BAR自宅、ジンバック
バーには黒猫がいる。
テーブルの向こう側に座る、真っ黒ツヤツヤの毛並みと金色の目、くたくたのやわらかい体が自慢の、ねこが。
何やら見慣れぬボトルが、白いテーブルに座していた。
透明なガラスに透明な液体。透けるラベルには和風の柄。
宅配で受け取った箱入りのそれをテーブルにドンと置いて、彼女はうきうきと風呂に入りに行った。
適当なTシャツにジャージを履いた彼女が部屋に戻ってきたとき、その手にはジンジャーエールとロック氷の袋が握られていた。製氷皿を製氷皿として使わない彼女の冷凍庫には普段氷がない。わざわざ買ってきたのだろう。大ぶりなグラスを用意して、例のボトルを手にするバーメイドは、猫に向かってゆらゆらとそれを見せびらかした。
「きれいでしょう。和ジンです」
手前のラベルに描かれた桜と、裏側のラベルに描かれた風景とが、ガラスとアルコールを透かしてゆらりと揺れる。洒落たボトルだった。
何かいいことでも?と猫は聞く。それともお祝いか何かあっただろうか。
「会社の夏ギフトにあったから、自分用に買っちゃった。なんたって……ふふ、ボーナスが出ましたからね~」
ひと月前の喜びをまだ引きずっているらしい。
まあ年にたった二度の楽しみだ。懐が潤っている状態というのは嬉しいものだろう。猫は鷹揚に頷いた。
彼女は慣れないボトルにもたもたとしながら封を切り、両手で大事そうに持ち上げてグラスに注ぎかけ、寸でのところで口を上げる。
「おっと危ない」
一度ボトルを置くと、手際の悪いバーメイドは氷の袋を持ち上げた。ガラガラとグラスの半分ほどまでを氷で埋め、それから再度ジンを手に取る。真剣にジンの量を見定めながらそっと傾けるボトルの口からは、いつもの美しい音は聞こえない。
計量器を使えばいいだろうに、と黒猫は思ったが、マスターは一応、彼女のやり方には口を出さない方針だ。
およそ三センチ程度の量を注ぎ終えると、次はよく冷えたジンジャーエールを上から満たす。軽くステアすれば、簡易版のジンバックの完成だった。……レモンジュースは買ってこなかったようなので。レモンがなければあの独特の味わいにはならないと思うのだが、まあ文句を言うような客もいない。
客の彼女はジンが好きなのだ。居酒屋に行けば「とりあえずジン」という。中でもお気に入りがジンバックなのだが、ジンジャーエールで割っただけのものをジンバックと言い張って出されても、喜んで飲むだろう。
冷やされて雫をつけたグラスをコースターに置いて定位置に据え、ごそごそとナッツとジャーキーを小皿に並べれば、今夜のセッティングは完成だ。
ライトを間接照明だけにして、彼女はスツールに腰を下ろす。
いただきますと手を合わせる、バーにはやや不似合いな、けれど格好的にはお似合いの挨拶とともに、まずはジャーキーに手を伸ばした。硬くて脂っぽくて旨味の詰まった肉をぎゅむぎゅむと噛んで、幸せを味わう。
そうやっていくらかつまみを腹に収めてから、いよいよ簡易ジンバックをぐっと飲んだ。
「っあー……美味しい」
やはり彼女は文句は言わない。
良いジンと、お気に入りのジンジャーエールだけで、十分に幸福なのだ。
塩気、油気のあるつまみの味をジンバックでさっぱりと流し込む。実に良い味わいだ。
薄まった分をまたステアして、くいくいと一杯目を開けてしまった。
氷でキンと冷えたアルコールは酔いが来るのが遅い。
二杯目を作り始めるバーメイドの手元を見ていると、どうも一杯目よりジンの量が多いようだ。客を酔わせるつもりらしい。客はそれを喜ぶのだからどうしようもない。
止める者もなく、彼女はぐいぐいと杯を重ねた。黒猫はちょっと心配である。
なんたって飼い主ときたら、酒好きのくせに弱いのだ。
くらくら、ふわふわ。そういう表現がぴったりの、彼女の酔い方。
覚束ない手つきでスマートフォンから音楽を引っ張り出して、グラスを片手にあれこれつけたり消したり。
楽しいのなら何よりだ。だが少々、酔いも激しい。
嫌なことがあってのやけ酒ならば止めもしよう。が、彼女はただ純粋に酔うことを楽しんでいる。明日が休みだからと飲みすぎるのは自由だが、二日酔いが曲者なのだ。あーあー、まったく。
またベッドで呻く羽目になっても知らないよ。
楽しい酔っぱらいの楽しい夜は、黒猫のため息とともに更けていった。
ここは週末開業のBAR自宅。マスターは真っ黒猫のぬいぐるみ。
バーメイドは彼女ひとり。
客もいつも彼女ひとり。
ちょっと飲みすぎたところで追い返される心配もないBAR自宅。
今週も、お疲れさまでした。
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