「生きながら死んでいく」とは?
おはようございます。
この1年、ずっと胸の奥にあったような気がしている池田晶子さんの言葉。
今の自分のためにnoteに残しておこうかな~と思いました。
生きながら死んでいくのが人生
多くの人は、とくに現代人は、自分を自分だと思い込んで、その自分を主張し続けてその人生を終えますが、そうではなくて、本来は、どこまで自分というものを消してゆけるかが人生なのだ。自分を消して、自分がいなくなれば、当然それは自然とか宇宙の側へと開けてゆくでしょう。生も死も、そこではまあ似たようなものでしょう。そんなふうにして、徐々にあっちの側へ馴染んでゆく、言わば生きながら死んでゆくのが人生の自然なのだ。哲学とは死の学びだと古人は言いましたが、全くその通りだと思います。
『暮らしの哲学』
倫理はどこに生まれるか
こういう科学主義の時代においては、倫理性ということがますます問われるようになってきます。人は絶対不可解ということに気がつくと、おのずから倫理的になるんです。
わからないということを忘れているから、人は横暴になり、傲慢になる。わからなさを前にしたときの謙虚さということ以外に、我々の倫理性というものは発生し得ない。善悪の感覚、畏怖の感情のようなもの、我々の倫理の核はそこに、つまりわからないということに気がつくことにあるんです。
『あたりまえなことばかり』
1番大きな気づき
このnoteに色々な思いを書いてきたけれど、長い長い病みが晴れ、1番変わったことは感謝の気持ちや謙虚さが自然と湧くようになったことだと感じている。
どんなに学んだところで先生や知識が多い先輩や友達にはかなわない。
授業などで新しいことを知れば知るほど、分からないことがどんどん増えて、絶望にも似た気持ちを抱いていた。
「全知全能」の夢が絶対にかなわないことを突き付けられる。
なんて無力なんだろうと思った。
けれど、そもそも「自分」のことすら、自分でよく分からないことだらけなのだ。
まして他者や1000年も前の人や文学作品が分からないのは当たり前を超えてとても自然なことではないか。
孤独、誰にも分からない部分、想像力をどんなに巡らせても入り込むことのできない、それこそ神のみぞ知る領域があると、感覚で知ったことが最も大きな気づきだったと感じている。
無知の知。「分からない」ということが分かる。
だから切り捨てるのではなく、そこから先は思考と想像力をフルに使って最大限分かろうとする努力によって開けていく世界がある。
初めて見えてくることがある。
この世界は、不思議と謎に満ち満ちている。
それらを内包する自然と、人間を比べること自体ナンセンスだ。
「自然」にかなうわけがない。
人間は自然に生かされている存在だから。
同じ土俵に立とうとすること自体、滑稽なことに思える。
今に在ること
やっと学校の勉強に興味が持てるようになった。
邪念のない集中した内と外の行き来ができる状態で、先生の講義を聞くと心地良く感じる。
文章を書くことから始まり、哲学カフェや友達との対話、読書、バイトのコーヒーのハンドドリップ、大学の授業、きちんと今に在る場面が増えてきていると思う。
すべての瞬間、行為に対してその状態で臨めるように、これからも鍛錬していきたい。
動機付けが他者でなくなっただけで本当に生きやすくなった。
評価に怯える必要がないし、自分の内なる欲求、声にしたがった行動をしていれば、〈気分やコンディションに左右される激しい波〉に飲まれることがなくなる。
0か100かではもう生きられない。
コツコツ積み重ねる行為自体を楽しめたら1番いいよね。
それでは!
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