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「スーツ=軍服⁉」改訂版 第46回

『スーツ=軍服!?』(改訂版)連載46回 辻元よしふみ、辻元玲子

戦争が生んだ腕時計と短いスカート

一八五〇年代のクリミア戦争は、まさに世界戦争の前哨戦であったが、時代が下って一九一四年、今度はドイツやオーストリアも巻き込んで始まったのが第一次大戦で、当初の参戦国も構図もクリミア戦争と似ていた。開戦時にはあんな大戦争になるとは誰も想像していなかった。ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世など、せいぜい年末のクリスマスまでには終わる局地戦争と思っていたし、対する英国などでも、久々にいくさだ、という感じで軽いピクニック気分であった、という記録がたくさん残っている。徴兵された兵士たちはまだまだ、一九世紀後半に登場したダイナマイト、機関銃、それにこれから出てくる飛行機、戦車、潜水艦に毒ガス、といった近代兵器の威力を知らなかったのだから仕方がない。いや、専門家の職業軍人でも先が読めていなかったという。
最近の紛争の例を見ていても分かるが、なんとなく事態を過小評価し、軽い気分で戦争を起こす無責任な為政者というものが、いつの時代にもいるものである。
機関銃の発達で、勇ましく突撃、なんてことができなくなった敵味方の兵士は、深く掘った塹壕(トレンチ)に潜んでじっと敵の様子をうかがう、という地味な戦いを強いられた。じめじめした穴には水が溜まり、冬場となると冷たい雨がじめじめとしみて、とてもではないが我慢できない環境であったという。
こんな塹壕で我慢していたくない、なんとかしろ、という声から生まれたものの一つが、機関銃をものともせずに前進する戦車であった。まことに面白いことに、これを産んだきっかけは英国の当時の海軍大臣(!)ウィンストン・チャーチルが組織した「陸上軍艦」開発委員会だというから不思議である。そんな由来だったから、初期の戦車は海軍式で、帆船時代の軍艦のように、車体の左右に大砲を突き出していた。秘密兵器だった戦車はデビュー前には暗号で呼ばれていた。つまり水槽=タンクである。たまたま試作品がドイツのスパイに見つかっても「ああ、あれは水を運ぶタンクだ」とごまかしたのである。これがそのまま英語では戦車を表す単語になってしまった。
今の戦車のように、車体の上に回転砲塔を載せる式になったのがフランスのルノーFT17戦車。ルノー社は普通の自動車メーカーだったから、民間用自動車の設計を応用し、車の屋根の上に大砲を載せる、という斬新なアイデアを思いついた。その時代の先端を行くスタイルのカッコよさにしびれたパリの宝石ブランド、カルティエがルノー戦車の車体上面図を意識して作った四角いケースの時計が、今に残る高級時計「カルティエ・タンク」である。さらにキャタピラから、腕時計用の金属製ブレスレットも考案したという。ルノー戦車がいかに革新的な設計だったかを知らないと、あの腕時計を見ても、なんでそんな命名をしたのか理解できない。
塹壕を飛び出して一斉突撃、というために必要になったのが、その腕時計である。いちいちポケットから懐中時計など取り出す余裕がこの時代の戦場にはなかった。銃を構えたまま、ちら、と時間が分かるような時計が必要だった。パテック・フィリップ、オーデマ・ピゲ、ロレックスなど、錚々たる高級時計会社が、この時代に軍用時計を軍に納入して大きくなっている。過酷な環境でも絶対に狂わない時計、ゆえに軍隊でも制式品だった、というのがそういう会社にとってもステータスだった。
さらに余談となるが、女性がロングスカートを捨てて短いスカートを纏うようになったきっかけも第一次大戦である。それまで女性たる者は、何百年にもわたって、脚をちらりとも見せてはならないものであった。一部の女性運動家は、いろいろな服装を考案していた。たとえばブルマーのような運動着とか、タンクトップのような露出の多い水着である。しかし、全体としてそういう服装は、はしたないものであったし、一般に定着することもなかった。
だが、ドイツのツェッペリン飛行船がロンドンを空襲する時代を迎え、民間人は戦争に無関係、と言っていられない時代となった。爆弾が降り注ぐ中、優雅なくるぶしまで隠れるロングドレスなど着ていられるはずもない。
国家総力戦、という言葉が流行し、女性が出征した男性に代わって運転士や工場の仕事に進出、さらに軍の補助隊員として入隊する女性も現れ、女性用の軍服も登場。わずか数年の間に、絶対に脚を他人に見せなかった淑女たちは当然のように膝丈のスカートを着用、戦地から帰還してきた男たちは、その変化に唖然としたのだった。
女性たちが、ドレスを放棄して、いわゆるスーツのような「男装」を始め、パンツ姿を普通にするようになるには、さらに第二次大戦を経なければならない。

軍用コートに不可欠な「肩章」

さて、その第一次大戦で登場したアクアスキュータムやバーバリーの防水コートが、「トレンチ・コート」(塹壕外套)の名でますます名声を得たことはすでに書いた。そして、大戦以後は、民間の紳士服として、ややカジュアルな場面でのおしゃれコートとして定着する。
これも先に書いたが、トレンチは制式品のウールのコートとは別に買うべきものであり、将校のオプションの制服の一つであった。そもそも将校は昔からどこの国でも、制服は支給品でなくて自分で買いそろえるものであった。下士官兵は国の支給品なので、はっきり言って身体にもあわず、少々格好悪くとも文句は言えず、それも新品が回ってくるのは近衛兵やエリート部隊で、普通の兵士は中古品を着るのが普通であった。旧日本軍も、上着の内側に歴代の着用者の名前が列記できる名札を付けていた。しかし、将校は普通、注文あつらえで、欧米のテーラーの仕立て技術も、特にナポレオンの時代以後は将校たちの注文に応じることで向上したものである。
将校の制服、そして軍人のドレスコードが、紳士のドレスコードの基本にあるといわれるのも、つまりはそれが原因である。
軍用の最大の名残が、両肩についているショルダー・ストラップ、日本では一般に「肩章」と称するもので、双眼鏡や、ベルトをつるすサスペンダー通しとして、軍服の肩にはストラップが不可欠であった。これも先述の通り、開戦時はついておらず、開戦の翌年になってから追加で取り付けられるようになった。
軍服の場合、軍人の階級を表す階級章を、肩章か、襟章として着けることが多く、下士官以下は袖章、また海軍将校の場合は腕につける金色の線で表すことが多い。陸軍将校は肩のストラップに階級章をつけるパターンが多い。イギリス陸軍も十九世紀までは肩章で階級を示していたが、二十世紀に入ってからは、袖口に階級を示すラインをつける方式を取っていた。だが、この原則はトレンチ・コートの肩章に階級章をつけ始めると崩れ、戦争末期には通常の軍服でも、肩章に階級章を付けるように改められる。第一次大戦後は、袖の階級線は廃止された。
トレンチ・コートが大戦後に民間用コートとして人気を得たため、肩章というものも民間の衣服にごく普通に用いられるようになった。今ではカジュアル衣料の重要なディテールの一つといえるだろう。
アクアスキュータムは一九九〇年、日本のレナウンに買収され、二〇一二年まで傘下にあった後、同年四月に売却された。
ところで、これも不思議な縁だが、レナウンという会社の社名は、一九二二年に日本に来航した英海軍の巡洋戦艦HMSレナウンから取ったという。
「巡洋戦艦」というのは戦史に詳しくない人には耳慣れない言葉と思うが、戦艦のように巨大な大砲と、巡洋艦のような高速を併せ持つ軍艦のことで、第二次大戦の劈頭、英海軍ではフッド、レパルス、レナウンの三隻が睨みをきかせていた。フッドはドイツ戦艦ビスマルクに撃沈され、レパルスはインド洋で日本海軍の航空隊に雷撃で仕留められた。一九四五年の終戦まで生き残った幸運な艦がレナウンである。また、レナウン傘下のブランド、ダーバンは、一九二二年にHMSレナウンに随伴してきた軽巡洋艦HMSダーバンの名からとった、という。もともと英海軍好きな会社だったわけである。
巡戦レナウンの日本訪問から約一世紀後の二〇二〇年初冬、レナウンは新型コロナ・ウイルスの流行のあおりを受けて経営破綻した。ダーバンやアーノルド・パーマーなど、傘下のブランドの多くは、他社に譲渡されて存続する模様である。


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