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おとむらい

彼のいる場に私がいなかったり、私のいる場に彼が来れなかったり、と直接会ったことはない友達の友達。でも友達がよく彼の話をするから、どんな仕事をしていてどこに持ち家があって地元はどこで、みたいなことまで知っている。そんな彼が亡くなった、という話を聞いた。私と同い年の彼。私の友達のとてもいい友達だった彼。

お盆だからか、彼の話を聞いたからか、亡くなった人たちのことを思う日々が続いたので、今年の私の追憶を記す。

父方も母方も、祖父母はみな私の20代でいなくなってしまった。どちらの家も地元にどっしり根づいた暮らしをしていたから、こちらから連絡をしていない人々がたくさんお通夜にもお葬式にもいらして、普段の祖父母の質素な暮らしの背後にはこれほどの人が控えていたのかと感銘を受けた。彼らがいつも心穏やかにどんと構えていた理由の一端が、こういうコミュニティにあるのだなと理解し、そして自分はどうなるのだろうという少し心細い気持ちになったことを思い出す。

30代になってすぐ、かつての上司が出勤中の横浜駅で倒れて亡くなった。既に転職していた私に、今日がお通夜だから来いよと連絡をくれた別の上司には本当に感謝している。
私にとって亡くなった上司は、一緒に仕事をしなければ自分の今の仕事観はなかったと思う人だ。働く喜び、意味、それらの見出し方や、生きることと働くことの折り合いを言葉と行動で伝えてくれた人。
四十九日が終わった後に届いた奥様からのお手紙は今でもお守りのように保管しているし、働くことについてネガティブなことがあった時は、彼のことを、そしてあのお手紙を読むことで気持ちをフラットに戻せていると思う。

母は2人の兄と1人の弟に挟まれているが、その1番上の兄、私の叔父のひとりが亡くなったのも30代だった。
久しぶりに会える従姉妹兄弟どうしとしては盛り上がりたいものの、場面が場面なのでなかなかはしゃげない大人が集まった時間だった。が、結局は南国独特のお葬式マインド(思えば祖母のお通夜も、棺を置いて寝かせた居間は通りに面してオープンなので、通りすがりの近所の人や知り合いが都度あがってきて、お酒を飲んでにこにこ語ってはその場で寝たり帰ったりと刺激的であった)で、お通夜からお葬式までほぼ飲んでいた記憶と、うっすら私と1番歳の近い従兄のスピーチ的なものがあるだけだ。

40代になって最初の訃報は、冒頭の友達の友達だった。
たぶんこの後は、これまでよりもつらい知らせが増えるフェーズに入ると思う。もしかしたら当事者は自分かも知れないし。
結局、今関わる人々に対して全力で挑むことが、あとで後悔しないことにつながるんだろう。そして私は今日もお局か姑のように、ずけずけとものを言い相手からの忌憚ない意見を受け止めるのである。

追記;
親を亡くすのも時間の問題だと思っている。
なので父、母ともに本人が好きな映画やミュージシャン、地域の音楽をミックステープ的に保存していて、彼らの葬儀の時は喪主である権限を行使してそれらを使おうと思っているのだが、自分ひとりになった時に聴くだろうという曲はもう学生の頃からこれに決めている。m-floは本当に天才だと思う。



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