【読書メモ】『フィンランドはもう「学力」の先を行っている - 人生につながるコンピテンス・ベースの教育』(著:福田誠治)
小中学生くらいの頃だったと思いますが、母親から「生きていく限り、一生勉強だからね」と繰り返し言われていたことを不思議と今でも覚えています。母親は服飾の短大、父親は高卒から国家公務員(今でいうⅢ種になるかと思います、国税専門官)で、アラフィフな私の親世代(70代)としてはそう珍しくもない組み合わせかと。
父が10年以上前に定年を迎え、今現在は二人ともに実家(両親ともに同じ地方出身)に戻って悠々自適に生活しています。父は長年培った国税専門官としての経験の活用とボケ防止もかねてか、少し前まで地元の税理士事務所で働いていたようですが、今はすっかりとフリーで畑仕事やドライブを嗜んでいるようで。
両親の出会いは地元の成人式か何かだったようですが、その後の結婚生活は父が東京で働いていたこともあって東京にてスタート。(母にとっては特に)慣れない土地での苦労もあったとは思いますが、同世代の家族が集まっていた(確か)小平の官舎に入っていたこともあり、近所づきあいなどにも困ってなかったかな、私や妹も同世代の子どもたちとそこそこの人数で遊んでいた覚えがあります、名前とか顔はもはや思い出せませんけども。。
治安もいい所でしたし(警察学校と陸自の駐屯地に囲まれてました)、私が高校の途中で別の官舎(府中)に引っ越してからも、母は小平時代に縁のできたいわゆるママ友とちょくちょくと遊びに出かけたりもしていたようです。
ただそれはそれとして、父は職場で学歴云々で相当に悔しい思いをしていたようで、確か30代の頃に働きながら夜間の大学に通っていたのを覚えています。
そんな父の様子を見ていたこともあったのかと今でなら思いますが、母の言葉に当時は「まぁ、そんなものか」とボヤっと思いながら、大学に行ってからも不思議と「生涯学習」とのフレーズ(当時は生涯教育とも言われてました)が意識の片隅に残っていたのを思い出します(卒論は博物館ネタで書いた覚えも)。
結果的に、教職の他に学芸員と、大学では一度挫折したものの、働きに出てから図書館司書(学校司書)の資格を学んだのは、その辺りもあったのかなぁ、とも。
社会にはいわゆるSE(システムエンジニア)として出ましたが、15年ほど携わった後、大学の事務職員として10年弱、その後に体調面での事由もあり、今現在は福祉寄りの生涯学習施設で雇われ館長をしているってのは、自身が「生涯学習」をしていくこともですが、その他にも「生涯学習の場(機会)」の運営(提供)をなんて風な想いが根っこにあるのかなぁ、なんて『フィンランドはもう「学力」の先を行っている』との一冊を思い出しながら。
こちら、以前にご紹介させていただいた『フィンランドは教師の育て方がすごい』と同じ福田誠治さんによる著作で、ここ最近でもたまに引き合いに出されるフィンランドの教育事情、いわゆる「ゆとり教育」が題材なのですが、、日本のソレとは全く異なる内容がまとめられています。
個人的には、この一言に全て集約されているのかな、、とも。
日本の「ゆとり教育」もその理念は評価されていたとのことですから、現場でちゃんと運用されれば全く違った結果になったんだろうなぁ、、と感じます。
それがどこでどうひん曲ったのか、日本においては「結果の平等を与えるだけ」という、個人の努力や個性を無視し、多様性を否定したなんともアレな内容に堕してしまっていましたが。。
理念通りに運用されると一番大変なのは教師だと思います。画一的ではなく、生徒一人一人と向き合う必要がありますから。それには教師の待遇や社会的地位の向上もですが、再教育があらためて必要かな、とも。
それこそ修士以上の社会的地位(待遇込)といった、日教組辺りが好むボーンヘッドな労働従事者ではなく、専門職としての誇りと自信を兼ね備えた「教師」としての。
人は生きている以上、常に学んでいくものだと思います。
私よりやや上の世代(バブル前後)までの、いい大学を出ていい企業に就職すれば安泰との神話が崩れて久しい今、よりいっそうこの流れは求められていくのかなぁ、とはあらためて感じていますしまた、個人的には階級の流動化を促していく一つの手段であるのかな、とも感じています。
まぁ、今年の4月から大学生になった息子も、無事?に課題やら何やらに追われているようですし、気を緩めることなく頑張ってほしいところです、なんて風にも思いながら。
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