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【短編小説】ずれ

 筒見雄太つつみゆうたは違和感を覚えた。
 場所は会社のトイレ、個室のなかだった。
 用を足し、ウォシュレットを作動させたとき、とてつもない違和感に襲われたのだ。
 温水シャワーの位置が、微妙にずれている。少し左寄りだ。これでは、目的が達成できない。雄太は身体をずらした。
 こういうものは平均的な位置で設計されているものだから、万人にジャストフィットするものではない。それぐらいのことは雄太も察しがつく。彼が違和感を覚えた理由は、これが、初めてではないからだった。
 二日前、帰宅途中に腹の調子が悪くなり、電車を降りて、駅のトイレを使った。その時も温水シャワーが左にずれていたのだ。そして、今日も……。偶然とはいえない。雄太は不安になった。

 雄太の父は、雄太が高校生のときに亡くなった。内臓の病気だった。
 入院することになったとき、父は笑いながら言った。
 ——トイレの回数が、妙に増えて、おかしいなぁとは思っていたんだが。
 つまりは違和感だったのだ。雄太は朗らかに笑っていた父を思い出す。そのときから違和感は、彼にとって良くないことへのファンファーレになった。
 これが、父のように、なにかの病気の前触れなのかは、正直、雄太には分からない。でも、とても気になる。(誰かが、自分に合わせて調整しただけだろう)と割り切ることは彼にはできなかった。

 それからというもの、雄太にとって〈トイレ巡り〉が日課になった。外出先で用もないのにトイレに入る。ウォシュレット付きの便座があれば(大抵はあった)かならず温水シャワーの位置を確かめた。
その結果は絶望的で、すべてのシャワーが左にずれていたのだった。
ネット検索をした。解決策は見つからなかった。図書館で調べてみたが、福音をもたらしてくれることはなかった。
ウォシュレットが怖くなった。ウォシュレットがついていない自宅のトイレが一番落ち着く場所になってしまった。

 ある日、帰宅途中に、また腹が痛くなり、途中下車する羽目になった。
——そういえば、この駅、前にもトイレのために降りたことがあったっけ。
すべての始まりに戻ってきた、などと、ちょっと感慨深くなる。
 トイレには他に利用者の姿はなく、雄太はそそくさと個室に入った。だが、そこで目にした光景に愕然とした。あまりのショックに腹が痛かったことも忘れてしまった。
 ウォシュレットがついていなかったのだ。三つある個室すべてが、通常の便座だった。
 自分の勘違いだったのか? そんなことはない。すべての始まりだった事柄を間違えるはずなどないじゃないか。
 「ウォシュレットは商品名でして、正式名称は温水洗浄便座、といいます」
 突然話しかけられて、飛び上がるほど驚いた。雄太が振り向くと、男が立っていた。見た目から年齢が判断できない。若いともいえるし、歳を重ねてきたようにも見える。ただ、目だけがぎらぎらと非現実的な光を放っているのが印象的だった。
 「出礼しました。私は清掃員です」
 雄太にはそうは見えなかった。服装は作業着っぽいが、どことなく軍服に似ていなくもない。清掃員なら手袋をしているはず。特にトイレの清掃なら必需品だろう。彼は素手だった。
 「なぜ、ウォシュレットのことを?」雄太は問いかけた。声に出した記憶はない。もしかしたら無意識に言葉を発していたのかもしれないが、怪しい。
 「私の世界では、ここよりも便利な技術が発達していまして、あなたに起きたことはよく分かっていますから」
 ——私の世界? この男、おかしなやつだろうか? 雄太は緊張した。
 男が続けた。
「マルチバースとか平行世界ってご存じですか? 説明が必要ですか? まあ実際に見てもらうのが一番でしょう」
 男は雄太の横を通って、真ん中の個室に入ってドアを閉じた。ほんの数秒で閉まったはずのドアが開いた。中には誰もいなかった。と、左の個室から男が出てきた。まるでSF映画に出てくるような、金属製と思われる甲冑のようなものを身にまとっている。近代的なデザインのそれは、アメコミに出てくるヒーローの、レベルの高いコスプレに見えた。
 「驚かれました? 私がいま行ってきた世界は、エイリアンとの交戦状態が何年も続いていまして。あなたもあのとき、このトイレに入って別の世界へ移動してしまったというわけです」
 雄太は、理解しようと努力した。
 つまり自分は、トイレから別の世界へ移動してしまった。お尻の位置がずれたのはその影響というわけだ。
 雄太は爆笑した。
 もう笑い飛ばすしかない。笑いすぎて涙が出てきた。
 男の目が細くなった。
「面白いですか? あなたなら、ことの重大さを理解してくれると予想していたんですが。大変失礼なことを申し上げますが、お父様から学んだことを忘れてはいませんか?」
 ——違和感は良くないことへのファンファーレ
 雄太は真顔に戻った。違和感を軽視してはいけない。
 「俺はどうすればいい?」
 男は個室を示した。
「どれでもいい。入ってドアを閉めて、二、三秒待つ。ドアを開けて外へ出れば、元の世界です。時間は戻りません」
 雄太は行きかけたが、ふと思い立ち、
「もし、ここにとどまったらどうなる?」
「ここは、あなたがいた世界にとても似ています。双子みたいによく似てる。でも別の世界なんです。いまは、ずれが少ないけれど、少しづつギャップは開いていきます。まあ。それも面白いかもしれませんが」
 雄太は真ん中の個室を選んだ。

(終)

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