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短編小説集

84
短編小説を挙げています。
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2020年10月の記事一覧

タイムトライアル

タイムトライアル

 目覚まし時計の音が部屋に響いた。布団から出たくない思いを抱きながら、音の鳴る方へと右手を伸ばす。スイッチの感触を感じながら、弱々しい指の力で押す。音が止まり、静まりかえる部屋。眠気眼をこすりながら、止めた時計の時刻を確認する。八時半を少し過ぎた時刻を示す二本の針を見た途端、さっきまでの弱々しさが嘘のように、身体を起こした。
「やべー」
 放った独り言に追いつこうとするように、ベッドから出る。冬の

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栓抜き

栓抜き

「冷た」
 思わぬ声が浴室に響いた。カランの時は温かかったはずなのにシャワーになった瞬間に冷たい水が流れるシャワーの構造を忘れていた。冷水を全身に浴びたことで、毛穴が閉まっていく感覚に思わず声が出てしまった。逃げ場のない狭い閉所で、何もできない姿は、なんだか今の自分を体現しているようで堪えた。
 本来の銀色を浸食する水垢だらけの蛇口を捻り、シャワーを止める。一気に冷え込んだ身体を温めたい思いを抱き

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シーラカンス

シーラカンス

「携帯ラジオ持ってる人、初めて見ました」
 無邪気に言う大学時代の後輩は、一目で結婚式帰りだと分かる格好をしていた。夜も浅い電車内には程よく遊び疲れたカップルや補導の時間とのせめぎ合いをする中高生の姿が目立っている。日曜日ということもあって、スーツ姿は少ない。幹生のように礼服であれどスーツを着ているのは少数派だった。
 同じようにドレス姿も少ない。結婚式会場からほど遠い都会に向かっているからだろう

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一通のメール

一通のメール

 言葉にならないような感情に陥るのは、どうでもいいことばかりを考えてしまうからだろうか。歳を重ねれば重なれるほどに考えることが増えていき、それでいて消化することが難しくなっていく。
 でも学校ではそんなことを黙っていて、夢を持つことを必要以上に強要する。大きければ大きいほど良いとされた夢を。それでいて叶わなかったことに関しては、妥協という使い勝手のいい言葉で誤魔化す。あの頃には気付くはずのない教育

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理想と現実

理想と現実

「いいか、覚えておけよ。おざなりな綺麗事を並べた所で、世の中は不条理で不平等だ。だから覚えておいてほしい。どんな境遇でも、決してブレることのない信念を持て。一つでいい、これからの人生の中でそれを見つられるか、見つけられないかで、お前らが見ることになる景色は大きく変わるからな」
 卒業式を終えた最後のホームルームで担任である日下部が、やけに真剣な表情をしながら口にした言葉は、老舗の中華飯店にある中華

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