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祝・サブスク解禁! みんなで一緒にRADWIMPSを聴こう。



本日より、RADWIMPSの全メジャー作品が、主要音楽サブスクリプションサービスにて配信開始されました。

今回は、過去に僕が執筆した、RADWIMPSについての5つの記事を、内容を一部抜粋しながらまとめました。

今回のサブスク解禁をきっかけに、彼らの音楽が、一人でも多くの人に広がっていったら嬉しいです。



RADWIMPSは、今日も「愛」と「理想」を鳴らす

緻密で暴力的、ロジカルでエモーショナル、無数の音と言葉が燦々と降り注ぐ、光のミクスチャー・ロック、その最新型。決して既存のフォーマットに収まろうとしないその先鋭的な表現が、2万人を超える観客に「ポップ」なものとして熱狂的に受け入れられている。その眩い光景に、強く心を打たれた。
彼らがデビューした当時、ゼロ年代の日本のロックシーンにおいて、RADWIMPSはあまりにも過激な存在だった。それは、野田洋次郎の歌う「愛」の形が、宗教的なまでにラジカルなものであったからだ。ただ「君」のことだけを想い、「君」にとっての「僕」が「僕」の全て。真っ直ぐだからこそ生々しく痛々しい、その一人称の「愛」が紡がれることによって、この世界が成り立っていることを証明する。そうした過剰で過密なRADWIMPSのラブソングは、しかし一瞬にして熱狂的な支持を得た。女々しくて情けない、それでいて真っ直ぐに真理を射抜いた「愛」の歌は、ロックシーンにおいて強く求められていたのだ。今でこそ、多くのロックバンドが当たり前のようにラブソングを歌うようになったが、ゼロ年代の日本のロックシーンに、その礎を築いたバンドの一つがRADWIMPSだ。
そして、「愛」の更に先に広がる「理想」を、野田は一切臆せずに言葉にして伝え続けている。悲しい歴史を繰り返すことなく、昨日より今日が少しでも素晴らしい世界になるように。その世界で、僕たち一人ひとりが少しでも明るく輝けるように。「あらゆる境界線を取り払い、人々を一つに繋いでくれるサッカーという競技」をテーマに制作された新曲"カタルシスト"にも、そうした清廉な願いが込められている。
ロックバンドは、「愛」と「理想」を歌うべきである。照れることも、恥ずかしがることも、斜に構えることも、諦めることもせずに、堂々と。ロックシーンにおいて、この共通認識は、年々強まっているように感じる。だからこそ、RADWIMPSが担うべき役割は大きい。彼らが正真正銘の国民的バンドになった今、より強くそう思う。


RADWIMPSの物語は、『君の名は。』の先へと続いていく

凄い。全編にわたって、圧倒的な自信と確信に満ち溢れている。もはや、全能感、王者の風格さえ感じさせる作品だ。1枚のアルバムが放つエネルギー量としては、明らかに常軌を逸していると言えるだろう。
この2年間、RADWIMPSが紡いできた「『君の名は。』以降」の物語が、見事に、そして思ってもいなかった形で結実している。自分たちを真の国民的バンドに押し上げた『君の名は。』に完全に決着をつけながら、野田洋次郎は、その狂おしい創造性を加速させ続けているのだ。何より恐ろしいのは、時代と完全にシンクロした成功体験を持ちながらも、決して保守に転じていないこと。世間との摩擦を恐れることなく、先鋭的な表現を徹底的に追求し切った結果が、全17トラックの大ボリュームを誇る今作『ANTI ANTI GENERATION』だ。
矛盾する表現ではあるが、総合力が尖っている。断言してもいいが、そんな特異なパラメーターを持つ音楽アーティストは、広い世界を見渡しても野田洋次郎の他にいない。
時代の必然として避けて通れないヒップホップやビートミュージックとの融合、そして、コラボレーションという制作アプローチなど、野田のソロプロジェクト・illionから輸入されてきた要素も大きい。バンドのクリエイティビティが、より自由に、より大胆に、外の世界に向けて開かれているからこそ、今までになかった音楽的な幅、深度、そして強度を獲得している。その結果として、今作は、全世界7つの国と地域で、ロック・チャート1位を記録した。日本の音楽シーンに、RADWIMPSというロックバンドがいることを、僕はとても誇らしく思う。


愛にできることは、まだあると信じたい。

昨年12月にリリースされた『ANTI ANTI GENERATION』の楽曲を基軸とした今回のツアー。あのアルバムが圧倒的な密度/濃度/熱量を誇っていたからだろう。あまりにもハイエナジーなロックサウンドが炸裂し続ける、怒涛の2時間半であった。特に後半の"IKIJIBIKI"、"君と羊と青"、"いいんですか?"という大合唱の3連打には、本当に胸が熱くなった。ステージ上の5人と、37,000人の観客が、それぞれの魂をお互いにぶつけ合うような、唯一無二のコミュニケーション。「音楽」の根源的な力、そして規格外の可能性を、空気の震えを通して確かに体感できた。スタジアムのワンマンライブだからこそ味わうことができた、あの歓喜、あの興奮、あの一体感を、僕はいつまでも忘れたくない。
そして、本編ラストに披露されたのは、新曲"愛にできることはまだあるかい"。あまりにも素晴らしいパフォーマンスだった。新海誠監督の最新作『天気の子』の予報映像において、既に楽曲の一部が公開されていたが、今回、初めてこの曲の全貌に触れたことで、野田洋次郎の「真意」が伝わってきたように思う。
あらゆるラブソングか歌われ尽くした後に。あらゆるラブストーリーが語られ尽くした後に。それでも、まだ「愛」にできることはあるのだろうか。そのように問いかける同曲には、同時に輝かしい確信が秘められている。そう、愛にできること、僕たちにできることは、まだあるんだ。
RADWIMPSは、これまでの長いキャリアの中で、様々な形のラブソングを届けてきてくれた。しかし、僕たちが生きる今という時代に対して、「愛」の存在意義と可能性を、これほどまでに真摯に訴求してみせる楽曲は、かつてなかったのではないだろうか。語弊を恐れずに言えば、それは、「個」と「個」の関係性を超えた、壮大にして普遍的な、究極のラブソングだ。


RADWIMPS、Mステ出演。 『天気の子』を讃える2曲の「愛の唄」に震えた。

1曲目に披露されたのは、”グランドエスケープ”。燦々と輝く電子音が乱反射する中、透徹なピアノの調べに優しく導かれてゆく。そのあまりにも美しい導入部に、まず息を飲んだ。中盤、三浦透子と野田洋次郎のボーカルのラリーによって、静かに、しかし確実に高揚感が増していく。そして、感情の高まりが絶頂へ達した時、逞しく躍動するリズムに合わせて、100名のゴスペル隊による合唱が壮大に響き渡る。その果てしない祝祭感に、心が解放されたような気持ちになった。
続けて、”愛にできることはまだあるかい”へ。既に、この夏を席巻する時代の唄となりつつある同曲だが、聴く度に新しい発見がある。オーケストレーションとバンドサウンドの融合は、3年前の『君の名は。』制作時よりもその深みを増している。また、一筋の眩い光が、ゆっくりと差し込んでいくような後半の展開は、言葉を失うほどに神々しい。
背景の巨大ビジョンには、新海誠監督が自ら編集したという『天気の子』の特別映像が映し出されていた。一つ一つの歌詞と映像のシンクロを見ることで、野田が提供した「愛の唄」こそが、この映画が伝えるメッセージの核心を鮮やかに体現していることを再確認できた。


「あれから、僕たちはどう生きたか」

3月11日。この日に、RADWIMPSから新曲が届けられるようになってから、もう何年も経つ。"白日"(2012)、"ブリキ"(2013)、"カイコ"(2014)、"あいとわ"(2015)、"春灯"(2016)、一年スキップして、"空窓"(2018)、そして"夜の淵"(2019)。正式に音源化こそされていないものの、どれも、心の奥底まで深く優しく突き抜けるような印象的な楽曲ばかりだ。
今年の3月11日に届けられた楽曲は、"世界の果て"。今までの楽曲と手触りは大きく異なり、はっきりと言ってしまえば、不安や恐怖、緊迫感といった負の感情を、恐れることなくストレートに描写している。
2021年。東日本大震災から10年という一つの節目を前にした時、「あれから、僕たちはどう生きたか」という問いに直面することになる。だとすれば、その日に向かって一歩ずつ歩む今日を、明日を、そしてその先の全ての一日を、「僕たちはどう生きるか」という現在進行形の問いに改めて直して、日々、生きていかなければならないのだと思う。あの日から続く、一歩一歩の積み重ねが、僕たちの未来を象っていく。毎年届けられるRADWIMPSの音楽は、いつだって、そのかけがえのない真実を伝えてくれる。今年も、そんな楽曲を聴けてよかった。

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