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93歳のピアニストが教えてくれる、人生をより美しくする方法(伊藤玲阿奈)

指揮者・伊藤玲阿奈「ニューヨークの書斎から」第6回
Play Life More Beautifully ~ Reflections on Music, Friendship & Creativity” by Seymour Bernstein & Andrew Harvey 2016年出版
人生をより美しく シーモアさんとの対話――音楽、家族、友情、そして創造
著:シーモア・バーンスタイン、アンドリュー・ハーヴェイ 訳:小野山弘子
音楽之友社 2020年2月発売

今回は、この4月で93歳になるピアニスト、“シーモアさん”ことシーモア・バーンスタインへのインタビューを収めた『人生をより美しく シーモアさんとの対話』を取りあげる。今年3月に日本語版(注1)が出版されたばかりの本である。(原書は2016年刊。ちなみに同じ姓をもつ指揮者レナード・バーンスタインとは無関係)

著者のシーモアさんは、音楽愛好家のみならず世界中の人々から求められるべき芸術家だ。新著の翻訳がこのたび日本でも刊行されたことは、私たちへの素晴らしいギフトに他ならない。なにしろ彼の音楽と生き様にふれることで、自分の現状を変える勇気、場合によっては人生さえ変えてしまうほどの力を与えられた人が、アメリカを中心に数えきれないほどいるのだから。

実をいえば私自身も、シーモアさん――いや、私にとってはシーモア先生――の光に照らされて逆境から脱出する力をもらったひとりなので、このような機会に恵まれたことは嬉しくて仕方ない。お伝えしたいことは山ほどある。

が、ここでは彼をまだ知らない方々に少しでも興味をもって頂けるよう、本書の背景とテーマ、この二つに絞ってご紹介したいと思う。

ハリウッドスターを「救った」あるひとりのピアニスト

まずはひとつめ、本書の背景から入ろう。

1927年、ニューアーク(注2)で廃品回収業を営むロシア系移民の家に生まれたシーモアさんは、3歳のときにピアノと出会った。良き師にめぐまれ、父親との葛藤や朝鮮戦争での兵役など幾多の困難と悲しみを乗り越え、1968年にはアメリカ第一の名門シカゴ交響楽団に招かれるほどの、誰もが認める成功したピアニストとなる。日本とも関わりが深く、1955年には近衛秀麿(このえひでまろ・注3)の指揮でガーシュイン作曲『ラプソディー・イン・ブルー』の日本初演を行っている。

ところが50歳のときコンサートから引退し、残りの人生を教えることと創作に捧げようと決心。この決断によって、ピアニストとしてのキャリアからは遠ざかったにせよ、アメリカで最も尊敬されるピアノ教師のひとりとしての名声を築く。

86歳になったある日のこと、シーモアさんは友人から夕食に招かれた先で、ハリウッドの大スターであるイーサン・ホークに出会う。
当時イーサンは深刻な悩みを自分自身に抱えていた。なんと舞台恐怖症である。アカデミー助演男優賞にノミネートされた『トレーニングデイ』(2001年)における彼のリアルな演技からは想像もつかないが、超一流であっても緊張やプレッシャーからは逃れられないのである。

その日夕食を共にしながら、おそらくイーサンは運命の師に出会ったような感覚に陥ったのだろう。彼は堰(せき)を切ったように自身に秘めていた悩みを打ち明け、老ピアニストは真摯にそれに向き合ったのだった。それからほどなくして、イーサンのうちに劇的な変化が訪れる。

イーサン・ホーク監督初のドキュメンタリー映画『シーモアさんと、大人のための人生入門(原題Seymour: An Introduction)』が公開されセンセーションを巻き起こしたのは、それから1年後、2014年のことである。(日本公開2017年)

恐怖症を克服して一層活躍の場を広げたイーサンは、表舞台から去って36年になるこのピアニストに、ふたたびコンサートを行うよう説得。本番を迎えるまでのシーモアさんに密着したドキュメンタリーを制作したのだ。

本書は、この映画のいわば延長線上にあたる作品である。

映画の公開からしばらくして、精神学者にして詩人のアンドリュー・ハーヴェイが、1週間にわたって寝食を共にしながらシーモアさんに様々な質問を投げかけ、それをまとめたのが本書なのだ。アンドリューも、イーサンと同じ夕食会でシーモアさんと出会った。映画の制作をイーサンに直接提案したのは彼で、映画の中にも登場している。

そのような背景があるので、第1章にしても、二人が映画をふり返るところから始まっている。つまり、その映画への理解と共感なしには、本書に実っている豊かな稲穂をすべて刈り入れることができないのである。だからまず先に映画の方を鑑賞することを強くお勧めする。(ストリーミング配信でのレンタルもある)

百聞は一見に如かず。これを読むのを中断して構わない。今すぐ予告編だけでもご覧になって、シーモアさんの人となり、聞き取りやすいよう配慮された品格ある英語、そして透明感あふれる演奏がどのようなものか、ひと目でも確認して欲しい。わざわざそうするだけの価値がこの映画にはある。

いずれにしても、順番としては映画から本書に進もう。80分では語りきれなかった様々なトピックが、珠玉のエピソードとともに文字で補われている。なお、映画を観ていれば、必ずしも第1章から順に読まなくてよい。家族について書かれた第3章、自分を愛することについての「間奏曲」の章から読んでも入りやすいだろう。(ただし、「はじめに――歓迎の言葉」は、本書の内容が集約された、神髄ともいえる部分なので最初に心して読んで欲しい)

こうして映画と本書に夢中になれるなら、イーサンが(そして私が)そうなったように、あなたが抱える辛い現状に何らかの変化がもたらされるかもしれない。

人としてアーティストとして、「ありのまま」で居続けること

続いて第二の点、本書のテーマへと移ろう。

本でも映画でも、シーモアさんの数奇な人生や仙人のような存在感ばかりに目がいくかもしれないが、以下のことに留意しながら鑑賞すると、メッセージを的確に受け取れることができて、より感動が深まることだろう。
まずテーマについては、シーモアさん自身が次のように語っている。

確かに彼[イーサン]は、私の中に自分が求めている何か大切なものがあるのを感じたのだ。つまり、アーティストであることと、一人の人間であることを融合できるということだ。たぶん、私が音楽を通じて、いとも自然にそれを成し遂げているのを感じとったのだと思う。たいていの人にとって、それは意識して行うことだから。(本書 p. 16 ~ 17)

イーサンは、俳優としての自分とありのままの自分との間にギャップを感じていた。前者は自信に満ちた演技派の名優であり、後者はセリフが飛ぶのではと恐怖に悩まされる男である。

彼に限らず、本心を押し殺して生活するうちに、社会における自分と人間としての自分に断絶が生じ、どうしようもない苦しみへと発展するケースは頻繁に見受けられるものだ。私にしても、「指揮者はかくあるべし」の強力な呪いを自分にかけているうちは、それを達成できない怖れがどうしても先行し、うつ病から逃れられなかった。

ところが老シーモアさんにはそのような自己の分裂がみられない。哲学でいうところの自己同一性が高い次元で保たれている人なのだ。

36年ぶりのソロコンサート、しかも大スターとの映画撮影なのに、本人はいたってあるがまま。凄まじい練習量を淡々とこなし、本番でも楽譜を見ながら弾いて決して無理はしない。大多数の人々がとらわれがちな、「やってやろう」「大きく、もしくは謙虚に見せよう」「成功させたい」といった自我を保つための作為、エゴに由来する人工的な意志とは、この人は無縁である。

シーモアさんは、内面と外面が直結しているのだ。「自(おのず)から然(しか)る」と訓じる通り、“自然に”生きている。だからこそ外界の自然にも愛され、野生のシマリスや鳥とも友達になれるのだろう。高潔無私な心ゆえに動物と会話できたと伝えられる、アッシジの聖フランチェスコを思い出させるではないか。

そして、この自己同一性の達成こそ、本書と映画が投げかけたいテーマになっているのである。

これを私なりに掘り下げてみよう。

心からやりたいことを積み重ねれば、人生は満たされる

東洋思想には、すべての生命は根源ではひとつにつながっており、それこそ神性(仏性やタオとも呼ばれる)であると考え、欲望や執着を捨ててそれと一体化すること(=悟り)を目指す有力な伝統がある。西洋において、万物に神性が宿っているとする汎神論は、唯一神と人間その他を厳しく分けるキリスト教によって長らく異端とされていたが、最近ではその伝統に属するヨーガ・禅・タオイズム(老荘思想)などが広く支持を得ている。

その大きな原因のひとつは、自我を拠り所とする近代西洋文明に重大な欠点があるからだろう。すなわち、人生を自分で決められる自由と引き換えに、自然な自分らしさが失われてしまうのだ。この価値観のもとでは、“人生の成功”はどうしても他者との競争に勝つことが条件となるがゆえに、自我が肥大化もしくは分裂しやすいのである。イーサンや私はその罠にはまり、「うまくやりたい」「成功させたい」と焦る結果、自分本来のあるべき姿から離れてしまって精神を病んだのであった。

要するに、イーサンとアンドリューが自己同一性の達成をテーマにすえたというのは、近代人が陥りやすいこの問題を克服したいという強い意識が根底にあるからだ。シーモアさん自身にしても、その重要性を痛いほど知っている。だから次のような発言で、克服へのヒントを与えようとする。

私はいつも、人生のゴールは自分自身を愛することを知ることだと言って来ました。(本書 p. 75)
私は天国とか地獄とか死後の世界なんて信じていない。だがこの地球上で、天国での時間に到達することはできると思っている。そのために必要なのは、自分自身の「精神の貯水池」と調和すること、(後略)(本書 p. 80)

「精神の貯水池と調和する」は本書で何度か登場するキーワードだが、「(自己同一のために)自分自身を愛する」の別表現にあたる。ただし愛の対象は自己保存の欲望によって作られた自分ではなく、そんな欲望に左右されない自然な、ありのままの自分のことだ。これについてアンドリューは

「自分を甘やかし、自分の必要性だけに執着しているのは、自分を愛することではなく、自分に取り憑かれているだけのことです」(本書 p. 76)

と、極めて本質をついた指摘をしている。

では、「ありのままの自分」とは何か。どうやって発見するのだろう。シーモアさんは言う。

自分の心と向き合うこと、シンプルに生きること、成功したい気持ちを手放すこと。積み重ねることで人生は充実する。(映画『シーモアさんと、大人のための人生入門』予告編より)

つまり、あらゆる自己保存の欲望から離れて、本心からやりたいことをシンプルに積み重ねる、そうして自分と向き合ううちに発見できる、と彼は教えるのだ。それが正しいことはシーモアさんの人生と音楽が証明しているから、本書でも映画でもそれらを詳しく分析するように作られてある。だからこそ鑑賞後に何らかの変化へと導かれる人が続出したのだろう。

シーモアさんのピアノ演奏は、さすがに指さばきが若い頃より衰えているから間違った音だって叩く。しかし彼の演奏や言葉にふれると、涙で顔がくしゃくしゃになり、ずっと諦めていたことを次の日から再びやり始めるという人が後を絶たない。哲学者・今道友信(1922~2012)がいみじくも語ったように(注4)、美とは感覚的なきれいさではなく、心によって生じる輝き、すなわち精神の所産であることを改めて思い知らされる。

近代西洋文明において優勢となった価値観に染まり、成功・序列・知識・技術といった機能的な視点のみで人生や芸術をとらえることが当たり前になっている現代人にとって、それは希望の光となるだろう。気づかなければ、心の荒廃がますます進むことは目に見えているのだから。

「人生をより美しく(Play Life More Beautifully)」――未来への持続可能性が叫ばれるようになった今こそ、シーモアさんは時代の心の導師にふさわしい。

追記:私は2020年11月に初となる著作『「宇宙の音楽」を聴く  指揮者の思考法』を光文社新書より上梓いたしました。拙著と併せてお読み頂くと、本稿もよりおもしろく、理解が深まるかと存じます。ぜひお手に取って頂ければ幸いです。

注記
(注1)
日本語版は、原書のかなりの部分が省略されている。したがって、訳者の小野山弘子氏ご自身が勧めておられるように、英語が読める方はぜひ原書にもチャレンジして欲しい。音楽を聴くような非常に美しい英語で会話がくり広げられている。ちなみに、シーモアさんと50年来の友人である小野山氏も、その美しい英語に魅せられたひとりである。
(注2)
ニュージャージー州最大の都市で、ニューヨーク市にも近い。
(注3)
近衛秀麿(1898~1973)は戦前の近衛文麿首相の弟で、ヨーロッパでも活躍した最初期の日本人指揮者である。現在演奏される『君が代』は彼の編曲版。
(注4)
今道友信『美について』講談社現代新書 p. 211

執筆者プロフィール:伊藤玲阿奈 Reona Ito
指揮者。ニューヨークを拠点に、カーネギーホール、国連協会後援による国際平和コンサート、日本クロアチア国交20周年記念コンサートなど、世界各地で活動。2014年に全米の音楽家を対象にした「アメリカ賞(プロオーケストラ指揮部門)」を日本人として初めて受賞。講演や教育活動も多数。武蔵野学院大学SAF(客員研究員)。2020年11月、光文社新書より初の著作『「宇宙の音楽」を聴く』を上梓。個人のnoteはこちら

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