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「手つかずの自然を取り戻す」より「自然をデザインする」視点を(太田直樹)

太田直樹「未来はつくるもの、という人に勧めたい本」 第9回
Rambunctious Garden: Saving Nature in a Post-Wild World
by Emma Marris 2011年8月出版
「自然」という幻想: 多自然ガーデニングによる新しい自然保護
著:エマ・マリス 訳:岸 由二、小宮 繁
草思社 2018年7月発売

「人新世」という言葉があります。人類が地球や生態系に大きな影響を与えているという認識から提案されている地質年代の名前ですが、2000年に提唱され、もうすぐ正式に国際学会で認められる見込みです。人新世の始まりを20世紀半ばとして、いまから何百年あるいは何千年経ったあとに年代を判別するマーカーは、土壌に残ったマイクロプラスチックなどが検討されています。

人新世の間に自然は大きく変わっています。例えば1950年と比べると、いま吸っている空気の二酸化炭素は36%増えています。

この時代に、私たちが自然について感じている(あるいは聞かされている)のは、人間の活動が自然を破壊し、結果として自然が失われている。自然を再生しなくてはいけない。そうしたイメージではないでしょうか。

日本において、自然と言えば、国土の6割以上を占める森林が思い浮かびます。そして、森林が荒廃している、という漠然としたイメージを持っている人も多いのではないでしょうか。僕もそうでした。

しかし、実際に山を訪れて話を聞いたり、調べたりすると、それとは異なる姿が見えてきます。日本の山林は、この数百年の間でもっとも緑が豊かで、土砂崩れなどの被害も抑えられているのです。

山林が最も荒廃していたのは明治時代です。また、江戸時代も多くの山が、いわゆるはげ山になっており、土砂崩れや河川の氾濫が大きな被害を与えていました。歌川広重の東海道五十三次の版画はよく知られていますが、注意していくつかの作品を見ると、山はどれも木がまばらにしか生えていません。これは表現としてそうなっているのではなく、現実の風景がそうなっていたのです。

自然について、どのように考えたらいいのでしょうか。

「手つかずの自然」は存在しない

サイエンスライターのエマ・マリスが地球中を歩いて「(未来の)自然とは何か」を提案した本書は、例えば、次のようなことを気づかせてくれます。

・いわゆる「手つかずの自然」はほとんどない。人が立ち入らない聖地と言われる東欧のビアロウィエージャ原生林は、歴史を分析すると人との長い期間の交流の跡がある。「母なる公園」と呼ばれるイエローストーンも、人間によって厳格に管理されている。

・地球の凍っていない地表の半分では農林牧畜業が営まれている。

・外来種が必ず生態系を崩壊させ、多様性を低下させるとは限らない。逆に多様性が向上する例もあり、自然保護に外来種を活用することも始まっている。

第1章は、著者が考える「自然」についてのエッセンスが述べられており、「手つかずの自然」という幻想が世界中に広がった歴史が、第2章にあります。アメリカの話なので、日本にいると少し取っつきにくいのですが、この国にある「Wilderness(手つかずの自然)崇拝」が近代の話であり、それが学術的な支援を得て、国際的な組織を通して、世界中に自然保護を広げることになったことが明かされます。

自然保護の何が悪いの? そう思う人は多いと思います。本書が提示する論点は、これまでの自然保護運動は「基準となる自然」が過去にあり、自然は人間が介入しないことで「均衡する」としてきたが、それは誤った前提であり、もっと言えば弊害を生んできたのではないか、ということです。

続く第3章も含めて、明らかになるのは、最新の研究によって、太古から自然は人間によって影響を受けてきたこと、そして、自然には平衡状態はなく、常に変化するものであることです。

ここまで読み進めると、第1章の冒頭の一文が、より深く理解できます。

”過去300年で、私たちは多くの自然を失った。「失う」という言葉の持つ2つの意味でだ。”

すなわち、物理的に自然を失っただけでなく、人間の介入を受けない、どこか遠いところに自然があると考えることで、見失ったということです。

自然の定義を変えることで見えてくる可能性

従来の定義を変えて、自然は人間と共にあるものであり、過去に戻すのではなく、創っていくものと考えると、新たな可能性が見えてきます。

第4章から7章は、世界各地で行われている取組みを紹介しています。ただし、自然(保護)については、論争が続いており、新たな取組みも全て成功しているわけではありません。この論争は、学術的なことだけではなく、かなり感情的な衝突もあるようです。サイエンスライターとして、著者は様々な見方を提示しています。

第4章では、大型動物の導入も含めて「再野生化」する試み、第5章は、温暖化による生物の移動を人間が手伝う試み、第6章と第7章は、外来種を駆除せずに、生態系の中で評価する試みについて紹介しています。

どれも、「基準となる過去の自然」があるという前提を手放し、生物多様化や種の存続など、生態系において特定の目的を果たすためのものです。賛否や議論はありますが、自然と人間の関係について、様々な視点が得られると思います。

そして、第8章と第9章で、著者はもう一段踏み込んで、自然とは、身近なところでデザインしていくものだと提案するのです。

都市に暮らす人にとって、山より身近な自然は川だと思います。コンクリートで覆われていない「自然な」川のイメージは、誰もが持っていると思いますが、著者はその川は人の営みの結果であることを最初に明かします。中世の川は違った姿形をしていたのです。

そして、農地や牧地はもちろん、工場や住宅のあり方も含めて、自然や生態系を目的をもってデザインしていく様々な可能性を見せてくれます。あとがきに、訳者の岸由二教授が書いている通り、これらはビジョンであり、理論や技術は発展途上なのですが、だからこそ可能性が感じられると思います。

岸由二さんのあとがきは、著者の提案をとても分かりやすく解説していて、おすすめです。冒頭では、本書の意義をずばりこう書いています。

”人の暮らしから隔絶された「手つかず」の自然、人の撹乱を受けなかったはずの過去の自然、「外来種」を徹底的に排除した自然生態系、そんな自然にこそ価値ありとし、その回復を自明の指針としてきた伝統的な理解に、改定をせまる”

地球全体を「ガーデン」と考えよう

最終章である第10章では、「昔に戻す」に代わる新たな目標を掲げています。それは、生物多様性だけでなく、自然の経済的な意味や、精神的な価値までかなり多様なのですが、自然は変化していくものであり、未来に向けてデザインしていくという点が明確です。

そして、この提言は、町の一角や都市の河川、農地や林地や牧地など、人々の暮らしの背景にある自然が、地球に広がっていく自然なのだという大転換を示唆しています。地球全体を、人間が手をいれる「ガーデン」と見立てる考え方です。

このビジョンは、三つの領域を切り拓いていくように思います。

一つ目は、人間中心ではなく、地球中心で自然を手入れをするための理論と技術の可能性です。例えば、凍っていない地表の半分について、農業・林業・畜産業という「業」という視点のみで考えると、生産性向上が主たる目的であり、多様な自然をつくることと利害がぶつかります。しかし、近年、多様性と生産性が両立する方法や、生産以外の外部の経済性が見えてきています。田園には、イノベーションが起きるでしょう。

二つ目は、暮らしの空間の再構築です。本書では、ニューヨークの高架鉄道跡地を利用したハイラインが紹介されていますが、身近なスペースで多様性を回復したり、種を保存する知恵が生まれています。都市計画やランドスケープ、建築の世界でも革新が起こると思います。

三つ目は、教育における可能性です。上記の二つが起こるためには、理論と技術、制度の改革だけではなく、意識が変わる必要があるでしょう。著者は「手つかずの自然」という先入観や刷り込みがない次世代への期待と、彼ら彼女らから「自然」を奪ってはいけないことを強く述べています。これについては、エマ・マリスのTEDトークをぜひご覧ください。彼女はこう締め括っています。

We have to let children touch nature. Because that which is untouched is unloved.

子供を(本当はどこにでもある)自然に触れさせるのです。なぜなら触れていないものは、愛せないからです。

執筆者プロフィール:太田直樹 Naoki Ota
New Stories代表。地方都市を「生きたラボ」として、行政、企業、大学、ソーシャルビジネスが参加し、未来をプロトタイピングすることを企画・運営。 Code for Japan理事やコクリ!プロジェクトディレクターなど、社会イノベーションに関わる。 2015年1月から約3年間、総務大臣補佐官として、国の成長戦略であるSociety5.0の策定に従事。その前は、ボストンコンサルティングでアジアのテクノロジーグループを統括。

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