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【短編小説】うどん屋

 町田さんの手術は明日の午前11時からだそうだ。
「どうか。不安か」
レースのカーテンを開けながら町田さんに訊いてみる。四階の窓からは、午後の青空がよく見えた。
「そうねえ。体切るの初めてだし」
天井を見ながら町田さんが言う。
 10年ぶりの再会だった。町田さんの旦那さんから、会いたがっているので、お見舞いに来てもらえないだろうか、と連絡をもらった。
 自分のような人間が。迷惑でしょうと言うと、重ねてどうしても、と言う。
 そこで気がついた。が、口にはできなかった。
「行きましょう」
そう答えたとき、電話口の旦那さんは、喜びます、とだけ言った。
 勿論、結婚して苗字が変わっているのだが、俺の中では町田さんなので、町田さんと呼ぶ。
 10年前、俺は町の鼻つまみ者で、それは今も変わってはいないが。あの頃、俺が社人として働いている神社周りが地上げにあって、土地持ちはあれこれ嫌がらせをされていた。早く売れというわけだ。町田さんの親父さんもそこに土地を持っていた。神社のすぐ隣の土地で、ここは売れないと頑張ってくれたが、とうとう根負けして手放した。
 その嫌がらせされている最中、町田さんがチンピラに襲われかけて、俺がのしてやったことがあった。
 その時、町田さんは泣いた。結局何事もなかったのだから、そんなに泣かなくてもいいはずなのに、その場にへたり込んで泣きに泣いていた。
 俺のそばには、伸びたチンピラと泣き止まない町田さんがいて随分、難儀した。
 数日後、俺のオンボロアパートに町田さんとその父親が、お礼にやってきた。なぜか一升瓶を抱えていた。
「ヨッちゃんは、こっちの方がええんでしょ」
町田さんは笑って言った。その頃、俺は女にはカラッキシで、碌に喋りもできんかったが、酒だけは有り難く頂戴した。
 それから七、八度町なかで偶然会ったが、その度に丁寧に挨拶をされた。俺はその度に赤うなった。
 一年くらいして、また町角で会った時、町田さんは、「結婚するんです」と言った。
「そ、それは、おめでとさん」
答えると、町田さんは、ふふふと笑って、
「だって、ヨッちゃん、ぜんぜん誘ってくれないし」
と続ける。
びっくりした。何を言い出すのかと。
「か、からかっとるんか」
「いいえ。本気でした。町なかで、わざと会ったふりしてお話しても、いつも怒ったようにツンケンして行っちゃうんですもの。ああ、気がないんだって、諦めました」
「俺は女は苦手なんじゃ」
まともに顔が見られない。早くこの時間が過ぎてくれ、と思っていた。
「でも、有難うございます。あのことがあって、私、なんだか吹っ切れたんです」
「吹っ切れた?」
「なんかスーとしたの。私の中のモヤモヤが全部。ヨッちゃんの喧嘩見てたら、スーとした。やれやれ、やっちまえ
って。いつまでもぐずぐず考えてた自分が馬鹿みたいに思えて。そしたらなんか泣けてきて。で、泣き出したら、そうだ、全部泣いちゃおうって。全部、ここで涙と一緒に流しちゃおうって」
「それでか。長う泣いてたな。難儀した」
 町田さんは、またうふふと笑った。
「あの日から、私元気になったの。お見合いもバンバンした。かかってこい!って感じで」
「はは。面白いの」
「だからね、だからヨッちゃん、有難う。一生忘れない。招待状送るから、結婚式来てね。必ずよ」
町田さんは俺にウィンクして、踵を返した。
ほほう、喧嘩もええことあるの。まんざらでもなくて、一人でニヤニヤしとったら、道の向こうで中学生どもがこっち見て、ヒソヒソ話しよる。
「見せ物と違うぞ。おめぇら、食らわすぞ!」
大声でたけると、蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。

 病室に入る前、旦那さんから病状を聞いた。
医者からは、ステージ3で転移もないし、ここでしっかり腫瘍を取っておけば心配ない。
そう妻は聞かされている、と言った。
「じゃ、僕はちょっと席を外すんで、積もる話でもしてやってください」
そう旦那さんは言ったのだった。
 大部屋の窓際のベッドに町田さんは寝ていた。俺を見ると、嬉しそうに笑って、起きようとする。
「ええから。そのままそのまま」
「やっと来てくれた」
「暫くじゃの」
それから言葉が続かない。
「病気のこと、旦那から聞いた?」
「あ、ああ、ざっくり」
「あの人、どこ行っちゃったの」
「なんか、積もる話もあるだろうからって」
「10年も会ってないのに、思い出ていったら、あのポカポカ事件だけなのにねえ。積もる話なんかあるわきゃないのにねえ」
 こういう場合、何か元気づける言葉を言うのだろう。と思って咄嗟に口をついて出た話は、自分でも予想してないもんだった。
「ここへ来る時、外で蕎麦食った」
 なにか喋んなくてはと思って、へんなことを口走ってしまった。まあ、いいか。こんな時は、何を喋るかじゃなくて、喋ることが大事だから。
「あら、ここの食堂じゃなくって?」
「おお」
「食堂、美味しくないの?」
心配げだ。見舞いに来てもらったのに申し訳ないという顔だ。入院してすっかり病院側の人間になってしまったようで可笑しい。
「いや、味じゃない。見舞いの人間は、食べることが目的じゃない。とりあえず食うかみたいな」
「ま、そうよね」
町田さんが窓を見る。寝てる位置からは空しか見えないだろう。それでも少しは気を紛らすことになるのだろう。
「ヨッちゃんは、美味しくガツガツ食べたいわけね」
「まあ、そう」
 二人で笑う。
 昼過ぎなので、大部屋では昼食はほとんどすんでいる。ただし、明日の昼手術がある町田さんには、膳は出ていない。
「悪い。食べられないのに、こんな話題で」
「気にしなくていいわよ。点滴うってるから、どうせ食欲ないし。それより、退院したらそこに連れてってよね」
 看護婦さんがが町田さん以外の人の膳を下げに来た。あ、看護師さんか。
「え。もしかして、ヨッちゃんかのー」
その看護師さんに不意に呼びかけられた。誰じゃ?
「え。どなたさん?」
「あたしも神木町じゃから、ゆーめー人は知っちょります」
町田さんが助け舟をだしてくれる。
「看護補助員さん。カナコちゃんて言うの」
「ああ」
「どうぞ、よろしく」
頭を下げる。なんと答えたらええやら。
「そういえば、私の担当のお医者さんも神木町出身なのよ」
「明日、手術頑張ってくださいねー」そう言って、カナコちゃんが部屋を出しなに声をかける。「ごめんなさいね。ご飯、お出しできなくて」
「大丈夫ですよ。退院したら、いっぱい食べますから」
「そうですね。そん時は、モリモリ食べてくださいねー」
 カナコちゃんがガッツポーズをして、町田さんが笑う。人当たりのいい娘だ。まだ20代に見えるのにしっかりしてる。可愛らしいし、何より明るいのがいい。
 カナコちゃんが行ってしまうと、さっきの話の続きになった。
「ね。連れてってよ。約束よ」
「えっ?」
「だから、そのお蕎麦屋さん。あたしが食べられない間、ヨッちゃんがどんな美味しいもの食べてたのか、確かめなきゃ」
「あ、いや、あそこへは連れて行けねえ」
「えー、どうして」
 町田さんは不満顔だ。だから、そんな次第で、ことの顛末を全部話す羽目になった。

 病院のある駅で降りて、道なりに歩く。昼飯は病院の食堂でとるつもりだったが、病院の敷地に足を踏み入れたところで、すぐ先にうどん屋があることに気づいた。
 病院の食堂は苦手だ。そこでは皆が黙々と仕事のように飯を食っている。見舞いの家族は、食事どころではないんだろう。そう思うと、なんとなく自分も食べんのに気がひける。
 したところ、道の先にうどん屋があることに気づいた。建物は古い。うどんの看板の字も、風雨に打たれ、所々消えかかっている。そんなに腹が減ってるわけでもないので、うどんぐらいが、ちょうどよく思えた。これで食堂に行かなくてもすむ。なんだかホッとする気持ちになった。
 病院の周りは住宅街で、他に食い物屋はない。きっと俺と同じように感じる人間が、他にもいるんだろう。食うときくらい病院を離れて食いたいと思う人間が。営業中の札を見ながら、そんなことを考え考え、引き戸を開けた。
 期待してたわけではない。そんな町なかのうどんの有名店に入るわけじゃない。駅うどん並で充分だった。しかし……。
 これは、と思った。
カウンターだけの店だった。なのにカウンターの奥の2席分はダンボールやら雑誌やらなにやらかにやらで埋まっている。手前のひと席も同様に埋まっている。座れる席は間の五席で、その真ん中に若い痩せた男がいた。黒いTシャツの上に薄汚れた青っぽい柄シャツを羽織っている。前には瓶ビールと、何やらシューマイめいた皿がある。客なのに、この男が「いらっしゃい」と愛想笑いした。
 カウンターの中を見る。そこには小柄な婆さんが、やはり営業スマイルで立っていた。七十は超えているだろう。ひょっとして八十近いかもしれない。
「どうぞ座って」となぜか男が言う。「おばちゃん、お水」
 最早出ようにも出られない。かけうどんでも食べて早々退散しようと思い、男とひとつ席を空けて座る。
 驚いたことに、婆さんは蛇口から水を汲んで俺の前に置いた。冷水機もないのか。壁に貼ってあるお品書きを見るフリをして探してみるが、やはりない。えらいとこに入ったかもしれない。
「ええと、かけうどん」
あい、と嗄れた声で婆さんが返事をして、丼を棚から下ろす。歳の割に体は動くようだ。しかしカウンターのなかもゴチャゴチャ物があって、とても衛生的とはいえない。まあ、うどんは茹でるから大丈夫だろう。
 男はビールを飲みながら、店の奥にあるテレビのニュースを見ている。
「おばちゃん、インボイスってわかる?」
「新しいことは、わからん」
「おばちゃん、自営業だから関係あるよ」
「マイナンバーちゃらインなんとかちゃら、年寄りにはわからん。タツはわかるんの」
「いや、俺もわかんねえ」
 タツと呼ばれた男はビールを飲む。何をしてる男だろう。改めて見ると、下は青いジャージにサンダルだった。どう見ても、会社や事業所に行く格好ではない。しかも昼間からビール。今日は休みか。
 婆さんは、カウンターの中で、あちこち扉を開け始める。何か探してるようだ。
「何、探してるのよ」気づいて、タツが訊く。
「うどんがないのよ」
「買ってあったの」
「あったと思うんだけど」
「そんな棚とか探してもダメでしょ。うどんは冷蔵庫に入れるでしょう」
「いれる。けど、ないのよ」
なおも婆さんは探し続ける。おい、ここはうどん屋だろ。うどんがないって。もしかして、棚の奥から見つかったら、そのうどんを俺は食わされるのか。
「あ、あの。蕎麦でもええよ」
「ソバ?」とタツが答える。「おばちゃん、ソバでもいいって。ソバならある?」
「蕎麦? 蕎麦はあるよ。お客さん、うどんでなくて蕎麦でいいの」
「はい。かけ蕎麦で」
「ごめんね。うどん切らしちゃって」
「いえいえ」
 幸いなことに、蕎麦はすぐ冷蔵庫から見つかった。人が来ないのでケースで買わないのか。袋入りのスーパーで売られているやつだった。
 賞味期限は大丈夫だろうかと、婆さんの手元を見る。まあ、火を通すから。すると、婆さんは鍋に水をはって火にかける。蕎麦屋なのに茹で釜がないのか。
 次に、蕎麦を茹でている間に、婆さんは丼に醤油を入れはじめた。その後、茹で汁でのばして、何事もなかったかのように、蕎麦を入れ、ネギを入れた。
 醤油だけ。スーパーに行けばいくらでも麺つゆくらい売ってるだろうに。蕎麦に醤油。いくらなんでも、そんなことはないだろう。仮にもここはうどん屋だ。うどんはないにしても、うどん屋はうどん屋だ。ああ、うどんには直接生醤油と生卵をぶっかけて食わすこともするか。
 いや、いやいやいや。ここはうどん屋ではあるが、蕎麦もだす。どこの世界に、蕎麦を醤油で食うやつがいる。盛り蕎麦をしょうゆにつけて食うか。誰が食うか。聞いたことがない。
 そうだ。さっき俺が醤油のボトルと見たものは、実はこの店秘伝の蕎麦つゆが入っているに違いない。外見こそ醤油瓶だか、中身は違うにちがいない。
 食ってみた。
 醤油の味しかしなかった。
 まずい。
 全部食べ切れる自信がない。
 ないなら、どうする。
俺は、食べるフリをしながら、腕時計を見た。
「やべえ。もう、こんな時間か。つい、ゆっくりしちまった」
と、言わなくてもいい独り言を言い、残りの蕎麦をかっ込むフリをして、急いで箸を置いた。
「おばちゃん、ごめんよ。時間がねえんだ。お代、ここ置くよ。お釣りいいから」と、丼の中を覗かれないうちに、五百円玉をカウンターに置いて逃げた。

 俺は普段マズイは言わない。作ってもらって、多少口に合わなかったからつって、マズイなんていうやつは人の道にもとる。そういう時は味を言わずにゴッツオーサンだけ言やあいいんだ。勿論うまい時は、うまいって言やあいい。
 しかし、これも程度の問題だ。よく店があるな。俺は外にでて、看板見た。確かに"うどん"て書いてある。だがな、この店にうどんはねえんだ。

あはは、と町田さんは笑った。
「これでも連れてってほしいか」
一応、訊いてみる。
「いや。いいわ。いいです。ひさびさに笑うたわ」
「だろ、酷い目にあった」
町田さんは笑顔だ。くだらない話だけど、これはこれで、して良かったのかもしれない。そう思いながら窓辺に寄る。
「そこから見える?」
「何が」
「だから、そのうどん屋さん」
ああと言って探してみる。幸い町田さんの病室は、病院の玄関側だった。道路沿いに辿ると、古い瓦屋根の家が見える。あった。確かにあそこだ。
「あった?」
「あった。あった」
「どう? お客さん、入ってそう?」
目をこらす。
「わかんないがな。でも、人気はないな」
町田さんはまた笑う。
「ぜったい、ぜったい行きたい。そこ、元気になったらぜったい行く」
「えっ? いいって言ったろ」
「いいって、面白いってこと。行きたいってこと。行きたいわ、私。うん。悪いとこ切って、元気になって、醤油蕎麦食べたい」
「俺はごめんだ」
「行きたい。お婆さんにも会いたい。その醤油蕎麦、どんなに不味いか、食べてみたい」
 思いがけず町田さんの顔は生気に満ちた。俺は、それだけでなんだか嬉しかった。
「おーし。じゃ、元気になったら旦那も混ぜて食い行くか。また、病気になっても知らねえぞ」
「食う食う。約束ね。あたし、ガンになんか、負けてたまるか!」
 ちょっと声が大きい。いつのまにか、大部屋の人たちは、お見舞いの人を含めて私たちを注目していたらしい。斜め向かいのご家族が、こちらを向いてニコニコしている。隣のベッドのお爺さんは、寝たまま拍手する。音は弱々しかったけれど。
「すんません。お騒がせしまして」
と頭を下げ、町田さんを見る。
「大丈夫、うまくいく」
そう言うと、町田さん頷いた。

 窓辺に寄って、またあのうどん屋を見る。病院から出た人影がうどん屋に入る。女のようだ。まさか、と思っていると、女は男と連れ立って出てきた。
 男は、あのビールを飲んでいた男だった。すると、男は女を待っていたのか。待つなら、待合室でも食堂でもあろうに、と思って見ているうち、女の正体にも気づいた。女はさっき病室に来たカナコちゃんだった。私服に着替えていたが間違いない。彼女だ。
二人は何やら話しながら駅に向かう。その姿は兄妹のようにも恋人のようにも見えた。
「何、どした?」
町田さんが訊く。私は、なんでもない、と向き直り、
「覚悟しちょけよ。醤油蕎麦、とびっきりマズイかんな」
と言った。

            了

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