答えをください
鶴城さくら
どうしたら、『正解の私』になれるだろう。誰にも否定されない、完璧な私。
ゾンビのような顔色を隠して、キラキラしたアイシャドーを塗って、つやつやのグロスで唇に魔法を。どんなに頑張ったって絶世の美女なんてなれないけれど。
鏡に映る少女は、目に涙をいっぱいためこんで、そのくせ口元だけは勝気に笑っている。私が知っているはずのバケモノも、理想の完璧美少女もそこにはいない。宙ぶらりんの状態で何者にもなれない私によく似た誰かがそこにはいた。
学校という狭い空間の中で、わが物顔で輝けるのは選ばれた人間だけだ。例えばそう、ダンス部とか。純粋にダンスがしたくてダンス部にくる子は一体どれだけいるのだろう。たいていの子はクラスの上位グループに入るために部活を選んでいるようにしか見えない。何を隠そう私がその一人なのだ。学校の人気者アリサ、の取り巻きの一人。それが私のポジション。
教室で周りの事など気に留めることなく自由に過ごす。人気者の男の子たちとはしゃいで、面倒なことは教室の隅にいるような子たちに押し付ける。ほどほどに勉強して先生に気に入られておけば、校則違反のメイクだってある程度なら見逃してもらえる。こんなに好き勝手しても他の子たちに表立って反発されないのは、私がアリサと一緒にいるから。虎の威を借りる狐なのはわかっているけれど、アリサを敵に回すのは誰だって怖い。だから皆私たちのご機嫌を取ってくれる。
自由気ままな毎日を維持するためのたった一つのルールは、アリサのお気に入りでいる事。これさえ間違えなければ自由が手に入る。
ダンス部で一番かわいいのがアリサ。ダンスが一番上手なのもアリサ。親はお金持ちで、有名雑誌の専属モデル。何もかも完璧な学校の女王様。今朝も女王様の機嫌を取って一日が始まる。教室に着く直前に手鏡で最後の確認。
大丈夫。今日も大丈夫。
「アリサおはよう」
「おはようナナ、そのグロス新しいのでしょ」
「うん。この間アリサが選んでくれたやつ、つけてみたの」
「まあまあ似合うじゃん、さすが私」
真っ赤なグロスなんて本当は私の好みじゃないけれど、ここで大事なのは私の意見よりアリサの意見だ。
「また迷ったらいつでも選んであげるから」
「ありがとう、またお願いしようかな」
「あ、亮くんおはよう」
アリサの満足気な表情を見て、今日も『正解』を選べたことに内心ほっとする。アリサの興味はもう私から逸れていて、意中の亮くんの寝ぐせをからかうのに夢中だ。ピンクのグロスでつやつやになった口元を忙しく動かしている。
毎朝毎朝、もう慣れてしまった。今日の私が『正解』かどうか、アリサの顔色を窺って確かめる事。正解はアリサの中にだけ存在して、他の誰にも決められない。他の取りまき、いや、友達がほめてくれたとしてもアリサが眉を顰めたら一発アウト。もしそんなことになったら、部活はおろかこの学校に居場所を失う。だから、自分の『好き』よりもアリサの『好き』を優先する。それが結果として私のためになるはずだから。
勉強は苦手だから授業は疲れるけれど、部活の時間はもっと疲れる。一日で一番アリサに気を遣う時間だから当然だ。そのうえ数か月前までやったこともなかったような動きを周りと同じようにできるようにならなきゃならない。もともとダンスがしたかったわけではないけれど、下手な部員は嫌われる。嫌われないためにダンス部に入ったのだから、ここで嫌われたら意味がない。
「ナナちゃんちょっといいかな」
今日はツイてない。よりによって部長の吉田先輩に呼び出されるなんて。自分にも他人にも厳しい先輩の事だ、どうせ怒られるのだろう。
「ナナちゃんだいぶ上達したね。一年生の中でも群を抜いているよ」
「えっ」
「もうちょっと上達したらセンターも任せられるくらいだよ。がんばってね」
「ありがとうございます」
まさか褒めてもらえるなんて。
少し離れたところにいるアリサと一瞬目が合った気がした。
「アリサおはよう」
次の日。いつも通りアリサに採点される時間。それが無事済めば慣れ切った一日がスタートする、はずだった。
挨拶は返ってこなかった。まさか、そんなはずない。私は何も間違いなんて冒していないはずなのだ。そうだ、きっと私の声がかき消されてしまっただけだ。聞こえなかっただけだ。無視なんかされていない。絶対に違う。
「アリサおはよう」
「美香おはよう。ねえ今日部活の帰りにスタバの新作飲みにいこうよ」
後ろから教室に入って来た美香にだけアリサは話しかけた。私は存在しないかのように。
その日どうやって過ごしたのか、まったく記憶がない。部活はサボった。今日部活に出たところでアリサの気に障るようなことをしたのなら、皆私を無視するだろうから。先輩だって、昨日はたまたま褒めてくれたけれど、後輩のもめ事に首をつっこむほどお人よしじゃない。教室以上に居場所がないなんて、とてもじゃないけれど耐えられない。
早く帰って寝たい。全部悪い夢だと思いたい。それなのに、まっすぐ家に帰る気にどうしてもなれない。だって今日早く帰ったら、きっとお母さんがうるさい。「部活はどうしたの」ってしつこく聞いてくるにきまってる。ただ暇を潰すためだけに新宿の街中を一人闊歩する。
街ゆく人は皆美しくて、自分に自信があるように見えた。逃げるように目をそらして、うつむいて歩くことしかできない私とは違う人種なのだと痛感させられる。完璧を身にまとったアリサとは違う。
私もそうなりたかった。でも、ダメだったな。どこで間違えたのだろう。アリサの好みに全部合わせてきたのにな。私の好きなもの、全部隠してきたのにな。私もアリサみたいに完璧だったらよかったのに。そうしたら今みたいに、誰かの自信に殺されそうになることもないはず。
「あれ、ナナ?」
突然名前を呼ばれて、ぎくりと体が強張った。ひょっとして高校の誰かだったらどうしよう。部活をサボってここにいるところを見られてしまったら。アリサに見限られたことに気づかれてしまったら。後ろ盾はもうない。明日から、私がいじめの標的になる。
油をさし忘れたブリキ人形みたいにゆっくり振り向くと、そこにいたのは中学の時仲が良かった沙織だった。
「やっぱりナナだよね。違う人だったらどうしようかと思った。久しぶり。卒業式以来だっけ? ナナ結構大人っぽくなった。」
ブリキ人形から人間に戻って、相変わらずよく回る口に口角が上がる。
「久しぶり。沙織は相変わらずだね」
世界一の乗降客数を誇るこの駅で、唯一の友人に遭遇するなんて。
「運命かもね」
二人の声がシンクロして、あまりのくだらなさに笑いがこらえきれなくなる。甘いもの食べに行こうか。理由なんていらない。
沙織に合うのは卒業式以来だ。せいぜい三か月しかたっていないはずなのに、今まで毎日あっていたせいでやけに久々に感じられた。
「それにしても、ナナ随分雰囲気変わったね」
溶けかかったアイスを口に運びながら意外そうに言われた。
「そうかな、そんなことないと思うけど。沙織は相変わらずだね。きれいでうらやましいな」
ツヤツヤの黒髪ストレート、フランス人形みたいに整った鼻筋、ぱっちりした目。私が毎朝鏡をたたき割りそうになりながら必死に偽装するそれらを、当たり前のように身に着ける沙織がうらやましくて、友達にまで嫉妬している私は惨めだ。
「うらやましがるほどきれいじゃないと思うけど。まあ、変わりたいって思わないから。高校入って周りにかわいい子とか大人っぽい子とか増えたけど、私にはみんな一緒に見えちゃってさ。ああいうの、私は好きになれなくて。誰かの価値観で何もかも決めて、それで楽しいのかな」
楽しくなんかないよ。直接声に出すことなんてできなくて、心の中でだけ返事をする。
「自分の価値観よりも優先したい何かが、その子たちにはあるんじゃないかな」
代わりに絞りだした言葉は自分への言い訳に他ならない。
「やっぱりそうなのかな。そもそもそこまで見た目に固執するのが私にはわからないんだけどさ。まあ、おしゃれしてる自分が好き、とかだったらわかるけど、誰かのための自分を偽るのって苦しいから」
沙織には何もかも見透かされているような気がして、パンケーキをカットするのに夢中になっているフリをする。
「そういえば彼氏さんとは、どうなったの?」
無理やりにでも話題を反らしたくて、記憶の片隅から引っ張り出した沙織の彼氏について触れた。
「別れたよ。それこそ、彼氏の求める『可愛い彼女』でいることに疲れちゃった。ねえ、ナナは雰囲気変わって大人っぽくなったけど、どうしてそんなにつまらなさそうなの?誰のために、可愛くなろうとしてるの?」
沙織の元カレの話は脇に放り出されて、私に話の矛先を戻される。ほら、やっぱり。何も言ってないはずなのになぜか気が付いてる。沙織のこういうところが昔から頼もしくて、少しだけ怖かった。沙織のパフェに乗ったアイスがドロドロになるまでじっと見つめていた。
「なんで」
「わかるよ。友達だもん。誰に何を言われてもナナの『好き』を貫いていいのに」
「だめだよ」
優しさを無慈悲にナイフで突き刺すように言葉を返す。
「だめって、なんで」
「みんなが沙織みたいに強いわけじゃない。強い誰かの陰に隠れて身を守ることしかできない人だっているの」
「それがそのグロスなの」
「何がいけないの? 引き立て役でいれば、ハブられない。寄生虫だって馬鹿にされても、わざと似合わないメイクしてすれ違いざまにブスだって笑われても、いくらでも我慢できる。居場所のない教室なんてもう嫌。いつもいつも最後の一人に余って、可哀そうって目で皆が私を見るの。今でも脳裏にこびりついてる」
「でも私は」
「沙織はあの時同じクラスじゃなかったし、今だって違う高校じゃん。沙織が何を言ってくれたところで、あの時も、今も、私にとっては何の役にも立たなかった」
おなかの底に渦巻いていた鬱憤を言いたい放題吐き出した。
だから、耳障りのいいことばかり言わないで。独りじゃないって錯覚させないで。それは救いなんかじゃない。優しい言葉は麻薬だから。私をこれ以上惨めにしないで。
固まった沙織の顔も、何もかもどうでもよくなった。
「ごめん。ナナの事情何にも知らないのにわかったようなこと言って、ごめん」
沙織がうなだれる必要なんてない。弱い私が全部悪い。どうして謝らせてしまったのだろう。
「ごめん。ただの八つ当たりだよね」
「一人になるのが怖いのって、たぶん普通の事だよ。私も怖い。自分を守るために皆少しずつ自分に嘘を吐いてる。でもさ、本当に友達だったら、そんなに辛そうな顔しなくても一緒にいられるんじゃないかな」
どうせ、友達と呼べる人なんて高校に一人もいないなら、唯一の友人の言葉を信じたい。アリサの取り巻きでいることも、よく知らない同類とつるむのも、やめてしまってもいいのかな。確かな何かが欲しい。決別に踏み切れるだけの何かが。
「本当にそう思う?」
「教室なんて狭い世界だけど、その中同じ人なんていないから。否定する人も、認めてくれる人もいるはず。目を凝らせば、耳を澄ませば絶対に見つけられる」
「そっか」
弱い私が、たかが三か月でも教室での立ち位置を手に入れるための愚かな努力を捨てるには、もう少しだけ勇気がいるから。
「これ、私にも似合うかな」
おもむろにメイクポーチから取り出したのは、ブルーのラメが入ったピンク色のグロス。本当の私が好きな色。ピンクのグロスはアリサだけの特別。その不文律を破ったら、今度こそアリサのお気に入りには戻れない。分ってる。
それなのになぜだかもう大丈夫な気がした。
「似合うよ、絶対」
「おはよう」
まだ手が震えているけれど、今朝の教室がなぜだか少し広く見えた。
アリサが勧めてくれたものは全部捨てた。背伸びを辞めたらこんなに楽なんだ。忖度するのもダンス部と一緒に辞める。私のピンクのグロスにアリサが嫌そうな顔をしたのが視界の隅に映ったけれど、もう関係ない。
『正解の私』はここにいる。
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