4スタンス理論を使って怪しいアドバイスしてみた

ネットを超えたら落ちろ!
と心の眼で見ながら念じよう。

あるソフトテニス部の生徒にこんな怪しいアドバイスをした。

彼は県大会ベスト4の高校の生徒だが、よくフォアをふかしてオーバーミスに悩んでいた。

このアドバイスを聞いた生徒は急にショットが安定した。
安定感だけでなく球速も目測では明らかに速くなっている。

こんな指導は一般的にはウソやインチキに感じる。ボールは後から念じてもその軌道を変えることはないし、マグヌス効果や重力加速度や入射角などで決まる。

それではなぜこんな変化が起こったのか。


ブレスト・アイ

これは4スタンス理論(骨理学)で「ブレスト・アイ」と呼ぶ概念の応用。
イメージと動きの関係を感覚的につかむためのテクニック。

あるタイプの生徒がある条件でオーバーミスしているとき、この言葉をかけると自然と「ちゃんと入るスイング」に変わる。
あくまで変わるのは打つまでのうごきだ。

科学的な理解に基づいた指導はすごく大事だけれど、説明そのものが科学的かどうかは現場ではあまり価値を持たない

4スタンス理論のプレイヤー級・コーチ級・マスター級ライセンスのうち、マスター級は頭の中では理論を多角的にあつかい、受講者が理解できる感覚的な言葉を瞬時に導くことが求められる。

これはコーチ級とマスター級のおおきな違いの1つでもある。
教科書までの知識で最低限の指導ができるのがコーチ級ならば、専門外の種目にも瞬時に対応できるのがマスター級といえる。

そのためコーチ級までは無償指導しか認められず、有償指導はマスター級以上のライセンス取得が必須となる。


「からだの使い方」界隈のフシギ

世の中にはたくさん「からだの使い方」系メソッドがある。
ぜんぶを取り入れようとすると間違いなく矛盾がおこるだろう。

しかし4スタンスの色眼鏡でいろんなメソッドを見渡すと、たがいに否定しあうように見える理屈はタイプ違いなだけで、たいていはどちらも正しいと気付く。

たとえば物理的には同じ現象でも、タイプが違えばそれぞれ異なる身体感覚の言葉で説明する。だから他人から見れば違うことを言っているように感じてしまう。とくに身体感覚を物理の用語で説明してしまうとこの勘違いがよく起こる。

科学へのコンプレックス

ところで「からだの使い方」系の人には「科学(おもに自然科学)」へのコンプレックスを感じることがたまにある。たとえばこんな言葉は常套句ともいえる。

「私のメソッドは効くけど現代の科学では証明できない」
「私の論は科学的じゃないと言われて不当に否定されている」
「3Dモデルより目の前にホンモノがあるじゃないか」

これらはいずれも認知の大きなゆがみがある。
実際には存在しない"カガクのイメージ"を否定しているからだ。

「私のメソッドは効くけど現代の科学では証明できない」
本当に変化があるなら、変化そのものは定量的(科学的)に計測できる

「私の論は科学的じゃないと言われて不当に否定されている」
→メソッドへの批判は説明が科学的でないことの指摘がおおい

「3Dモデルより目の前にホンモノがあるじゃないか」
→可視化は「見えやすく」するためのテクニック

人は知らないものを怖れるように進化している。
そして「怖い」と「嫌い」は無意識に混ざりやすい

会ったこともないのに「○○人は危険な民族だ」と言うのが典型例。
これと同じことを専門教育を受けていない科学に対してもやっていないか。


変化そのものは科学的に計測できる

メソッドが効くということは、
理由は分からなくてもなにか変化があるはずだ。

ならば変化そのものは定量的(科学的)に計測できるはず。
計測できないなら変化そのものが存在しないことになる。

たとえば野球でカーブが曲がる理由が分からなくても、「球が曲がる」ことはデータとして証明可能である。

人が感じている「実感」は計測できないというのは大昔の話で、100年以上前から計測ノウハウが科学的に積み上げられている。
「知らない」ものを「ない」ことにするのはもったいない。


提唱者の説明が科学的じゃない

科学的でないのは本人の説明の問題であり、
適切な命題を設定すればその命題が正しいかどうかはたいてい説明できる。

「人間には太古の野生から備わる念力でボールの軌道が変わる」
などと主張したら科学で説明できないのは当然である。

うまくいったら念力が正しく働いたといえばいいし、うまくいかなかったら念力の修業が足りないといえばごまかせる。

反証可能性がないので現代の科学がほぼ扱わない範囲であり、科学の領域ではそもそも否定も肯定もできない。
否定ではなくそもそも相手にできないということだ。

念力を使うイメージをするといい感じにプレーできる(かも)
というメソッドそのものを否定しているとは限らない。


データ化は理解するための道具

「科学ではデータ化されないものは価値がない」という勘違いはおおいかもしれない。

専門的な科学教育では口酸っぱく言われることだが、データ化や統計はあくまで道具として使うものであり、当然だが データ化=科学 なんて安易なものではない。

世界の真理をひとりでみつけて満足するならデータ化も統計もいらない。
客観的にほかの人が理解できる説明をするためにデータ化や統計が使われる。

たとえばモーションキャプチャによる定量化を否定すると、主張のためには無限の時間をかけて実例(それも数件ではダメ)を見せる必要がある。

数字を使わないなら統計的手法もつかえない。
すると理論を証明するためには全人類で検証が必要になり、伝えたい相手全員に毎回全件の例を見せなければならない。


おわりに

私たちは「みんなが知らない神秘の力」のようなものに過剰な期待をする傾向があるかもしれない。

そのせいで、個別の「手法」を見つけただけなのに、新たな「真理」や「原理・原則」を見つけたと錯覚するのではないか。

ソフトテニスの例で用いた言葉はあくまで
適切な動作を導くための「手法」の一つ。

しかし「メンタル・ターゲットの原理」など恣意的な名前をつければ、私もまるで天才か先駆者のようにふるまうことができてしまう。

「私だけが知っている身体の神秘」みたいな
情報弱者をだますマーケティングにも早変わりする。
(あとはメンタル・ターゲット協会でも作れば収益化も完璧だ!)

自分の手法を伝えたいなら「この手法いいよ!」
と伝えればいいのであって既知の科学を否定する必要はない。

反対に科学っぽい用語(たいてい誤用されている)で権威性を演出して科学的根拠があるかのように誤解させる必要もない。

私たちは「科学的」という言葉に変な価値を持たせているかもしれない。

良いものは良い。
科学の「範囲外」は個人で好きに試せばいい。
科学的に「否定」されたものだけ避ければ割と幸せになれそうだ。


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