?

今の私は退屈している。
忙しくしていても、私の脳が求めるものが手に入らなければそれは退屈である。

よく悩んでるときは運動するといい、という話があるがあれは半分嘘だと思う。

昔悩んでた時ひたすらキツイ運動に従事したことがあったが、走りながら悩んでいたため悩みには無意味であった。むしろ全身の筋肉痛で生きること自体が苦痛になったので逆効果である。

HSPは人より苦痛も喜びも増幅して感じられるらしい。
だからはたから見たら平凡な人生でも本人はささやかな幸せを大いに享受できる。
一方で見過ごされがちな小さな苦痛や不愉快が致命傷になることがある。

相談に乗ってくれた人のアドバイスにすぐ乗っかりたい気持ちはあるが、こうしてみると地味に危険な行為である。


こうやって音楽やアートに囲まれながらならいれば、私は正気でいられる。
とはいえ日常のやるべきことが心身の健康の足を引っ張るので生きることは難しい。
なかなか外注でいるものではないし、一人で生きているから。

現実逃避と言われればそこまでだ。
喜びで満たされているとき、たぶん人は不安を感じないし、将来に悩んだりしない。

退屈しているとき、生きることが苦痛なのだ。

まあただ生きることが苦痛な時点で健康な状態ではないのかもしれないが。

本当は毎秒本のページをめくるように、いろんな世界をみて生きることを楽しみたい。
今の時代ならネットを使うことが一番簡単だろう。

インターネットを通して、意識だけならどこへでも行ける。

退屈なら働いたらとアドバイスを受けることはあるが、タウンワークに載っているような仕事は大体退屈である。

そこに非日常はない。

常識の範囲内で構成された世界に発見や冒険の喜びはない。
まだ勉強してたほうが満たされるだろう。

コロナ禍は占星術を学んで退屈を紛らわせたが、いつまでもそれは続かない。
かといって今学んでみたいことはパッと思いつかない。ざけたタイトルで恐縮だが、今朝寝苦しくて良い睡眠がとれなかった。

そのため先ほどの今朝の投稿はかなり鬱々とした内容になっていたと思う。


私はよくインターネットカフェのブースで作業をしているのだが、これってHSS型HSP(INFJ?)の人間にとってはかなり洞窟で修行する修道士のような、瞑想的な働きがある気がする。


いわば今私はめっちゃ元気なのだ。


多分、HSS型HSP(INFJ?)は根本的に求める刺激で満たされていれば鬱とは無縁な気がする。


つまりHSS型HSP(INFJ?)が病む原因は「退屈」である。


子供のころはひたすらファンタジーの物語や童話を読み続けていればそれで幸せだった。


受験勉強は勉強することで何とか退屈は避けられた。


そして社会人。


どうも社会人になってから自分の好奇心や興味関心、要はHSS型HSP(INFJ?)の「脳」が満足するような刺激を仕事や社会を通して受け取ることが難しいと感じる。


正直自分のまだ見たことのない美しいものや面白いもの、または純粋な闘争心によって毎分毎秒アドレナリンやドーパミンで満たされない限り、私の脳は常に退屈であり、不幸なのだ。


思えば学生時代、最も楽しかった思い出は弓道部での記憶である。

私は中学時代に弓道に出会って初めて生きてて幸せだと感じた。

それはおそらく初めて自分の脳が満足するレベルのアドレナリンかドーパミンを浴びたからだろう。


だかこのレベルのドーパミンやアドレナリンを日常で接種するのはたぶん難しい。ずっと感動を味わうような体験を仕事ですることはできるのだろうか?


今の私は退屈している。

忙しくしていても、私の脳が求めるものが手に入らなければそれは退屈である。


よく悩んでるときは運動するといい、という話があるがあれは半分嘘だと思う。


昔悩んでた時ひたすらキツイ運動に従事したことがあったが、走りながら悩んでいたため悩みには無意味であった。むしろ全身の筋肉痛で生きること自体が苦痛になったので逆効果である。


HSPは人より苦痛も喜びも増幅して感じられるらしい。

だからはたから見たら平凡な人生でも本人はささやかな幸せを大いに享受できる。

一方で見過ごされがちな小さな苦痛や不愉快が致命傷になることがある。


相談に乗ってくれた人のアドバイスにすぐ乗っかりたい気持ちはあるが、こうしてみると地味に危険な行為である。




こうやって音楽やアートに囲まれながらならいれば、私は正気でいられる。

とはいえ日常のやるべきことが心身の健康の足を引っ張るので生きることは難しい。

なかなか外注でいるものではないし、一人で生きているから。


現実逃避と言われればそこまでだ。

喜びで満たされているとき、たぶん人は不安を感じないし、将来に悩んだりしない。


退屈しているとき、生きることが苦痛なのだ。


まあただ生きることが苦痛な時点で健康な状態ではないのかもしれないが。


本当は毎秒本のページをめくるように、いろんな世界をみて生きることを楽しみたい。

今の時代ならネットを使うことが一番簡単だろう。


インターネットを通して、意識だけならどこへでも行ける。


退屈なら働いたらとアドバイスを受けることはあるが、タウンワークに載っているような仕事は大体退屈である。


そこに非日常はない。


常識の範囲内で構成された世界に発見や冒険の喜びはない。

まだ勉強してたほうが満たされるだろう。


コロナ禍は占星術を学んで退屈を紛らわせたが、いつまでもそれは続かない。

かといって今学んでみたいことはパッと思いつかない。

何か良い方法はないものか。

まあ考えるより閃くのを待つのが吉かもしれない。



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