宗教にだまされるな!教会に毎週通った思い出の記録
今、カルト教団が話題である。何でも安倍元首相を殺害した犯人は、親が世界平和統一家庭連合(旧称・統一教会)にのめり込み、それが原因で家庭が崩壊したのだという。
この団体が、どういったものなのか、他の宗教団体はどうなのか、などという大文字のテーマは、優れたジャーナリストや、脱カルトを支援する弁護士の先生方にお任せしたい。
宗教的なものへの、激しい忌避感
あなたがメインストリームを生きる日本人としよう、この社会において、宗教に勧誘してくる人間ほど疎ましい存在はいない。選挙のたびに家にやってくる近所のおばさんや、繁華街を歩いているとひたすら声をかけてくる団体など、ドラクエにでてくるスライムのようなものであり、いっそのことマップ兵器(コロニーレーザーなんかが望ましい)で焼き払いたいものである。
そして、世の中は大変広い、中東やらアフリカでは日夜、彼らの神様マターで永遠にも等しい戦争が行われている、そんなイメージをお持ちではなかろうか。「宗教なんて、まるで麻薬みたいなもんだ」そういう発言を耳にしたことは、一度どころでは無いだろう。
大真面目に、教会に毎週日曜日通った話
場所はスポーカン、アメリカのワシントン州の田舎町だ。わたしは2ヶ月ほどそちらにホームステイすることになったのだ。ワシントンといえば、ホワイトハウスなどと言わないで欲しい、それはリベラルと意識の高い官僚達がひしめく偽のアメリカであり、本当のアメリカのワシントンはこちらである。
夏の間、そこでわたしは英語の授業を受けることになった。外人向け英語クラスなんぞ死んでも受けないと決意したわたしは、上の地図にあるスポーカン・コミュニティカレッジ(以下、コミカレ)でアメリカ人向け英作文クラス(初級)を受けることにしたのだ。
ホストファミリーは、田舎のアメリカ人の標準的な、日本的には馬鹿でかい家に住む、敬虔なクリスチャンのご夫妻であった、娘たちも結婚し、家を出た後、留学生を受け入れているのだという。
「教会にいってみるかい?」
こちらのスポーカン市(発音はスポケーンだが、地図に合わせる)、よく言えば美しい自然に満ちた町であり、ようするにとてつもない田舎である。(パソコンが壊れて写真が消えて残っていないのが、とても残念だ)移動手段がお借りしていた自転車と、とても本数の少ないバスしかない以上、出歩く先も限られる。
そんな状況で、少しでも物事を見て回りたいという欲求のある人間であれば、誘いに乗るほか無い。ご夫妻はとても礼儀正しい方であり、宗教の無理強いととられないよう、かなり慇懃丁寧に聞いてきたが、わたしは二つ返事で教会に行くことにしたのだ。
もちろん、教会に行く主目的は、牧師の説法を聞くためである。どうやら彼らの教会は、福音派と呼ばれる集団に属しているようであった。とりあえず地雷感に満ちた進化論のお話は、ご夫婦とも避けて置いた方が良いということだけは察していたが、思いのほか、牧師のお話にはそんなエクストリームな信条は、ほとんど現れない。聞いていて9割ぐらいの話は、「キリストはあなたを見守っています」「家族を大切に愛しよう」「実直にキリストと向き合って生きよう」など、まあ、なるほどというお話である。
みんなで歌う、ジーザスワンウェイ
毎回熱唱するのが、「キリストがあなたを見ている」というフレーズだ。とはいえ、絶叫というほどでもない、小学校の校歌を歌うようなトーンで、彼らの教会の歌が始まり、そしてバラバラの合唱が始まる。むろんわたしも同じように歌うことにした。
清潔、エアコン効いてる、そして人がまともでコーヒーが旨い
たかが2ヶ月であったが、毎週末欠かさずご夫妻に同行し、教会に通ったのには、理由がある。一つはスーパーの居抜きと思われる、教会の建物自体の整備が行き届き、綺麗で清潔なのだ。アメリカの、まして田舎でこのような場所は余り見られない。そして何よりも、来ている人間がまともであるのだ。要するにまっとうな仕事に就き、それなりに外人のわたしと話をしてくれ、幸せそうにしている人である。
ついでであるが、日曜限定のカフェを併設しており、ワシントン州特有のご立派なエスプレッソマシンを備え付けていた。そしてそこらのコーヒー屋とは違って、気前よく濃縮牛乳でエスプレッソ2杯を投入したラテは、格別の味であった。しかも安かったのだ。
家族・兵士・信頼
信徒たちが何を思って教会に行っているのか、たかが2ヶ月ではそれはわからない。ただ大事にしているものが、おぼろげながらに見えてきたのだ。彼らは結婚して所帯を持つことを、心底祝福し、祝う。
ある日、わたしがコミカレで知り合ったアメリカ人の家に招かれた、彼もまた、敬虔なクリスチャンだった。カルトでも無い大学生が大真面目に「君は天国を信じるか?」などという話をし出すのだ。
どこまでも続く農地の果てに、彼の家はあった。ホストファミリーの家からは、1時間自転車を漕げば通学できたが、彼の家からは不可能であろう、車で30分以上かけた先であった。
「人は、キリストを信じて努力すれば必ず家族を食わせることができる」どのような文脈であったか忘れたが、彼はそう言った。わたしはそんなことは無いだろうといろいろ反論していたが、彼の反論は言論では無く、どこまでも広がる彼の父や、ご近所さんたちが懸命に耕した農地であった。美しい農地が、どこまでも続いていた。彼らはその信念を、自らが耕した土の上に抱いていたのだ。
不幸と寄り添い
この町には、失礼ながら産業は多くない。コミカレにあった「イラクで命を賭けるか?トラック乗ろうぜ」という大型トラック教習コースの張り紙が、それをうかがわせていた。
同じ教会に通うご婦人は、息子二人を最近、イラク戦争で失ったのだという。その不幸を、教会の信徒が皆知っているということが、新鮮な驚きであった。無論本人が話しているのであろうが、不幸を誰にも知られぬまま消えていく人たちと比較して、どれだけ健全であろうか。逆に、この町だからこそ、兵士が育つのかもしれない。リベラルで、即物的な社会において、大いなる国家の目標のために、親以外の誰にも悲しまれない命を落とすなど、愚行の極みであろう。
宗教はアヘンか?
この問いかけは、2重のトラップが存在する。まず、この名言を残したマルクスが生きた時代において、そもそもアヘンが今の麻薬のようには忌み嫌われていなかった点だ。ここに、マルクスについてとても詳しそうな人々の団体のリンクを掲載しておくので、詳細はそちらを参考にされたい。
もう一つは、居場所である。麻薬を常用している人に、現代社会にまっとうな居場所はないであろうが、宗教はさして目的の無いコミュニケーションと、集団への帰属の両方を与えることができる。愚かにも、わたしはそれを体験するまで、理解することができなかった。
何がカルトか、何が望ましい宗教か
ここに、「宗教にだまされるな!」というタイトルの本がある。著者はあの、オウム真理教教祖の麻原彰晃だ。お前が言うな、と思うかもしれないが、少し彼の言い分に耳を傾けて欲しい。半分ぐらいは、それなりにまともなことを言っているのだ。残りの半分も、別に否定できる話では無く、単に本だけ読んでも信じれない、というだけの話だ。
「お前は結局、何かを信じているのか?」
わたしは、その2ヶ月で大いに感化されたものの、結局クリスチャンとなることはなかった。その後、どの教会にも通っていない。ただ、あの町に、何かのきっかけで永住することになっていたのであれば、ひょっとすると敬虔なるクリスチャンの仲間入りを果たしていたかもしれない。あの町に、白人のアメリカ人として生まれていたら、おそらくその信仰をもって一生を生きたであろう。
なにを言っても、人は快適に生きたいものだ。まともな人間のコミュニティに属しているのは、大変価値のあることであり、その信条に理屈の入る余地などほとんど無い。カルトを論破してやろうという大学生が、いつの間にか信者になっているというのは、大学生がその宗教的本質を見誤っているところにあるのだろう。
ひょっとすると、人類は1万年ほど前に神様が作ったのかもしれない。わたし自身はそんな与太話を、これっぽっちも信じていないが、真顔でそれを言う人を、思想信条ではなく、人としてまともか否かで判断するようになったのは、この体験の故である。ありがとう、キリスト、ありがとう、教会。
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