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朝日とシーシャ、窓の形をした夏空

最近、朝5時過ぎに勝手に目が覚めることが多い。
下手をしたら3時、4時台に起きてしまうこともある。
もちろん頑張って二度寝をするのだけど、休日なんかはもうそのまま起き出して、朝日が昇って白んでいく空を見ながらシーシャを吸っている。

この記事で「シーシャがあればもっとよかった」と何度も書いてからすぐに4本購入した。残念ながら一番のお気に入りが売り切れだったので、手帳にメモしておいたフレーバーの好み一覧を見て好きだったものを2本と、まだ試したことのないものを2本。
まとめ買いをするとそこそこの出費になるけれど、これでしばらく楽しめるのでいつもまとめて買っている。販売元が実は案外近場ですぐに届くのもありがたい。

今吸っているのはパッションフルーツマンゴー。
なんて夏らしい。
絶対に好きだと思った。甘いのが好みだから。
吸ってみれば名に違わぬ重ための甘いフレーバーがすごく美味しい。そろそろ味も薄くなってきたが、胸のあたりまで深めに吸って吐き出すと「楽しめている」感が強くていい。あんまり深く吸うと咳き込むのでまだ肺に入れるには修行が足りない。
最初は吸い方が分からなくて、いきなり深く吸ったら咳き込みすぎて反射で嘔吐してしまったのを考えれば(汚い話でごめんなさい)、少しずつ上達してきているなあと思う。
でも、今でも大半の場合は口の中でふかしている。舌で甘みを楽しんでからぼわっと蒸気を吐くのが好き。部屋中に香りが広がるのも楽しい。壁紙へのにおい移りもないし。


適度に冷えた室内から、窓の形に切り取られた空を眺めつつ、またシーシャを吸う。合間に冷蔵庫から出したばかりの水を飲むと、喉にシーシャの涼感が残っていているのでひどく冷たく感じてちょっと可笑しい。
そうやってぼんやりシーシャを吸っているうちに空は真っ青な美しい色に変わっていく。薄い雲ができ始めたり、分厚い雲が去っていったり。
夏の空はキラキラしている。思わず外に飛び出したくなるような光を放っている。
――今や、うかつに外出すると危険な季節になってしまったけれど。
カーテンと窓枠に切り取られた空はただただきれいで、何か胸の底を掻きたてられる想いがする。妙な感傷のようなものが去来して、じっと見つめていると泣きたくなるような気さえする。

日が長い季節だから友達といつまでも遊んでいた公園。
3つ年上の兄が運転する自転車の荷台に乗せてもらって、ただ走り回るのが楽しくてたまらなかった夕焼けの日。
お小遣いを握りしめて走っていった駄菓子屋さん。
17時になると町内放送のスピーカーから流れるチャイム。
寝たふりをして親に運んでもらった二段ベッド。
何もない日に着せてもらった浴衣。
まだ扇風機ひとつで十分に暑さが凌げたあの頃。

幼い日を過ごした土地での記憶が、そんな気持ちをわたしにもたらすのかもしれない。
電車も通っていない海辺の町。
わたしの第二の故郷。
長じるにつれて苦い記憶も交じってくるけれど、ただ自由だったあの日を思い出すと、それはほとんど夏の日のような気がしてくる。
楽しかった夏休みがあるからだろうか。
自転車に乗れるようになったのも、たぶん夏のころだった。
やっぱり空がキラキラしていた。
無邪気だった自分を思い出すから泣きたくなるのかもしれない。
苦悩なんて、ほんの些細なものだったころ。

大人になるにつれて自分が嫌いになっていった。
大人になるにつれて人を嫌いになっていった。
社会を、人間を、世界を、嫌いになっていった。
でもあのころは確かに世界中すべてが楽しさであふれていたんだ。
何もかもが新しくて心弾むものだった。
たとえ思い出補正だとしても、そういう時代がわたしにもあったということは覚えておきたい。ずっと。



大人になって、ひとり暮らしをして仮初の自由を手に入れた。
衣食住、何もかもを自分の責任で行うという自由。お金がなくてはあっという間に破綻する綱渡りの自由。
けれど、夏空は今日もきれいなのだ。
複雑な気持ちを今のわたしはシーシャの煙に乗せて吐き出す。
涙は出ない。泣くのは上手くないから。

あんなに泣き虫だったのにね。


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