新たな悪の形はMCUを揺るがすか。『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』
改めて映画の評価というものは、その時代の空気や過去作品によって積みあがったリテラシーとは切り離せないものだと痛感する。あの映画史に残る『エンドゲーム』祭りから早2ヶ月、バトンタッチをする形で上映が始まったのが今作『ファー・フロム・ホーム』だ。
世界はヒーローを求めている
本作においてファンが一番期待するところは、『エンドゲーム』の「その後」を描く、という点においてだろう。サノスによって世界は修復不可能な形でねじ曲がり、二度と元の姿へは戻らない。あの指パッチンを逃れた者とそうでない者との間には、5年という絶対に覆せない時の隔たりがあるのだ。そして、この闘いで人類は偉大なヒーローを失った。
アイアンマン=トニー・スタークの死は、人類にとって、そしてピーター・パーカー本人にとっても暗い影を落とす。世界はトニーへの追悼で埋め尽くされ、ピーター自身は「第二のアイアンマン」「新しいアベンジャーズ」としての立ち振る舞いを求められる。それに対し当の本人は、「親愛なる隣人」という二つ名を盾に、その重責から逃れようとする。
前作『ホームカミング』では、早く大人になって、アベンジャーズの一員として認められたいと張り切る無邪気な少年として描かれたMCU版ピーター・パーカーだが、今作では打って変わってまだ子どもでいることを望んでいる。それも無理からぬ話で、彼は師を失ったばかりのティーンエイジャー。世界の平和を背負う覚悟など、出来ているはずがないのだ。
しかし、ヒーローを失い混沌とする世界の中で、ピーターはヒーローとしての成長を否応なしに求められることになる。そしてそれは、彼自身が大人への第一歩を踏み出すことへも繋がっていく。
本作における大人の条件とは、「自分の行動に責任を持つ」ことである。気の知れた友人や想い人との修学旅行を楽しみたい一心で、ピーターは誤った判断を下し、結果として大切な人たちを危険に巻き込むことになる。ここで思い出すべきは、「大いなる力には大いなる責任が伴う」というスパイダーマン全史における共通テーマだ。しかもその大いなる力とは、他ならぬトニー・スタークから受け継いだものであり、ピーターはその力を正しく使うことで師の名をも背負わなくてはならない。
なんとも高校生には酷な話だが、彼は自分自身の力が及ぼす影響や、ピーローとしての責務と直面することから逃げられず、スパイダーマンと学生の両立に苦しめられる。だが、その等身大の悩みを持つ少年とスーパーヒーローがイコールであるからこそ、彼は長きに渡り愛されるNYの隣人なのだ。これまでのスパイダーマン映画の中でも突出して若手のトム・ホランドが延び延びと演じるピーターは、年相応の弱さ無邪気さで観客の庇護欲を鷲掴みにし、終盤の表情の変化には思わずハッとさせられるはず。まるで親戚の子を愛でるような気持ちにさせてくれるトムホ版スパイダーマンの愛嬌は、本作でもフルスロットルだ。
たのしいたのしいなつやすみ
そうしたヒーローとしての重責を払拭して、本作を極めてキュートかつポップにしてしまうのが、若手キャスティングたちの最高のアンサンブル。ヒーロー業から離れてヨーロッパへの夏休み旅行へと出かけるピーターだが、ここで本作は青春ロードムービーとして大きく舵を切る。想いを寄せるMJへの告白のチャンスを狙いながらソワソワとするピーターと、それを知ってか知らずか付いては離れての距離感で接してくるMJとの、観ているこっちがヤキモキするようなロマンス。あるいは、ヨーロッパの美しい街並みに目を輝かせる学生たちの瑞々しさ。椅子の男こと頼れる親友ネッドとの掛け合いは常に心地よいバイブスで、個人的にイチオシのアンガーリー・ライスちゃん演じるベティは意外な活躍で楽しませてくれる。
そんな中、ピーターの一世一代の告白がかかった旅行を侵食するのがあのニック・フューリー。アベンジャーズ不在の今、彼自身も5年間の空白に困惑し、新たな脅威への備えを盤石とすべく活動している。フューリーはピーターにヒーローとしての在り方を迫る「大人」の立ち位置で、トニーの意図を汲んで新たな力を彼に授ける。ハッピー・ホーガンも同様にトニーの後継者をピーターに求める一方で、彼自身の苦悩にも寄り添う父的な役割を務める。結果が同じでもアプローチの異なる大人二人に見守られながら成長するピーターが、「造る」ことで奮い立つ中盤のシーンは、涙なしには観られない。なお、全年齢向け映画に出演していいのかという疑問さえ浮かぶ、HOTすぎるマリサ・トメイの出演シーンも前作より増量中で、世のお父様方のスパイダーセンスも大満足間違いなしだ。
(以下、本作のネタバレを含む)
MCUフェイズ4は何と闘うのか
本作の大きなサプライズの一つこそ、誰がヴィランなのか、という一点に尽きる。コミックにおけるキャラクターの出自を知れば当然の帰結なのに、本当に驚かされてしまった。予告編でも巧妙に隠蔽されており、このヴィランを巡るギミックそのものに沿って映画を組み立てた印象さえ鑑賞後には抱いてしまう。
本作の騒動の真犯人(と敢えて言うが)はミステリオことクウェンティン・ベック。ベックはかつてスタークの元で働き精巧なホログラム技術を開発するも、公衆の面前でそれを笑い者にされ、そしてスターク亡き今現れた全く新しい悪の姿である。スタークが生み出してしまった悪と対峙するという構図は前作のヴァルチャーにも通じるが、それに加えてベックはミステリオというヒーロー=幻想を、人々が望むままに提供し、のし上がろうとするヴィランなのだ。アベンジャーズの不在に怯える作中の人々の期待に応えるように、彼はホログラムという映像のイリュージョン(「映画」とも置き換えられる)で、人々の心を掴んでいく。
ご承知の通り、本作はMCUフェイズ3の最終章、インフィニティ・サーガの「真の完結編」と銘打たれた一作だ。その重要な一作における宿敵に、サノスのような宇宙からの侵略者や超人的な異種族ではなく、無数のドローンを従えた超能力を持たない一般人をヴィランに据えたことに、言葉に出来ないショックを受けた。ミステリオとエレメンタルズのショーを創り上げたベックのような技術屋たちは、一般的には企業から研究費や開発費を得て、その発明を元手に生計を立てるものだ。つまり、どんなに優れた技術を持っていたとしても、資産を持つ者に認められなければ発明は世に出ることはなく、生活は困窮していく。彼らが創り出したミステリオという幻想は、世間に自分たちのことを認めさせるためのデモンストレーションであり、それによって人々はヒーローという幻想に耽溺できる。需要と供給がマッチしているのだ。なんとクレバーで、恐ろしいのだろう。
しかもミステリオとして活動するときのベックは、モーションキャプチャーのアクターが着けるようなタイツに身を包んでいる。これはおそらく意図的なもので、劇場に駆けつけた大勢の観客に向かって、彼はこう宣言する。「これは作り物で、イリュージョン。だけど、これが観たかったんだろう?」と。
「大衆の欲望に応える」形で肥大化していく悪の姿、それをジェイク・ギレンホールが演じるとなれば、映画ファンなら『ナイトクローラー』が頭に浮かんだはずだ。より過激な写真を求め事故現場を嗅ぎまわり、ついには自作自演にまで踏み込んでいくカメラマンのルイス・ブルームは、危機を演出するためにドローンの火力を上げることを強要するベックの狂気と重なる。承認欲求を満たすために迷惑行為を働く人々の悪行がSNSなどで拡散されていく現代、その究極系を投影したものがベックである、という見方もできるかもしれない。
前述の通り、クウェンティン・ベックがMCUインフィニティ・サーガ最後のヴィランである。そして彼は世界に大きな爆弾を落としてこの世を去っていく。これからも続くMCU、フェイズ4の中核を担う新世代のヒーローたちが闘う相手とは、「ヒーローを騙り、貶める者」のことではないだろうか。優れた能力を持ちながら世間に認められない者、他者と異なるから疎まれている者(X-MENがない世界のミュータントは迫害されるだろう…)、アベンジャーズによる絶対的な正義に異を唱える者が、アベンジャーズ亡き世界の秩序を巡って台頭するかもしれない。まだ見ぬその先のユニバースに、一抹の不穏なバトンを託して、『ファー・フロム・ホーム』は軽やかに幕を閉じた。
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