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奇跡を願った対価、成長の代償。『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』

【注意】
『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』の
重大なネタバレしかありません。
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 社会人一年目の頃、「今の内に失敗も経験しておくといい」と言ってくれた人がいた。社会人なんてのは余程の成果を挙げなければ褒められることはなく、顧客と上司からは「出来て当たり前」に思われ、ミスをすれば「なんでそんなことも」と言われてしまう。それが社会人というもので、努力や過程を評価してもらえるのは学生までなんだと、若者は荒波に揉まれながら学習していくのが世の常だ。だからこそ、ミスしても周りがカバーしてくれる内に失敗を重ねて、それを繰り返さないようになれれば「大丈夫になる」と、親愛なるその先輩は声をかけてくれた。

 ところが、ヒーローとくればそうはいくまい。正義を体現し、市井の人々の命を背負う立場になってしまうと、一つ一つの失敗が大きな影響を招く。そして力なき民衆は無責任に、ヒーローを崇め、時に責め立てる。大いなる力にすがり、その責任さえも押し付けようとしてしまう。ヒーローという生き方は、いつだって“完璧”を求められる。たとえその相手が大学受験を控えた高校生であっても、例外ではなかった。

 ミステリオによって正体を全世界に明かされてしまったピーター・パーカーは、家族や友人をも巻き込んだ騒動に胸を痛め、ドクター・ストレンジに助けを乞う。ストレンジはピーターがスパイダーマンであることを全世界が忘れる魔術を実行するが、ピーターの介入によって魔術は失敗し、「マルチバース」の扉を開いてしまう。

 MCUを飛び出しての、過去のスパイダーマン実写映画シリーズの歴代ヴィランがカムバックし、全世界の大きすぎる期待を背負いながらも、誰もが無理だと諦めていた「夢」を現実にしてしまった、奇跡のフィルムたる本作。しかしその本筋はピーター少年の若さゆえの想像力の欠如と、力を持ってしまったがゆえの増長が引き起こした世界の均衡さえ崩しかねない大失態の、その後始末をするというものだ。トム・ホランド版ピーターは現役高校生という設定のみならず、演者本人の容姿や劇中での言動も相まって、過去作と比べても突出して「幼さ」を前面に打ち出したピーター・パーカーだった。スパイダーマン活動が放課後の部活動の延長として描かれた『ホームカミング』はチャーミングで愛らしい一本だったが、彼はいつしか宇宙レベルの闘いの最前線に立つことになり、超人的な力を持つ大人と触れ合いすぎた。

 故に、今作でピーターは「なんとかしなきゃ」という思いに囚われ、ほぼほぼ暴走に近い状態になってしまう。呼び寄せてしまったヴィランたちを「治療してあげたい」と素直に語る彼の心に邪なものはないのだろうが、そのためにストレンジを一時的に除外した挙句、いつしか事態は一人の高校生が背負いきれないほどの大きな歪みに発展し、彼女と親友に泣きつくしか出来ない姿は、直視するのも辛い。スパイダーマン=ピーターを容赦なく批判するJ・ジョナ・ジェイムソンの言葉は、残念ながら本質を突いていた。

 そして、自分に都合のよい世界を望んでしまった若者に、運命は決まって残酷だ。メイおばさんが死ぬ。マルチバースや時間操作さえあり得ない話ではないMCU世界線だが、これは覆ることはなかった。そして、彼女が「大いなる力には大いなる責任が伴う」の台詞を口にした時、メイおばさんが従来のシリーズにおけるベンおじさんの役割を果たしているのだ、と気づいたとき、この映画のテーマが浮かび上がる。それはやはり、「スパイダーマンになること/あり続けること」だ。

 ここまで徹底されると、愛する者の死はもはやスパイダーマンの名を掲げる者に科せられた呪いであり、通過儀礼という気すらしてくる。しかも決まって、その死は「ピーター・パーカー」本人が受け入れる責任として、重く圧し掛かる。メイおばさんの死は、当然のことながらピーターが魔法を頼らなければ起こらなかった事態だ。サラリーマンがミスをしても、取引先やお客様、同僚や先輩後輩に迷惑をかけ後ろめたく思うことはあれど、(業種によるかもしれないが)誰かが命を失うことは到底あり得ない。その“あり得ない”がとても身近に起こりうるのだと、ピーター少年は高すぎる授業料を払って学ぶことになった。

  大きすぎる喪失の前に、戦意を失ったピーター。そんな彼の助けを求める声に応えたのは、ヒーローの先輩でありスパイダーマンの先輩であり人生の先輩であり、そして同じピーター・パーカー自身、というのが凄い。全世界の映画ファンが心の奥底で待ち望んでいた、トビー・マグワイアとアンドリュー・ガーフィールドの再演。しかしそれは単なるお祭りのギミックとしてではなく、トムホ版ピーターの成長に必要な過程として配されたことに、我々は客席に座りながら嗚咽せざるを得なくなってしまう。

 同じく大切な者を亡くし、それでもスパイダーマンであり続けたピーター・パーカーという一人の人間。そのマスクの下の表情を見て、若きピーターは何を想っただろうか。喪失を受け入れて、生きていくこと。手垢のついたフレーズだけれど、実際に行動に移せる者はそうはいない。けれど、隣にいる先輩は他人でありながら自分でもある、というやや不思議な状態にある。そこに彼は、未来の希望を見出したのかもしれない。愛する者の死はその称号についてまわる呪いではあるけれど、克服できないものでもない。こうして我らがMCUピーターも涙をマスクで隠し、軽口を挟みながらヴィランと闘う。その姿は、やはり我々が愛した“スパイダーマン”そのものだった。

 有り余る感動を観客に叩きつけた本作だが、結末はとてもビター。マルチバースによる世界の混乱を抑えるため、ピーター・パーカーは全世界の人々の記憶から抹消されてしまう。MJと再会すれど、都合のいい奇跡なんて起こらない。ピーター・パーカーの若さゆえの過ちは、18歳が背負うには大きすぎる代償を残した。スターク・インダストリーズからの加護もナノテクスーツも奪われ、アベンジャーズの先輩方も頼ることは難しいだろう。それでも、あの貧相な家の窓からお手製のスーツをまとった彼が飛び出した時、私は滂沱の涙を流した。あぁ、それでもキミは“親愛なる隣人”であり続けてくれるのか、と。

 ジョン・ワッツが手掛ける三部作をもって、真の意味でピーター・パーカーがスパイダーマンになる、そのオリジンを語り切った。スパイダーマンとしての「記号」をまとって雪のNYを飛ぶ彼の姿に、我々観客は孫の巣立ちを幻視したはずだ。起こった出来事の豪華さ重大さに似合わず、とても痛ましくて残酷な結末だ。されど、長きに渡り見守ってきたトム・ホランド版ピーター・パーカーの「青春」にエンドマークが打たれ、スパイダーマンとしてヒーローとしてあり続けるその決断を、彼のことを覚えている我々だけでも応援したいと思うのが、きっと「親心」なのだろう。

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