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歳をとる毎に生きやすくなって

また年が明けた。2023年。
20代半ばに差し掛かった。最近、本当に色々なことを忘れていくのを実感する。死にたいほど辛かった事とか、大切な人に裏切られたこととか、悪意なく裏切ってしまったこととか、もう二度と恋なんて出来ないと思う程の失恋とか。あったはずなのに、確かにあったはずなのに、どんどんぽろぽろ零れ落ちていく。

先日、久しぶりに高校時代の恩師に会った。
当時のことを憂いたら、「もうそろそろ乗り越えなさい」と励みを頂いた。
その通りかもしれない。でも先生、私、本当に乗り越えてしまっていいんでしょうか。乗り越えてしまったら、それはいつか忘れてしまいませんか。だったら、この胸中に苦しみや後悔として残しておいた方が良いのではないですか。

明日が来るのが酷く恐ろしかったあの頃、くるまった布団の中で震えながら、吐いた息をまた吸って、なんとか生き長らえていた。目から溢れる熱だけが私を肯定してくれた。

一瞬一瞬を生きるのがあれほど命懸けだったのに、今の私はなんだろう。当たり前に毎日仕事をして、当たり前にご飯を食べて、苦悩なんて何も感じず、布団にくるまればすぐに柔らかな眠りに誘われて。
これが平凡か。これが満ちているってことなのか。こんなに楽な呼吸を、かつてあれほど切望していたけれど、吐く息が透明なんだ。何も無い。なんの色もない。当たり前の明日を疑わない。私は明日が今日と同じように、悲しいくらい平穏だと知っている。

これが大人になるってことなのかな。楽に生きる術を身につけることが。私があれほど欲した解放って、こういうことだったのかな。

でも、私はあの頃に断崖から見上げた空の、あの青さ以上に綺麗な色を知らない。眠れなくて街を散歩した時の夜風の匂いとか、夜明けの朧な優しさとか、あの頃の私は知っていた。閑散とした早朝の繁華街。撒き散らされた酒の空き缶にすら、人間の鬱屈した気配を感じて愛しさすら覚えた。遠くの山々のひばりの囀りとだって、会話ができた。そういうものが見える人間だった。
今はもう、路傍にぽつんと咲く雑草みたいな花の一輪に目を奪われたりもしない。そういう瞬間、私は確かに、世界の正解を見つけたはずだったのに。

美しいものを見る目があったから、耳があったから、美しいものを描けた。私は私の描くものが好きだった。
今はもう、あれほど純度の高いものを描けない。日々消えていく記憶を辿るようにして紡ぐ、残滓のようなものしか。
それでも絞るようにして生み出さなければならない。生み出すものが何もないのも、生み出せないことも、生み出さないことも、同じように苦しい。私は私の何もかもを忘れたくない。

けれどきっと、忘れたくないと思うこの気持ちすらいつか忘れてしまう。私はその時ものうのうと息をしているんだろうか。しているんだろう。なぜなら呼吸をすることは楽だから。私が私じゃ無くなっても、多分私は生きている。悲しいけれど、きっとそうなのだろう。



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