読書日記|0320-0326
20230320 晴れ
仕事から帰ってくるときの空がとても綺麗。家に帰るとみんな調子が悪い。猫(つゆ、つな)を病院へ連れて行く。痛いのによく頑張った。はやく治るといい。
病院から帰ると、古書善行堂さんから本が届いていた。『じたばたするもの』『埴原一亟 古本小説集』『木の十字架』『シュークリーム』。ついに灯火シリーズ五冊が揃った。大阿久佳乃さんの本はとてもチャーミング。山本さんからのメッセージに喜んだ。会いたいなあ。
夫はウイルス性胃腸炎だった。
0321 曇りのち雨
『ある日』を読む。
空をみて、月をみて、そんなふうにおもえる感性を、わたしは持ちあわせていないから、とにかくうらやましくて、それでそうして日常につながるようにして読まれていく本も、そのどれもが手にとられることの喜ばしさが滲み出ていて、嬉しくなる。誰かと騒ぎながらする読書もたのしいけれど、日常と繋がりあう読書の美しさを一人でひっそりと感じられる時間が、私はなによりも好きで、あらゆるものが雑音に聞こえてしまうから、静かに、ただ静かに、本をめくる。
0322 晴れ
WBC決勝。なにかに熱くなっているひとをみると、こちらまで熱くなってきて、そういう思いの伝染みたいなの、とてもいいなとおもった。体調が悪くて、本も読めずにぐったりと過ごし、夕方は猫の病院。つなはまだ肝臓の値がすこし高くて、お薬継続。夜、体調は優れないまま、21時には布団にもぐり、項垂れながら寝た。しんどいときは寝るしかない。
0323 晴れ
佑季さんのスペースを聴きながら、小山清の私小説を読んだ。春に似合うなあ、とおもいながら。梅雨がくるまえに読みおわれたら良いのだけど。
0324 晴れ
大阿久佳乃さんの『のどがかわいた』を読みなおす。
日記なのに、ポーズをきめちゃいそうになっては、そういう自分を隠そうと躍起になる。すると、どんどん書けなくなって、何が本音で、何が嘘なのかわからなくなっていく。自分の考えのはずなのに。だけど、そういうものとは、なるだけ向き合っていたい。たまに、ごく稀に、文章を褒めていただけることがあって(数年に一度くらい)、そういう人は、かならずといっていいほど、素直な文章ですね、という。それを私はまるでわからない。なにが、どこが、素直なのかさっぱり。けれど、さっぱりわからない反面、言葉には誠実でありたいと思う。まあ、格好つけたくなるんだけど。
読むのは三年半ぶりくらいだったのだけど、しかし良い本は、何度読んでも、良い本なんだなあと、付箋をぺたぺたと貼り付けた。
0325 曇り
体調が優れず、ずっと布団でじっとしていて、お昼頃カーテンを開けたら、大事にしていた木が根本から切られていた。「絶対にこの木だけは切らないで」と何度も約束していた、道との隔たりとなる場所にあった木で、しかし私にはなんの相談もなく、私の知らぬところで、姿が消されていた。なんで、どうして、という悲しみのあとすぐに感情は怒りに染まった。
どうしようもないでしょう、といわれ、ねぇそうしたら、どうしようもないからと、私は怒ってはいけないの、ということになって、どうして身勝手なことをする人のことは許されて、それをされた側の人は許すという選択肢しか与えられないのかがまるでわからない。許さず、怒っていれば、まだ怒っている、短気なやつ、はやく機嫌をなおせばいいのに、などといわれ、解せない。
上林暁の『星を撒いた街』にある短編「花の精」がふと頭をよぎる。そこにあったものは怒りをも超越した呆れだったのだろう。美しく完璧な終わりかたを遂げることは、今の私には不可能で、男のようにもがこうとする力さえ、わいてこない。
0326 雨
宮崎からきていた叔母が帰った。さみしい。仕事は楽しく、図工をたくさんした。まるで不器用なので、笑われながら、笑いながら、助けを求めては形にしていくことが私を元気にさせ、あっという間に退勤時間。
そういえば、読めない、読めない、といいながら、たぶん読んでいる。きょうは大阿久佳乃さんの『パイナップル・シューズ』だった。オアシスについて、アドリエンヌ・リッチの詩についてを綴る彼女の執筆は、どこまでもどこまでも伸びやかで、と同時に、作品を通じて自身の内側をかぎりなく解放していくような、その息苦しいともいえる誠実さに、わあ、大阿久さんだ、と、ぐっと噛み締める。
とてもいいzineだった。
明日は建築士さんと工務店さんが一年点検に来る日なので、今から大掃除。はやくしていればいいものを、体調が優れず、ギリギリまで無視していた。なんとかしなければ。夫はもう動き出しているので、私も、そろそろ。
それでは、また。