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【考察】終わりが〈ある〉コンテンツと〈ない〉コンテンツの可視的な分断、令和における私的エンターテインメント論

 ※正月休みに酒を飲んでいるときにふと思いついた内容なので支離滅裂∧かなり自己本位な内容です。それを十二分に留意して、お読みください。

 
 令和のご時世、大雑把にコンテンツは二つに分けられると思う。

 ①終わりが<ある>コンテンツと、
 ②<ない>コンテンツだ。

  ここでの「終わり」に、明確な定義を敷くことは難しい。というか半ば不可能だ。だから、最初に言っておくと、本記事での〈終わり〉とは、一度金を払えば(一度視聴すれば)終わるか、即ち、買い切りタイプか否か、という点になるべく絞りたい。

 最初に例を挙げて具体化してみよう。 


〈ある〉……本、漫画(単行本)、映画、ゲーム、CD、DVD(ブルーレイ)

〈ない〉……漫画(連載)、ソシャゲ、MMORPG、youtube(vtuber)、日常もの作品(一部)、推しビジネス、ライブイベント、インターネット全般

 まあ、ここでの定義は私の主観というか乱暴な区切りに過ぎない。現に、〈ない〉もの……にしたってサ終や打ち切り、活動休止などに要因から一定の区切りをつけることは可能であろうし、厳格な定義づけは難しい。まあ、今この瞬間、半ば永遠に続くように思えるか否か、とでも思って欲しい。アイマスとかポケモンとか某鼠とか多分あと四半世紀は確実を上回って生き残るでしょう。

 なお、この分類に対し、いつか全ては滅び去るのから全部終わる、あるいはもっと病的にいつか地球が滅びるのだから全部<ない>も同然だとか、終わり〈ある〉に等しいとか揚げ足取りをする方は多分読解力が著しくないと思うのでこの先は読まない方が良いと思う。switchで旬のゲームでもするかvtuberに投げ銭でもしといてください。

 煽りはここまでにするとして、この問題……<ある>ー<ない>の分断は割と深刻だ。〈ある〉とした買い切り型のゲームにしたって、DLCや続編で更なる金儲けを目論むことは可能であろうし、そもそもどこまでを境界sとするかは個人が勝手に決めていいものでもない。もっと言うのならばこれらの境界線は曖昧になってきていると感じる。

 未完、という形で終わる作品や、半ば半永久的に生きながらえたり縮小劣化コピーやより大衆化した一般的な娯楽がこれから先の未来にも誕生する可能性があることを考え見れば(先見の明があることを証明したいので預言しておく、十年以内、早ければ五年以内に完全アバターでのメタバースSNSのような出会い系のような何かが生まれる(てかこれ半ばTwitterでは))。

 さて、勘の良い方ならばもう何に言及したいのかがわかるだろう。

 終わりが<ある>コンテンツと<ない>コンテンツ、この令和のご時世、どちらに軍配が上がるか語るまでもない事であろう。というか観れば判る。

 終わりがないコンテンツ、過剰供給されるエンタメは今や一つ楽園となった。SNSを繰るだけでも無際限に時間を潰せるし、アニメや漫画は正直言って粗製濫造だし、webで無限に等しく配信されてるしなんなら割れサイトが未だに息づいているし(割れサイトを見ない事、良識ある人間としての最低限の節度だと思います、いや本当にマジで)、なんならnoteだけでもいくらでも他人の人生をそれが本当か虚構かは置いといて覗き見できるし、時間の浪費に困ることはない。もっと単純に、ソシャゲは半ば飽和的にいくらでも出来るし、vtuber(恥ずかしながらほとんど見たことがないので想像です)にはいくらでも投げ銭できるし、もういくらでも暇つぶしできる、暇に潰されるほどだ、逆に。

 終わりが<ない>コンテンツは本当に怖いなと思う。節度があるか否か、楽しみ方にも依るのだろうが、昨今はゲーム依存症なども増えたと聞く。終わらないがゆえに、いくらでも現実逃避もとい虚構に逃避できるようになってしまえば、一種のドラッグと大差がないのではないかと思う。

 コンテンツの消費速度が速い、今や娯楽は消耗品だみたいな言説も最近観るような気がするのだけれど、それは今に始まったことではないと私は思う。そもそもコンテンツは消費されるものだし。そう、それ自体は。問題はその消費形態というか、伝達媒体なのではないか。スマホが広く普及し、より広範に簡単にアクセスしやすくなった云々とか阿保でも解ることを言いたいのではない。大体ネットが本当に必要な人間はたとえ接続するのがどんなに困難だったとしても接続するだろう。テレホーダイ? とか? 多分まだ生まれていないから知らんけどさ。
 
 つまりは、終わりがない故に、コンテンツの質がどんどん劣化、ならいい方で、「今位のクオリティで作っておけばいいかぁ~~」みたいな態度が平然とまかり通るのではないかという懸念だ。正直、なんかこの先も粗製濫造とか数うちゃ当たる戦法で「対して面白くもないけどなんか売れる」みたいな作品は増えるのでhないか、そして消費者はそれに踊らされつづけ片棒を肩がされるづけると私は大胆でも何でもなく予想する。(因みに角が立つのは承知で言うが、鬼(ryも呪(ryも読んでない。逆張りとかでなく、五年後くらいに読んだ方が楽しそうだから今は読まない)。

 具体的な作品名を挙げるのは憚れるから言わないけど、特に長寿タイトルに冠してはこの傾向はより強まるのではないかと思う。一定のファンが既についているのならば少しばかり足元を見ても盲目な信者は絶賛するか、批判しても逆説的に話題になるだけなのだから。ハロー効果じゃないけど、何か知らんけど(原因分析できないけれど)何故か勝手に評価されるみたいな。”隠れた名作”なんてものは淘汰され、<今ある>売れている者だけが価値を得るみたいな疑似的ディストピア。

 ちゃんと評価されているのならいい。

 でも。誰一人としてよく分からないのに売れるとかも受けられるとかなったら末期だな、と、よく「クリエーターのSNSは見るな」とかいうけど、ネットでイキリ倒している子供時代満たされなかった人とかの自慢話ならまだしも、ネットとかに適当にあげた作品でも割合に評価されてしまう今、この傾向はむしろ危険そのものではないだろうか。

 評価される層が増え枠が広くなったと好意的に感じ取る向きもあるかもしれないが、私には粗製濫造というか、謎の創作クラスタ擬きがただ「評価くれ」「感想ヨコセ」と有象無象の盲者がわめきたてているような、地獄のような光景を幻視してしまう。というか現視してしまう(型月信者が喜びそうな言い回し)。 

 過剰なまでに露悪な言い回しかもしれないけど、ネット小説界隈とかは露骨にそんな感じがする。狭い界隈での村づくりというかコミュニケーションとも言えないほどの浅ましい馴れ合いによる救われない相互評価の温床というか。
 
 そろそろ険悪になりかねないのでやめましょうか。ちょっとネットに毒され過ぎた。節度を保ってやる分には良いと思います。ただ創作クラスタ(この言い回しが既にこの上なくキモい)はちょっと評価に上杉だ。評価されるために書いているわけではないでしょうに。

 話がわき道にそれ過ぎたので戻すと、この<終わりなき>コンテンツに埋没する、し続けることができる現在は果たして幸福なのかという視点で論を薦めたい。

 まあ、薄々感づいているとは思うけれども、私は、はっきし言って不幸しか生まないと思う。末期症状だと思う。程度の過ぎた逃避が生む結果は逃避元の喪失というか現実の喪失でしかない、それ以上でもそれ以下でもない。

 ムゲンの逃避行動が、パチンコに代わってソシャゲやvtuber、<終わらない>コンテンツに時間を溶かし続けることを完全に「是」とするには、流石にあたんが固すぎるのかもしれないけれど、全く以て賛成できない。

 かつて、〈終わりなき日常を生きろ〉とかなんとか、まあ詳しく読んではいないのだけれど、最早大きな社会問題や事件、「大きな物語」など怒らず、平凡で平板で退屈な日常を生きるしか的なない的な、逆説的な終末論じみた思想があったらしいけれども、円光だかギャルゲだかよくわからないが、終末とか以前になんかもう、死の恐怖とかよりよい性の快楽とか以前に、そういったことすら感じずにただ半ば脳死に快楽を満たすというか次から次へと供給っされるコンテンツを<みんなが見てるから><今流行ってるから>みたいな理由で視聴……いや、多分倍速化したりしてみているだろうから、多分そんな言葉を使うのも烏滸がましい、ただ眺めているのは、本当に異常というか滑稽というか、なんかもう本当にそれでいいのかよと思う。

 青学の学生になんで映画を倍速で観るの~~? みたいな質問をしてみました~~的な記事を先日どこかで観たのだけれど、多分、なんかそういう質問をしなければ行けない時点でもう末期通り越しているんだと思う現状は

 ……どうなってしまうのだろうか。
  
 ネット小説界隈に一時帰属していた(大して慣れ合ったり読みあったりとかはしてないけど)身として、是非この記事を読んでいる暇人さんに紹介したい単語がある。

 エタる、という言葉だ。ネットスラングか? 知ってます?

 この言葉がどこまで知名度あるのか知らないけれど、端的に説明すると、「連載作品が終わらないまま長い時間が経過してしまうこと」……引いては、未完のまま引き伸ばされ続けること、みたいな意味だ。

 |エターナる<eternal>、から掛けた造語だそうだ。誰が提唱したのか知らないけれど、下らんが上手い掛詞だとは思う。

 責任の放棄というか、完結の放擲。束の間の夢さえ見せられればそれでいい、冒頭で引き込めればそれでいい、後は勝手にしろ的な不気味なまでの責任感のなさ。

 綺麗に終わらせることが、至上命題だといいたいのではない。ネット小説は趣味で書くものだし、まあ飽きるなり評価が得られなくて不貞腐れるなりして未完に終わっても、まあ致し方ないというものだろう。

 けれど、終わることは一つの安寧でもある。終わる、ということはコンテンツの、作品の全容が大まかにでも「分かる」、と言うことに繋がる。

 私の好きな小説作品『空の境界』に人類(世界)を滅ぼす"巨悪"として登場する悪役にこんなセリフがある。滅茶苦茶好きとか通り越して半ば信仰している作品なのだか、せっかくなので引用してみる。

人間は救われない。世界に救いなどない。だから死を記録しようと思った。物事の最後までを記録して、世界の終わりまでを記録して、一から最後までを検分する。その上でなら、一体何が幸せだったのか判別がつくだろう。
                    

空の境界五章矛盾螺旋

 終わった時に初めてわかる、というか、判る。判定が出来るという点で、終わるコンテンツは、終わりが<ある>コンテンツは優れていると言える。完結した漫画を「あれの終わりはクソだった」とか「無難だけどいい終わり方だった」とか好き勝手に評せるのは、それが偏に「終わっている」からなのだ。

 長いのでそろそろ纏めに入る。もともと気まぐれで書き始めた記事だし。 

「コンテンツ」は巨大化し、というか全容を容易に把握できないほどに肥大化していると思う。素人目にも。GAFAとかの巨大企業とかは言わずもがな、コンテンツの過剰供給とそれに伴う急速な消費はもう誰にも止められない、ところまで行ってしまっているのではなかろうか。気付いたときにはもう既に遅い、という感じがするけれども、「供給量が多い」→「今までの速度では消費できない」→「消費のペースを速めるしかない」という論の流れは、合理的といえば合理的だしあながち間違ってはいないと思う。

 アイドルマスターにしたってポケモンにしたって(私の主観入ってます)、某鼠にしたって、全容を把握している熱烈なファンはどれだけいるのだろうか。

 勿論、持てる時間の全てを使えば全作品を負ったり所有したりすることは不可能ではないと思う。だが、人が人である限り、コンテンツのすべてをリアルタイムで生々しく記録することは最早敵わないはずだ。 

 アイドルとか女優とか得体のしれない中身のヴァーチャル存在を負うにしても同じだ。対象が一つならまだしも、複数ならその全てを同時進行に負うことなど不可能に近い。
 
 てか、その人たちの半ば奴隷にでもならないと不可能だろう。好きなだけ搾取され続け、その自分に存在意義を見出していくほかない。キャバ嬢と太客も吃驚の凄まじいまでの一方的な偏った関係の出来上がりである。

 こうしていると捻くれた人間だが、私がこういう見方をするのは現代の推しビジネスに全くついて行けないからかもしれない。以前そのようなことを呟いたら聡明なフォロワーの方から、「それはあなたが創作者側だからだ、受け手側はそもそもグッズ買ったり推したりで満足している」との意見を貰った。なるほど、と腑に落ちた。そして本記事で標榜する失望というか絶望はより深くなった。受けてはそもそもまともにこの問題を考えたことはないのだと、そう断ずるしかないからだ。いや、薄々感じ取っていても、有耶無耶にするかより深い方に嵌ってしまうのだろう。

 元々アイマスp引退がどうこう記事↓で声優とかの中の人問題を書いたこと

 もあって、つくづく自分は推しビジネス的なものに興味ないのだと悟った。厨房のころ皆がA〇Bに夢中になってる時も「どんなに貢いでも付き合えるわけでも抱けるわけでもなしなんでそんな一生懸命なんだろ」とか醒めて思っていたし、ここまで行くと、過去の自分、|理解<わか>ってんじゃん……(意図的に痛々しい書き方をしています)とすら思う。どんだけ興味ないんだよ。

 まあ、世間の潮流がどうあれ、私は配信の垂れ流しや脳死のソシャゲに貢ぐよりかは、ちゃんと〈終わる〉コンテンツの方へ気を向けていきたい。終わりは絶望ではなく、寧ろ希望だ。作品も、思い出も、恋愛も、受験も、その他諸々エトセトラは、いつか終わるからこそ、喜びを持って迎えられるのだから。



 度数11くらいのワインを4~5杯飲みつつ拵えた駄文に乾杯(完敗)……!

 

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