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カフェ、それから一編の小説

通勤路に、さりげなくておしゃれなカフェができた。
大きな通りからちょっと曲がったところにある、案外分かりにくいところ。
ビルの一階のそう広くはないスペース。はっきり見えるような店名は書かれていなくて、小さな立て看板に小さなメニュー表が貼ってある。
全面ガラス張りに白いカーテン、木の扉。木の内装。内照灯は柔らかい夕日の色。
素敵だな、と思いながら通り過ぎていた。

けれど先日、会社の同僚から一冊の短編集を借りた。
伊坂幸太郎、逆ソクラテス。
この本も、そもそも伊坂幸太郎を手にするのも初めてだ。
家でゆっくり読もうと思ったが、雑然とした、集中を削がれる自室でなかなか小説を読む気にならない。
そこで、件のカフェを思い出した。


晴れた日の金曜、出勤する鞄に短編集を忍ばせていく。
そしてさらりと定時で上がり、大きな通りから少し入ってカフェの扉に手をかけた。初めての場所が苦手なわたしにとっては、それなりに勇気が要ることだった。
「こんにちは」と、オーナーに声をかける。たまたま客はわたしひとりだった。好きな席へと言われてまっすぐに壁際のテーブルに着く。
スマホと文庫本をテーブルの端に置いて、可愛らしいメニュー表から、悩みに悩んで注文をした。
焼きりんごと紅茶のカスタード、それから、オレンジと金木犀のお茶。
なんて素敵なメニューだろう。
こんなのどこでも見たことがない。すごくわくわくした。

カフェでどう過ごすかは客の自由だ。お店の迷惑にならない限りは。
わたしは少し緊張しながら文庫本を手に取って、慣れた風を装ってページを開いた。知らない男の生活の様相と、少年時代の回想が始まる。
さらさらとした読み心地の文体はカフェのオレンジ色の照明とよく合った。
物語のさわりのあたりでお茶が供されてくる。透き通ったきれいな色と金木犀の淡い香り。本にしおりを挟んでガラスのティーカップを口に運ぶと、オレンジの爽やかさに金木犀の香りが相まって美味しかった。
これなら、カフェインにアレルギーのある友人も飲めるかもしれない。
そんなことを考えながら、また本を手に取る。

本のページをめくる音と感触が好きだ。文庫本の紙の手触りも。
お茶を飲みながら読み進めた。男の中に残った同級生の記憶。わたしがほとんど手にしてこなかった、現代を生きるひとりの人間の物語だ。

しばらくすると、いい匂いとともに焼きりんごがやってきた。
ごゆっくり、と言ってオーナーは再びカウンターの内側へ。
きれいな焼き目のついた丸ごとのりんご。散らされた柘榴の実。白いクリーム状のものが添えてあって、それがカスタードかと思ったら違った。水切りヨーグルトだ。
柔らかい表面にナイフを入れると、カスタードはくり抜いた芯の部分に入っていた。しっかりと感じられる紅茶の風味。甘味とほのかな酸味が美味しい焼き立てのりんご。温かくて優しくて美味しい。
少しずつ味わいながら食べ、フォークを置いて本の続きを読み、本を置いてお茶を飲んではりんごを食べる。
食べながら本を読むのは行儀が悪いかなと思いもしたけれど、ひとりで食べるときには早食いの癖がついてしまったわたしには、味わいながらゆっくり食べるためにも合間に挟む文字の羅列はちょうどよかった。
途中でひとりの女性が来店して、客はふたりになった。音楽が流れている以外にはとても静かで心地のいいまま。

ヨーグルトのソースまで食べ終えて、少し残しておいたお茶を飲みながら短編は終わりに向かっていく。じんわりと胸に柔らかく棘を残す、人生の話だと思った。どういう道をゆくのかは子供時代には想像もできない。でも、誰しも生きている。


一編を読み終え、お茶を飲み干したころには、女性客はすでに退店していた。客はまたわたしひとり。
しおりを挟み本を閉じる。
余韻がふわふわと心を包んだ状態で身支度をして、レジへ向かった。
お値段がなんだか安くて驚く。そういえば注文するときには金額を見なかった。美味しかったと伝えたかったけれどその勇気は出せないまま支払いをして、「ごちそうさまでした」といつも言う言葉を置いて店を出た。
外は寒い。でも気持ちがいい。
素敵な時間を過ごした、そういう時間を自ら手にしたという、確かな満足感があった。


お茶とお菓子、一編の短い小説。
静かなオーナーの声。
借りた本を返すのは遅くなってしまうけれど、これからも晴れた金曜にはこの本を持ってあのカフェに行こうと思っている。

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